日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

良く見たら

2009年05月09日 | 生活・ニュース
               

先日、初めて植えたゴーヤ、順調に生育してくれている感じがする。毎日水遣りしながら見ていて、「蔓(つる)」が伸びていく時の不思議な変化に気づいた。

茎の先端からピント伸び出た細い針金のような蔓は風に揺れながらその捲きつく先を捜す。支柱に触れると「グルグル」捲くようにからみつく。ここまでが第1スッテプ。

捲きついた蔓は、蔓の元と捲きついた間でなおも伸び続ける。するとピント張っていた蔓はたわわになる。これが第2スッテプ。

たわわになった蔓の部分は続いてスプリング状に変わる。スプリング状の蔓には弾力とい新しい機能をが備わる。蔓の成長はここ第3スッテプまで。

蔓は1段おきに左右へ伸び、新しい機能を備えた蔓に変身し、茎が上に伸びることを助けている。例え茎が風に吹かれても倒れないように支えている、素人の結論はこうなった。

自身も、周囲の皆さんのこうした蔓のような無言の支えに助けられてきたのだろうが、多くのところで失念している。と、反省しながら冷たいゴーヤジュースのことを考えていた。

キュウリやカボチャも収穫の経験はしているが、蔓がどんなだったか思い出せない。

(写真:もう少しで完成する蔓のスプリング)
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木陰と日陰

2009年05月08日 | 生活・ニュース
               

週末は「予報以上の最高気温になるかもしれません。ドーンと上がって真夏日になるかも」ローカル放送の天気予報。そして、朝の洗濯を干すときから紫外線にも充分気をつけてと注意を促す。梅雨前の暑さがやってくる。

ある夏の昼、真っ黒な傘をさして歩くご婦人の姿を初めて見たとき「これって何んだ」と驚いた。聞けばその年から流行った日傘と教えられた。今年も日傘に帽子のシーズンになった。今日、県内の最高気温は28度を越えたという。

となると冷たい飲みものも良いが木陰や日陰も体にいい。錦帯橋近くの公園には幾つも木陰がある。一番のお気に入りは大噴水のそば。噴水の小さな飛沫が顔や腕に心地よいが、木立を抜ける風はこれに勝る。

木陰は木の下の日光や雨の当たらないところ、日陰は日光の当たらないところと辞書では区別されているが、涼を欲しがる体にはどちらも同じ。体と歳を考えた暑さ対応をこころしておこう。クーラーの効いた部屋はあまり好かないので。

(写真:錦帯橋まつりの日、太鼓の演奏を錦帯橋下の日陰で聞く人)
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竹の箱

2009年05月07日 | 生活・ニュース
               

竹で作られた箱が通りに置かれている。蓋もついている。両端に竹で作られた花さしには花が飾られている。黒い板塀に良く似合う。時代劇の町並みかとも思わせる。

この竹の箱が置かれたとき「なんの役目を担うのだろうか」と不思議に思った。今は若竹のころの濃い緑色の鮮やかさは遠のいたが、趣のある渋い黄色みに変わった。色変わりにつれ箱の用途への関心は薄くなり何年か経つ。

先日、朝ウオーキングのとき「燃えるゴミ」の袋をその箱へ入れる人を見た。市全域でゴミの分別持ち出しと有料化はかなり前から実施されている。その持ち出したゴミを入れておく箱だったのだ、のどにつかえていたものが落ちたような気がした。

ゴミの散乱やカラスの餌さアサリを防ぐためそれぞれのところで苦心苦労されている。ブルーシートやネットで全体を覆う風景は多くある。猪の出没する地区のそれは、底は鉄板で四方を鉄棒で囲み重そうな蓋が付けられ、転倒しないように固定された頑丈な作りの檻が置いてある。

持ち出したゴミを竹の箱へ入れておく。どなたの作かは知らないが、散乱などの防止だけでなく美観の観点からもいいアイディアと思う。ゴミ置き場へ花を飾る心遣いもこの地域の人たちなのだろうか。付近に同じ箱がもう1ヵ所ある。箱を眺めながら肝心なことはゴミ持ち出しのルールを守ることが大切でありマナーでもある、改めて言い聞かせた。

(写真:ゴミ入れには勿体ないような竹の箱)
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高いソフトクリーム

2009年05月06日 | 生活・ニュース
               

GWのある日、いろんな花満開の公園をぶらぶらした。小学5、6年くらいの女の子が2人の男の子と手をつないで歩いている。会話の様子から姉と弟。その3人の後ろがお母さんで前がお父さんと分かる。そんな家族連れと前後しながら歩いていた。

下の弟が振り返り鯉の餌を買いたいといったら「さっき高いソフトクリームを食べたでしょ。だから今日はもう無駄遣いはしないの」と姉はその弟の手を強く引っ張った。お母さんは知らぬ振りをしているように見えた。「鯉の餌さ100円」と書いた値札は風に踊らされている。

