goo blog サービス終了のお知らせ 

日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

残したい道場

2013年05月11日 | しっちょる岩国
           

 名勝・錦帯橋から西岩国駅へ向かう通りは大名小路、善教寺小路、新小路と西岩国駅まで上っていく。その善教寺小路に「岩国錬武場」がある。それは錦帯橋から1キロほどのところ。その錬武場は昨年のこの頃、市内で11件目の国登録有形文化財に「歴史的景観に寄与」しているとして指定された。

 錬武場は、岩国藩士で剣術家の長谷川藤次郎の長男としてこの地に生まれ陸軍元帥・長谷川好道の生誕地にある。死去1924(大正13)年の翌年に土地は岩国市に寄付された。その生誕地に武道を好んだ元帥の遺志により、有志者によって記念道場として建てられたもので、1927(昭和2)年に落成した。内部は主体部に演技場および正面の師範台を、右側の葺き卸し部分に観覧席と支度室を設けている。広さは約325平方メートルで、剣道場として使用されている。

 有形文化財として認定の「歴史的景観」とは内部の仕様と合わせ次のような説明だろうと勝手に思っている。木造平屋建寄棟造りに下屋(げや)を葺きおろし、正面に唐(から)破風(はふ)の玄関を設けている。外壁は杉板の下見(したみ)板張とし、回転式の天窓をもつ引き違い窓を開ける。正面基礎は人造石洗い出し、その他はセメントモルタルとするなど和洋折衷様式となっている。最近、屋根や玄関周りが修復された。

 この錬武場が月刊誌「剣道日本」6月号の表紙に「ずっと残したい道場」として掲載されていることを知った。残したい理由を知りたくて書店や図書館をたずねた。類似の雑誌は置かれていたが、残念ながら1975年創刊という目的の本は見当たらない。

 残されることに関心を持ったのは岩国検定実行委員会のメンバーの一人あること。また、家から徒歩2分のところに所在する、全日本クラスの選手を輩出している、それを受け継ぐ少年剣士等の気合いの入って掛け声が今も場外に響かせていること。

 少年剣士がんばれ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竹の新用途

2013年05月10日 | 生活・ニュース
           

 道と山の際にのぞいたタケノコ、皮1枚残して切り倒されている。タケノコといっても食するには誕生から少々日が経ち過ぎている。撮った時は切り口がぬれていたので、倒されたすぐ後だと思う。一刀両断、切り倒した人もタケノコに恨みがあったわけではなかろう。この場所で成長されたら通行の邪魔になる「すまない」と詫びながらの始末だっただろう。

 タケノコは出る場所を自ら選べるのだろうか。思うがままに地中を這う竹の根に主導権があるようにおもう。タケノコは食材としては旬を代表するひとつとして重宝される。そうした竹林は雑草はなく日当たりも申し分ない手入れをされ、竹はすくすくと伸びている。一刀両断にされる竹林は管理放棄され荒れるに任せた、よく言えば自然に返っている。

 よく通る道そばの竹林、タケノコの季節には運搬用の軽トラにどっさり積みこまれているのをよく見ていた。今、その竹林は日ざしも通さないほど荒れている。青い竹に交じり枯れや倒竹、その間を伸びた背丈以上の雑草が包み「小さな獣も通れないだろう」と思いながら見て通る。竹を上りきった蔓が行き場がなくて垂れ下がって舞っている。

 そんな肩身の狭い思いをしている竹の新しい用途を知った。樹脂製に決まっていると思っていたPCのキーボードとマウスの外装、それがオールハンドメードと銘打った100%天然竹製のものがある。映像を見た感じは天然の風合いがよく生かされていて、使いこめばいい色合いになるだろう、おしゃれだ、と眺めた。使用している人は「癒しの効果もある」という。

 木材と違い竹は成長が早い。少々の用途拡大では荒れた竹林は解消されないだろう。「竹藪に矢を射る」、これは見えない目標に向かって矢を射る意味から、「無益なことのたとえ」として伝わる言葉。樹脂に取って代わろうというアイディアは決して無益ではなく、荒れた竹藪解放の小さな一矢になれるかもしれない。使用者には好評という。もし、PCを更新することがあれば手にしてみたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

60年前の1枚は

2013年05月09日 | 回想
          

 パステル画同好会で活躍中の知人から「時間があれば見に来てください」という絵画展の案内が届いた。これまでにも何度か拝見している。展示の作品は明るい画風で、パステルの特徴なのか、色に油絵のようにどっしりとした重厚感はない。かといって作品が軽いわけではない。人物も風景も生物も生き生きとしており、赤子の作品には話しかけたくなる。作品は抽象的だったりデフォルメされていないので、描かれているものが直に伝わり、飽きないで鑑賞できる。

