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うらみから離れる

NHK「ブッダ 真理のことば」より

諸行無常の科学

「釈迦の仏教」の話をする時、もっとも共感してくれるのは、科学者の人たちではないかと私は思っています。実際、私の話を聞いて興味を持ってくれた科学者が何人もおられます。多種多様な仏教の中でも「釈迦の仏教」は神秘主義がほとんど入らないので、科学の世界の人たちもあまり抵抗なくロジックを共有することができるようです。

また、超越存在を認めず、世界を原因と結果の機械論的因果則でとらえようとする視点も、「釈迦の仏教」と科学で共通しています。仏教はその因果則を精神内部の向上に利用し、科学は外界の法則を探求するのに使うという違いはありますが、論理性のレペルにおいて両者に大きな相違はありません。

この点をもう少し具体的に見てみましょう。「諸行無常」の原理は、次のようなたとえで説明されることがあります。

いま、目の前の机の上に鉛筆が置いてあるとします。そのまま置いておけば明日も同じように机の上にあるでしょう。その姿は今日と全く同じはずです。あさっても同じでしょう。では、これをまったく動かさずに千年間放置したら、どうなるでしょうか? 間違いなくボロボロになっているはずです。では、その鉛筆はいつボロボロになったのでしょう。こう問われた人はたいてい、一瞬「ウッ」と答えに詰まりますが、すぐに正解を見つけます。

正解は、千年間のあいだのあらゆる瞬間です。鉛筆は、それが机に置かれた瞬間から朽ち続けているのです。五分前と今、昨日と今日の比較では全く変化していないように見えますが、じつはとどまることなく、時々刻々、朽ち続けているのです。

私の尊敬する仏教学者、木村泰賢さんが、「映写機」を使った比喩で、諸行無常についてわかりやすい表現をなさっていたのを記憶しています。この世の時間の流れは映写機のフィルムのようなもので、まだ見ていないコマが未来で、それがランプの前に来てスクリーンに映し出されたその瞬間が現在、映し終わってりIルに巻き取られた部分が過去であるIというたとえです。

スクリーン上の映像はたいへんな速さで移り変わっていくので、観客の目には一つの存在物が連続して動いているように見えますが、じつはIコマーコマ区切られた別個の静止物であり、それらが一瞬毎に生まれては消えていく、その連続がこの世の真の姿なのです。この世はこれ以上分割できない短い時間のコマからできあがった集合体である、という考えです。

その「これ以上分割できない短い時間のコマ」、それを仏教では「刹那」と言います。そして、宇宙に遍在しているいっさいの事物は、刹那、刹那でうつろっていくと考えます。これはまさにデジタルな時間概念なので、同じような感覚で世界をとらえる理論物理学の方などはたいへん面白がってくれます。

じつは私は浄土真宗の寺の子に生まれながら、家業を継ぐことへの反発から、一時は科学者を目指した変わり種です。その後、「蛙の子は蛙」で、やはり仏教の世界に戻ってきたのですが、科学への憧れは現在もずっと続いています。今では科学者の方だちと一緒に、分野横断的な公開トークセッションを主宰したりしているのですが、科学と仏教が噛み合って面白い展開になることがよくあります。

仏教を脳科学から考察するということも、いま私が非常に興味を持っていることの一つです。

たとえば、先ほども述べたように、この世の時間は、フィルムのIコマーコマのようなデジタルな断続性から成り立っているのだとしても、それをわれわれは、一本のスムーズな連続性としてとらえます。それは、脳の認識の機能と、どのようにかかわっているのでしょうか。

人間の脳というのは、目の前で起こっている切れ切れな現象の隙間を、推測という機能によって補い、途切れなく連続したものとして認識するようになっているようです。その証拠に、世の中にはこの補足機能がなんらかの理由で欠けてしまって、現象を途切れ途切れにしか認識できない人たちがいるという報告があります。

その人たちは、コップに水を注いでいる時、水が少しずつコップにたまっていくという見方ができません。「からっぽ」「半分」「一杯」というように、切れ切れにしか認識できないのです。今この瞬間、コップに半分まで水がたまっていることを認識し、次にコップを認識した時には、もう水はあふれている、という具合ですから、うまくコップに水を注ぐことができないというのです。

もしかすると、じつはそちらのほうが、客観的な世界の認識としては事実なのかもしれません。いったいどちらが本当の世界の有り様で、どちらが脳によって補正されたヴァーチャルな現れなのか、それを究明するのは脳科学の領域です。

また、先はども申しましたように、私たちはつい自分勝手な解釈で、自分だけはいつまでも元気なのだとか、今のこの楽しい毎日はずっと続くのだとか、漠然と思い込んでいます。すなわち、自分本位の誤った世界を自分の中に構築してしまいます。それをブッダは「無明」と言ったのですが、それももしかしたら、煩悩のなせるわざというよりも、脳の認識機能の問題なのかもしれません。

だとすると、それは、修行という自己鍛錬によってどの程度まで正すことができるのか。それとも、脳の宿命的な構造として、最終的には無理なのか。これらは、最近とくに私が興味を持って脳科学者の方々にお訊ねしている質問です。

悟りとか瞑想といったものに科学的にアプローチすることは、きわめて現代的な問題だと思います。悟りというものが精神論を土台とした仏教世界だけの話でなく、サイエンスとしても普遍の真理であるー、というような話になったら、「釈迦の仏教」の見方も変わり、面白い展開になるに違いありません。
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