親子5人の行楽。姉は100円の餌さ代が出せないことが解かっているから、親の気持ちを気づかって弟をたしなめた。歩きながら耳にしていた会話からそう感じた。姉は無駄遣いの意味とそれをしないということを理解しているのだろうか。姉は鯉から遠ざかるように公園の奥へ弟2人を引っ張って行った。

姉が高いと言ったソフトクリームはいくらだろうか。100円の餌さ代の方が安いと思うが。下の弟は先ほどまで、はしゃぎながら餌を投げるよその子どもたちを見ていた。その弟は小学1年くらいに思えた。

長い人は16連休というGW。海外に出かける親子連れの華やかな旅行の光景、一方で100円の餌さ代を弟に無駄と言い切る小学生の女の子、どちらも現実だ。子どもたちに高かったソフトクリームの「美味しかった味」と公園の花の「美しかった」とことを思い出にして欲しい、そう思いながら向きを変えた。

何か考えさせられるGWでの遭遇だった。

(写真:甲羅干ししながら何かを考えているような亀)
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梅エキス

2009年05月05日 | 回想
               

公園のアヤメやツツジに目を奪われていたがフト見上げたら梅の実がなっている。まだ親指の先ほどもない小さな薄緑色の小玉は柔らかそうだが、一人前にすっぱさを漂わせる。

花の終わった梅のことなど忘却の彼方、桜・サクラと心変わりする人間のことなど知らぬ振りをしてしっかりと営みを続けている自然を改めて知る。そういえば周りの紫陽花も菖蒲もそしてバラも咲く準備をしかっり進めている。

梅といえば梅干と梅エキスを思い出す。梅干は冷蔵庫の無い時代には食品の腐食防止役を務めた。その代表が日の丸弁当、麦飯弁当でも同じだが飯の部分に置いてあった。置く位置は毎日変わる。梅干が蓋の同じ所に繰り返し当たり、そこが酸に侵されないようにという知恵だった。

梅の果肉をすりおろし、しぼった汁をゆっくりと煮詰めて作る梅エキス。ペースト状で、その色はコールターにも劣らない真っ黒な「家庭薬」。大きなざるに山盛りの生梅から出来たエキスはほんの僅か、それはガラス瓶に詰められ台所の戸棚の奥で鎮座していた。

腹の調子が少しでも悪いと腹薬に、暑い時には冷たい井戸水で薄めて疲労回復に重宝された。飲みたくなると、特に夏場には「腹の調子が悪い」回数が増えていた。ペースト状だからだろうか直に効き目が表れる不思議な家庭薬だった。「酸っぱーい」、思い出しただけでも生唾がわく。

6月の終りころから公園の梅拾いする人を早朝ウオーキングで見かける。子どものころ「生梅には毒があるから絶対に食べてはいけんぞ」と言い伝えを教えられた。野山が遊び場のころ、実のなるものは何でも口にしたが、蛇イチゴと生梅は口にしなかった。

(写真:小さくてもその香りがする梅の小玉)
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ゴーヤは生るか

2009年05月04日 | 生活・ニュース
               

夏場のドリンクとしてゴーヤジュースを飲み始めたのは、そうNHKの連続テレビ小説「ちゅらさん」の影響だった。苦いなどの特徴は聞かされていたが、甘みになるある品を混ぜ試したら、「いける」だった。

ゴーヤが店先に並べば買う。と言っても時期外れは1本198円、とても手は出せない。ところが最近98円売りを目にした。まだ暑さはジュースを飲むほどでもバテルほどではない。時間があるのでゴーヤ作りを思い立った。

20数センチほどのゴーヤの苗、元気そうな苗を選んだがその先は少し寂しそうに下向きで短いツルが1本生えた似たような苗を2本買った。植えるときとりあえず背は低いが支柱も準備し水はタップリ与えた。

苗の先は上向きに伸び、ツルはしっかりと支柱にからみ付き新しい土になじみ定着してくれたようだ、3日目の朝に分かった。ピーンと張った白いツルに力強さを感じ、ジュースへの望みが湧く。

早ければ2ヵ月過ぎから遅くとも3カ月すれば収穫できる、苗の説明にそう書いてある。途中の作業は適当な肥料とタップリの水やり、茂りすぎたら切り落とす、そんな事も書いてある。初挑戦、どんなことになるやら。

(写真:植えて3日目のゴーヤの様子)
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近場で

2009年05月03日 | 生活・ニュース
               

東名高速道では77㌔渋滞のニュース、混雑・渋滞はあらかじめ予測されたていたがこれほどの値は出ていなかった。運転する人も同乗された人もうんざりされたろう。同情します。