 県立美術館を年に何度か訪れていた。それが遠のいて何年にもなるが、行きたい気持ちは持ち続けている。後ろから押されながらの鑑賞を終えた時は「多くの人と芸術作品への思いを共有できた」と喜ぶ。ゆっくりと思うがままの時間で鑑賞した時は「満足満足」と喜ぶ。その程度の鑑賞眼しか持ち合わせていない。

 だから「作者はこの絵、この写真に、斯く斯くしかじかの想いをこめている」「世界平和を願った表現」などという解説を読んだり説明を聞いても、何が描かれ何が撮られているのかいっこうに分からない作品に出合うことがある。その理解力の無さとその悔しさを何度も味わった。

 最近は絵を描くことはなくなった。高校のころは乗り物や動物などを描いて入園前の子どもを喜ばせたことはある。。小学校のころは指導を受けながらよく描いた。その中で一番の思い出は6年の時、放課後、1週間くらい吉香公園に通い錦雲閣を描いたこと。その絵は図画の先生の「預かるから」という話は記憶しているがその後のことは知らない。60年前の錦雲閣、どこかに紛れ込んでいるものなら出てきて欲しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金色の帽章

2013年05月08日 | 回想
           
 
 60年も前に卒業した小学校は1847年、 岩国藩12代藩主吉川経幹(きっかわつねまさ)創建の藩校「養老館」をルーツとする歴史を受け継いでいる。学校は家から数分のところ。そばを通るときに必ず見るのは講堂の玄関上部の外壁で主のように構える校章。ひし形の中に「岩」の文字、その両脇に一対の支えがある。入学のときから変わらない。

 当時は学生帽を冠って登校していた。帽章は校章をそのままで金色、もちろんメッキ、それを帽子の正面、つばの上側につけていた。中学、高校も学生帽は制帽として義務つけられていた。どの学校の生徒かは一目瞭然、度の過ぎた行為の抑制効果は多分にあったと思う。今は学生帽を冠った生徒を見かけない。着用のメリットは大いにあると思う。

 小学校は市立岩国小学校なので「岩」、中学校は市立岩国中学校なので「岩中」で、現在の感覚からはすれば実にシンプルだがそれでよかった、と思っている。校章と校歌は一対と思う。校歌、小中校共に新しくなっているようだが、旧校歌は物忘れの始まった今でも脳の奥から出てくるから不思議だ。

 帽章のねじれに気付くと、中高校生になってもすぐに直していたことを思い出す。そんなことで校章を身近に感じ生徒としての自覚も促していたと思う。今、運動場で体操や休み時間に遊んでいる児童らにも、いつか校章とその時代を思い返す時があるだろう。それは、いい思い出であってほしい。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

味は引き出すもの

2013年05月07日 | エッセイサロン
            

 散歩コースのひとつ、宇野千代作の「おはん」に登場する臥龍橋を渡って右折、錦帯橋下流で錦川の流れが直角に変わる龍江と呼ぶ淵を通って紅葉谷公園に向かう。そこは名勝・錦帯橋から歩いて数分のところにあり、名称に恥じない紅葉の公園としてその季節には多くの人から感嘆の声が聞かれる。

 その紅葉谷公園の手前に定年まで勤めた会社の和風の施設がる。それは藩政のころ身分ある方の邸宅跡。何度も、といっても仕事で利用した。内部は庭と合わせて武家の住まいそのままが残されている落ち着いたたたずまい。退職後は外観の四季を眺めながら通る。玄関前の庭がTVドラマに華を添えたこともある。ここでのおもてなしは施設に似合った和食で、食材も器も吟味されたもの、と聞かされていた。

 料理研究家の土井善晴さんは「和食」についてこう語っている。「私が考える日本料理の究極、それは、旬の素材を選び、美しい姿、色はそのまま活かし、味付けも必要最小限にすることです。一つ一つがそのままの姿であることが、私たち料理人にとって一番の仕事。形がそのままだと、ごまかしがきかない。味は作るものではなく引き出すもの。それがまさに和食、日本料理の美意識と言えるのではないか」

 エッセイの題材は自分の感覚で捉えるしかない。そこから先、それをどう表現するか、感動の表現について月例会でよく教えられる。和食を食べ終えた感想が「美味い、甘い、苦い、辛い、酸っぱい」などでは感動を書いたとにはならない。魅了させられたり興奮した造り、口にしたときの歓喜などを自分の言葉で書く、それが書くことで和食の「味を引き出す」ことになる。それを囲むたたずまいも含めてのことだ。題材の味を引き出す、この課題はたやすいことではないがこれからも心して作品つくりに向かいたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生き物観察記

