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図式

『純粋理性批判3』解説より

概念を感性化し、直観を概念化することはどのようにして可能になるだろうか。カントはカテゴリーが働くためには幾何学における皿の丸さのような「同種のもの」ではないが、異質なもののあいだを媒介とする「第三のもの」が必要だと考える。そしてこの第三のものがこうした異質なものを媒介するためには、二つの要件が満たされている必要があると考える。第一に、心に思い描かれた像のように具体性をもつという性質と、カテゴリーのように純粋なものという両方の性質をそなえていなければならない。第二に、現象と同じように感性的なものであるという性質と、カテゴリーのように知性的なものであるという性質をそなえていなければならない。このような要件を満たすものが、カントが「超越論的な図式」と呼ぶものである。

これが「図式」と呼ばれるのは、それが純粋でイデア的なものであると同時に、「丸さ」のような感性的な図形と同じ役割をはたすことが期待されているからである(第一の要件)。またこれが「超越論的な」図式と呼ばれるのは、こうした図式は、感性的なものであると同時に、あくまでも有限な人間の知性としての性格にふさわしいものでなければならないからである(第二の要件)。これは対象一般を可能にするような超越的な条件であることはできず(すなわち物自体にかかわることはできず)、たんに「人間の経験が可能となるための[超越論的な]条件として」、現象とかかわるだけである。

すでに確認したように、ある具体的な個物を認識するためには、対象の直観を概念化し、直観に適用される概念を感性化する必要があった。ということは、「知性の概念が使用されるときには、感性の形式的で純粋な条件の制約にしたがわねばならない」ことを意味する。そして感性の形式的で純粋な条件とは何だろうか。もちろん空間と時間である。その両方にしたがうことはできないのだから、どちらかの条件の制約にしたがう必要があるだろう。カントはその条件として空間ではなく、時間を選ぶ。すでに概念が対象に適用されるための総合が、過去、現在、未来という時間的な契機にしたがわねばならないことは、初版のカテゴリーの根拠づけにおいて詳しく考察されてきた。このことからみても、カントが時間を選択したのは、きわめて自然なことと言えるだろう。

さきに、知性と感性を媒介する「第三のもの」に必要な要件が二つ提起されていた。第一の要件は、心に思い描かれた像のように具体性をもつという感性の側の性質と、カテゴリーのように純粋なものという知性の側の性質の両方を兼ねそなえていることだった。ところで時間は、「内的な感覚能力で描かれる像の多様なものの形式的な条件」であることで感性と共通したものであると同時に、「純粋な直観のうちに、あるアプリオリな多様なものを含」むという意味で、カテゴリーおよび知性と共通したものである。こうして、時間は第一の要件を満たすのである。

第二の要件は、現象と同じように感性的なものであるという性質と、カテゴリーのように知性的なものであるという性質を兼ねそなえていなければならないことだった。ところで時間は、「普遍的なものであり、アプリオリな規則にもとづくものであるという意味で、カテゴリーと同種のもの」であると同時に、「時間は、多様なものを心のうちで経験的に思い描いたときに、その像のうちにつねに含まれる」という意味で、現象と同種のものである。

このように時間は、感性と知性を媒介する「第三のもの」に必要なすべての要件を満たしている。だから超越論的な時間規定こそが、知性の概念の〈図式〉の役割をはたすのであり、「この時間規定を媒介として、現象がカテゴリーのもとに包摂される」ことになる。このように図式論の役割は、時間という条件によって、カテゴリーが外部の対象に適用される可能性を示すことにある。対象にカテゴリーが適用できるのは、図式のうちにカテゴリーの時間規定が時間の系列、内容、秩序、総括としてすでに含まれているからである。カテゴリーが時間規定のもとで実際に対象に適用される方法は、次の原則論が示すことになる。
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