その日の体調にあわせ出かける高齢者には、予測される渋滞に突入することは避け、ローカル情報を頼りに出かける。

1ヵ月早く咲いたという睡蓮の花を見ることををメインに1周12o㌔ほどのドライブを楽しんだ。

公園内の日本庭園の池に紅色の睡蓮が5月のさわやかな陽を受けて水面に浮ぶように咲いている。池の周りにはボタンやツツジも咲きそろい、睡蓮を加えたちょっと珍しい庭園風景に満足した。カメラに撮られる睡蓮は満足そうだった。

池のそばに手入れされていない山の斜面が迫っている。そこにはタンポポが数10本、その奥には蕗も群生している。こつぶだが真っ赤な野イチゴが数粒、こぼれ日に輝いている。思いかけない斜面の様子に子どものころ遊んだ裏山を思い出した。

通りかかると必ず立寄る「うどん」の美味しい店がある。車を止めたのはお昼を回ったころ、駐車場が空いている。いつもは空席待ちなのにストレートで席へ案内された。皆さん遠出されたからだろう。

もう一軒、家内の好きな抹茶のソフトクリーム店がある。休日には子どもにお母さんで賑わうこの店も空いていた。定額給付金は皆さん届いたのだろうか。ちなみにわが町はGWが終わってからというニュースが流れていた。

(写真:温かさに誘われて早めに開いた睡蓮)
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一枝のさつき

2009年05月02日 | 生活・ニュース
               

小さな医院の待合室。
 
初夏の花が出窓に数鉢、その中に満開のさつきがある。
 
高齢の婦人と付き添いの娘さん、さつきを覗き込むようにして小声で話している。

そのうち娘さんが受付で何か話す。
 
と、受付の人は鋏を持って婦人の側へ、話しかけながらさつきの一枝を切り取り笑顔で渡す。
 
婦人の顔が可愛らしい笑みに変わる。何事かと手を止めて見守っていた待合室の様子は緊張から微 笑みに変わった。

受付さんの切り取った一枝のさつき、待合室のみんなを微笑ませた。

出窓から入る五月晴れの日ざしが心地よい。

(写真:公園にはそこかしこに花が咲きほこっている)
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ほのぼのカレンダー5月(皐月)

2009年05月01日 | 生活・ニュース
               

作 東井義雄

 実は私自身も、何もとりえのない男です。頭はよくない。体は貧弱。何ぶん、教員になって月給をもらうようになったんだからと思って生命保険にはいろうと思っても、保険医が入れてくれなかった私です。

 運動能力はからっきしだめです。師範(学校)にはいったとき、全員何かの運動部にはいらなければならぬということだったのですが、蹴球部の検査のところでボールを蹴らされたのですが、それが思いもよらぬ横っちょの方にとんでしまったのではねられました。

 野球部の検査のところで、生まれてはじめてバットというものを持たせてもらいましたが、あんなツルツルした丸太ん棒に、とんでくる球があたったりする道理がありません。

 庭球部で生まれてはじめて握らせてもらったラケットは、ボールがあたるようにはばが広くしてありますから、これはあたってくれるだろう思って力を入れて振りましたが、どういうわけかあたってくれません。

 水泳部でプールに突きおとされましたが犬かきもできず沈んでしまい、部員の人に助けあげてもらいました。競技部で百㍍走らされましたが、もちろんビリッコです。

 何をやっても駄目なものですから、みんながあきれていましたが「お前、しんぼう強く粘れるかい?」といわれて「はい」と答えましたら、どうにかマラソン部に入れてもらうことができました。

 毎日の日課は、姫路城北錬平場1周で5千㍍でした。その1万㍍コースの途中に日の本女学校というキリスト教の女学校がありましたが、女学生たちが見ている前を、みんなから何百㍍も遅れて犬に吠えられながら走るのはつらかったものです。

 でもそのはずかしさを、私は4年間背負って走りました。そして、これによって私は、私の「のろまである」という「荷」を背負うすべを教わりました。

 ビリッコを走りながら、私は「兎と亀」の話をいつも考えていました。亀が兎に勝ったということが、亀はやはり亀だ、どんなにがんばってみても、のろまな兎の走力をも身につけることはできない。

 しかし、あの話は、つまらない兎よりも、ねうちのある亀の方が、ねうちとしては上だという話ではないだろうか、兎の中にも日本一駄目な兎というのがあるかわりには、亀の中にも日本一の亀というのがあるという話ではないだろうかなどと考えました。

 そいうことから、ビリッコもあるし、1番より2番よりすばらしいビリッコもある筈だ、だとすると、自分は兎にはなれないが、日本一の亀、日本一のビリッコにはなれるはずだ、と、そんなことを考えたものです。

 そして、とうとう4年目、私はすばらしいことに気が付きました。それは、ビリッコにも大きな役割がある、ということでした。ぼくがビリッコをやめたら、仲間の誰かが、このあわれなみじめなビリッコをとらなければならぬだろう。

 それを、ぼくがずっとひとりで引き受けているおかげで、仲間はこのみじめな思いを味わわなくてもいいのだ、と気がついてみたら、世の中がにわかに光に満ちあふれているように明るく感られました。  
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