2013年05月06日 | 自然 季節
           

 陽気がよくなり人出に負けじと虫らも出始める。それを先取りするのが防虫品。玄関に虫を寄せつけないという、どこにでもいるおばさんCMが盛んに流される。ということはおばさん効果、いや失礼、薬効があるということか。なんでも半年以上も効くという宣伝に惹かれる人もあるとか。CM観察記より。

 偶然だが、我が家のバラの花びらの奥に頭を突っ込んだミツバチが1匹いるのを見つけた。眺めていても動かない、花びらの奥に入りすぎ挟まれているようにも見えるので少し花びらを動かした。すると横向きに変わり頭が見えた。生きている。なおも見ていると、何事もなかったように飛び去った。ただ花の奥へ入りすぎ動けなくなった、という観察記にしておこう。

 巣作りの候補地探しだろうか、アシナガバチもやってくる。人に発見されにくいところが彼らの好む場所、それだけに巣作りの初めは気づかずにいる。毎年、何個かの巣を取り除いている。殺虫剤を惜しげもなく散布した後でもぎ取る。もぎ取ってからしばらくの間はハチが帰ってくる。ハチにしてみればそれまでの労苦を一瞬にして失う、人に例えれば胸がしめつけられるほどのつらいことだろう。そう理解しながらも身の安全のため取り除きは止められない。ハチは攻撃のとき髪や目の黒を狙う、と観察記に走り書きしている。

 ヘビほどには思わぬが、あまり気持ちよくて恰好いいとは思わないトカゲ。それでも下級サラリーマンの心持をこれほど理解してくれる生き物は他にいないのではと思う。「問い詰められて責任を部下にかぶせて逃れる」ことをトカゲの尻尾切りという。苦い経験は上司観察記に記録されている。

 そんなトカゲ、日ごろは人目につくとさっと穴に隠れる。ところが庭で見つけた1匹。右の前足で地面に穴を掘るしぐさ、そこへ頭を押し付ける。その2つを何度も繰り返す。実に真剣なしぐさで近寄っても警戒の様子はない。何が起きるか数分見続けていたが、何事もなかったように植え込みへゆっくりと立ち去った。その跡を観察してみたが、特段のことはない。さては餌となる虫が地中にいたがあきらめた、という観察記としておこう。生き物万歳の季節到来だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子どもの日の鯉

2013年05月05日 | 生活・ニュース
            

 4連休の3日目、昨日の不安定な日和はがらりと転じて立夏の名に恥じない夏の入りを思わせる好天。子どもの日でもあり錦帯橋下流の川原、上流の河川敷広場の駐車場は共に満車、吉香公園内2カ所のそれも満車、列して空きを待たれる車は他県ナンバーが多い。いい思い出でを持ってお帰りください。

 1948(昭和23)年というから終戦早々に国民祝の日として制定された「こどもの日」。「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことを趣旨とした祝日。女の子の節句は3月3日、男の子の節句は5月5日としていたが、祝日に関する法律では、男女ひっくるめて「こどもの日」とした。

 しかし昔からの名残で男のいる家では強く逞しく育てと鯉のぼりを立てたりする。その鯉のぼりが風に泳ぐ姿が町中では少なくなった、というより極端に減った。散歩のテリトリーで旧来の姿の鯉のぼりを見かけたのは一カ所だけしかない。鯉のぼりの朝夕の上げ下げは大変だし、住宅密集域では掲げる場が取れない。そんなこともあり、園児手作りや百均の鯉のぼりが玄関番をしている家を見かけと何か微笑ましさを感じる。

 鯉といえば広島カープ。例年ならこの時期はAクラスか、もしかしたら優勝か、などと気を持たせているが、今年はそんな声が聞こえてこない。地元一般紙も厳しい注文の記事が目につく。カープの2軍が本拠地とする由宇球場で野球少年の観戦が多い。「前田健太投手みたいな投手になりたい」と目を輝かせる子どももいる。広島カープ「子どもにいい夢を与えて」と子どもの日に願う。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネギ坊主と擬宝珠

2013年05月04日 | 生活・ニュース
           

 生活の知恵、といえば高尚に聞こえるが本当は違う。我が家のプランタンのネギは移植したもの。ネギを買った時に元気そうで長いな根が付いているとそれを白い部分を10センチあまりのところから切り、植える。夫婦2人の食いぶちとしては十分な収穫がある。

 この移植は恥ずかしいことかと思ったら、同類の人も身近にありほっとしたことがある。この移植栽培も長くは続かないので、適当に植え変えているが最近は思い通りにならない。それは元気な根の部分が散髪の5分刈ほどに短くなり、移植に適さないものが店頭に並ぶ。自作ネギの増加が農家の出荷慮に影響しているのだろうか。

 ネギは暑さ寒さどちらにも強いのか素人でも大したことをしなくても育ってくれる。それだから味噌汁、冷奴、蕎麦、うどん、鍋などなどの薬味として1年中欠かせない食材の一つになっている。そんなネギも春になってねぎ坊主と呼ばれる花をつける。アブラナ科の黄色い花は「春がきた」と人々は迎えてくれる。一方、ネギの白い花は「坊主」と呼ばれ「春がきた」と応ずる人はいない。坊主には隠された意味があるのかもしれない。

 プランタンのネギにもネギ坊主が出来て春を告げている。早めに摘み取れば十分に食材として使える。坊主は天ぷらにすると苦みがあって美味い、と聞いたが口にしたことはない。この花に似たもの、似せたものがある。それは橋の欄干の柱頭や神輿の屋根にある擬宝珠(ぎぼし)。

 名勝・錦帯橋の欄干も平成の架け替えで擬宝珠が消えた、と記憶している。以前の欄干の親柱は下方が四角形、上部は円柱状に加工され擬宝珠がついていた。架け替えが終わり初めて渡ったとき、形が変わっていて驚いたのを記憶している。架け替え後は親柱全体が四角形のため擬宝珠は似合わないかもしれない。変えたことに何か意味があるのだろうか。個人的には擬宝珠、それは歴史を感じさせるから。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すまない

2013年05月03日 | 生活・ニュース
           

 時機が過ぎて役に立たないことを「後の祭り」という。後悔しても手遅れの意味も持つ。ブログを始めて6年半、この間に公開したつたない日記は約2300編、公開しようと保存した写真は約2600枚、その差は300という数値に驚いた。どれも載せたいと思って撮り、これを書いておこう、そう思って保存した。

 個人的なブログでも記事には多少の優先度を考える、すると明日に、翌日になるとその次に、そんな繰り返しが出し遅れ載せ遅れとなり、保存というフォルダーで眠ってしまう。こまめに消去すればいいのだろうが、めんどくささもあって「せかっく納めた1枚だからと」言い訳をしている。

 残った写真をざっと見返すと花や草木など季節的なものが多い。これらこそ急いで載せるべきなのだろうが、300枚のうち薄っぺらな文才では書ききれず草稿一覧で眠っている写真もある。眠っている1枚を救えることがあるかないか、ブログでその機会は恐らくないだろう。他でその機会が得られれば喜んで提供しよう。

 写真に「ブログの記事と一緒に使う」と約束しホルダーへ閉じ込めた。それを存知しながら公開しなかったのは不作為犯ではないか、など余分なことを思いながらめくる。と、今年の菜の花、ボタン、つつじ、野菊 野イチゴ、タラの芽、わらびなどなどが恨めしそうに見返してくる。写真が話せるなら「撮ったら使え」ひと言浴びせらそうだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古い街並み保存

2013年05月02日 | ウオーキング 散歩
           

 さて今日はどちらに行こうか、思案する程のことではないが散歩、散策、ウオーキングに出かける時、家の前の四つ辻でちょっと足を止める。南は旧城下のはずれで、戦国の頃、攻め込んだ敵を迷わせたという迷路のような小道に家屋が並ぶ古い町並み。北へ一直線に進むと、かって栄えた商店街を通り過ぎると錦帯橋畔に至る。

 西、こちらは国木田独歩の住まいがあった一角につらなり、市内で最長の愛宕橋上流、河川敷にある自動車学校のコースが広がる。東に進むと小学校や図書館、公民館、郵便局や金融機関、交番もあり地域の中心的地域で他よりは開けた感じになる。

 手のひらサイズのデジカメはポケットに、退職前から使って、電池は何度か交換したが長い付き合いの歩数計をバンドに留める。歩き始めるとたまに精度を確認する。200歩でわずか1歩か2歩の誤差しか生じない優れもので手離せない相棒となった。これに脅迫されて歩を進めているのかもしれない。

 この時期はどちらに向かっても季節の花々が見られる。よく手入れされたもの、我がまま気ままに伸びたものや雑草に守られるように囲まれた花は自然のまんまで逞しく見える。洒落た鉢に植わっているのは育ちの良さを感じるが甘えん坊に見える。みんな違ってみんな面白い。

 解体された家跡は空き地のままか貸し駐車場になり「売り地」の立て札も多い。土塀はブロック塀に変わり、庭の菜園は自家用車の車庫に変わる。歴史のままでは社会様式の変化について行けなくなる。古い街並みを残す、保存しようという声はよく聞く。そこに住む人の本当の声はどうなのだろう、車の通行も容易でない狭い道を歩きながら思うことがある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする