日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

山頭火来訪

2009年05月21日 | 陶芸
               

雨が降り始め少し暮れかかった庭に
焼物教室で作った15センチほどの高さの小さな山頭火人形を置いた

雨が降り始めた上空を手をかざして見上げたこともあったろう
俳句と酒を友に生涯漂泊の旅を続けた山頭火の一場面を偲ぶ

山頭火の句にこめられた深い意味はまったく読み解けないが
山頭火はいつも何かを求めて歩き続けていだろうと思う

父の享年を越えそして定年を越えた、もうしばらくしたら古希
どこまで歩き続けられるかしれないが
精いっぱい歩いて行こうと思っている

(写真:我家の庭を訪れた山頭火)
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給付金で学習したPC

2009年05月20日 | 生活・ニュース
               

申請から1ヵ月と10日で定額給付金の支給決定通知書が届いた。まだ振込みの確認はしていない。先般、ある新聞社の投稿特集で「定額給付金」のテーマで募集があったが応募出来なかった。と言うより特に考えが無かった。

支給までの段階では様々な意見があった。総じてばら撒きより纏まった金額を雇用や医療などへまわす方が効果的な税金の使いみち、そんな意見が多かったが、給付が始まるとマスコミの取り上げ方はゼロに等しくなり、議論は終焉した。

「不況の象徴といわれる百貨店」、先ほどこんなひどい表現で百貨店業界の落ち込みが報道さた。今年1月~3月のGDPは年換算で15.2%減、2期連続最悪を更新という、嬉しくない記録を残した。ただ、自動車を初めとする大手企業の在庫調整が底をついており、日本経済の好転を期待する見方もある。そんな中で定額給付金はどれだけの経済効果を発揮するのだろうか。

定額給付金だからこれまでとは違った使いみちを考えているかと言えばそれは無い。振込みはお財布代わりの口座、普通の生活費の1部として埋没していく。年金暮らしにはそれ以外の収入はない。特別に入ったからと言って特別な消費に手が出せないのは、持って生まれた貧乏性だろうか。

初めのころはパソコンへ「ていがく」と入力し変換すると「低額」が初めに表示されていたが、今は「定額」が先に現れる。パソコンは学習している。定額給付金の意外な効果を発見した。

(写真:届いた給付金支給決定通知書)
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梅雨近し

2009年05月19日 | 生活・ニュース
               

沖縄地方の梅雨入りが発表された。2~3週間後には瀬戸内海地方もうっとうしい季節に変わる。梅雨になると気象予報でいう寒冷だ温暖と呼んでいた前線の呼び方が梅雨前線に変わった。

解説によると、梅雨前線は停滞前線の1例という。停滞前線は、寒暖2つの気団の境界面が長期間動かないで、1カ所に停滞する前線のことをそう呼ぶ。普通の前線は西から東に移動するが、梅雨前線は南北を上がったり下がったりする特徴がある。

いま、内閣の支持率も株価も上がったり下がったり。その都度、仕事ととはいえマスコミの分析に読者・視聴者ともに一喜一憂しながらも、まもなく行なわれる総選挙へポルテージが上がっている。

最近、選挙に関連して有効な集票活動として注目されているのが「どぶ板選挙」。高度成長といわれるころから姿を消した選挙運動の方法が、再び見直されているのはなぜだろうか。民意の向上と不況の風が荒れているからだろう。

昔、住宅地の狭い路地裏には「どぶ」と呼ぶ生活排水等が流れる溝があちこちにあり、その溝には落ちないように板の蓋がしてあった。表通りからどぶ板のあるそんな奥まで、選挙の挨拶をして回る、それを「どぶ板」選挙と呼んだ。

そんなどぶやどぶ板、溝も蓋もコンクリート製に変わった。変わらないのは梅雨前に地区総出でおこなう溝掃除。コンクリート製の蓋を外しそして元へ戻す。高齢化と共にきつい奉仕になっているが、公共の支援はヤーン袋とその撤去だけ。

ウーキング途中、あちこちで積み重ねられたヤーン袋を見かける。ご苦労さまでした。

(写真:溝掃除で取り出した土砂などを入れたヤーン袋の山)
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お 茶

2009年05月18日 | 生活・ニュース
                              

これは聞いた話。お茶をいただく。一杯目をいただく、お茶の色が付いているだけ。二杯目をいただく、ただ苦いだけ。これを「無茶苦茶」と言う、とその人は笑った。別の説ではお茶を出さない無茶、苦茶は苦いお茶を出すことで、何れも道理に合わないことをさす。

無茶苦茶という言葉で忘れてならない人は「花菱アチャコ」。ラジオ番組「アチャコ青春手帖」放送の時は家に1台しかないラジオに家族中が耳を傾けた。日本にTVの普及が始まった昭和30年代中ごろ、「滅茶苦茶でごじゃりまするがな」のセリフで一声をを風靡したした吉本の芸人さん。

先日、「お爺ちゃんに宿題です。授業でお茶の入れ方を習いました。夏休みに帰省したらお茶を入れるから飲んでね。そのとき使う急須か湯のみ、陶芸教室で作っておいてね」と、京都に住む小学5年の孫娘からメールが届いた。

急須でも湯のみでもホイホイと簡単に出来る腕にはほど遠い陶芸2年生。頭の中で出来上がっている形も、いざ轆轤を回し始めると修行の未熟を思い知る。と言っても時間内に形ちにしなければと焦る。

孫の入れてくれたお茶の味は、湯のみの出来栄えに関係なく美味しいだろうと思いながら粘土をこねた。

(写真:作成中の宿題の湯のみ)
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開 花

2009年05月17日 | 生活・ニュース
                 

宗祖親鸞聖人 降誕会法要にお参りした。雨にも関わらず多くの門徒のも皆さんが集う。報恩講以来の顔合わせの方もあり「元気でしたかいのう」の会話があちこちで聞こえる。

讃仏偈(さんぶつげ)を読経のあと法座が始まる。法座はいつ聞いても感銘する。降誕会では「諸行無常」、無常とは「栄えるものはみんな衰える」と思われているが、その逆も無常という。無常とは「常に移り変わる」ということが本当の意味だ、と解かれた。

「老」の字について聞くと「年とった人」という答えが返る。老は本来「敬う」という尊敬の意味を持つという。大老・家老・老舗・敬老・老熟・老練などいくつもの日本語がある。老は経験をつみ様々なことに関して巧みな知恵をつけてきた。それが「老」の本来の姿と説かれる。

では老が敬われなくなったのはなぜだろう。昔は何かを教わるのは老からだった。今はネットや書籍中心に変わった。例えば育児や離乳食は義母から教わり、そこから和も生まれた。老は増えたがその力の使い場が不足している。

降誕の法座に促されたのか、先日植えたゴーヤーに花が咲いた。径1センチあまりの黄色い花が1輪、これが実の1号になるのだろうか。梅雨の雨と勘違いしたのか、鉢植えの紫陽花、これもひと花開き始めた。色は薄い青色だが小さな蝶がとまっているようだ。

説話の中に「付くべき縁があれば離れるべき縁もある」という1節があった。縁あって咲いたこの花、どんな無常を越えていくのだろうか。

(写真:紫陽花<左>とゴーヤ<右>の初めての1輪)
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五月晴れ

2009年05月14日 | 生活・ニュース
               

奥の細道「五月雨をあつめて早し最上川」は誰もが習った有名な句。五月雨と書いて「さみだれと」読む。五月雨の降るころの雲を「さみだれ雲」と呼び「五月雨雲」と書く。

手元にある別の本ではこんな説明が載っている。五月雨と書いて「さつきあめ」あるいは「さみだれ」といい、「さ」は稲の植え付けの意で「みだれ」は「水垂れ(みたれ)」、つまり雨のことで田植えのころの雨をいう。

そして、古い時代の俳句などで五月を「さつき」と読むのは陰暦の5月のことであるから、季節感を間違えぬようと教えてくれた。ちなみに陰暦5月は陽暦の6月初旬から7月初旬をさす。

五月晴と書いて「さつきばれ」と読む。その意味は、①「さみだれの晴れ間」と「梅雨の晴れ間」、②「5月の空の晴れ渡ること」とある(広辞苑)。①は陰暦で②は陽暦の解釈だろうか。

この地方でも最近は田植えが早くなり5月には青々とした稲田が見られ、田植えは梅雨の農作業という季節感が変わりつつある。小学校のころ田植えのシーズンには農繁休暇があった。稲田の無い我家は「薩摩芋」の植付けを手伝った。

3週間ほどで梅雨入りですという予報、今のうちさわやかな青空を満喫しておこう。抜けるような青空が広がる。2筋の平行な飛行機雲、飛行の速さから戦闘機だ。青空には不似合いな戦闘機雲、これを見なくてすむ時代は来るだろうか。

(写真:青空と2筋の飛行機雲)
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霧と演歌

2009年05月13日 | 生活・ニュース
               

温かで風の無い雨上がりの晴れた夜明け、山の谷あいに濃い霧がかかる。その霧は途切れることなく昇り、流れていく。その動きは早く音をたてて動き去るようでもある。夜明け前ということもあり地表近くは薄い霧の帳がおりている。

霧は空気中の水分が冷えて凝結し、微小な水の粒に変わり大気中に浮遊し煙のように見えるが雲と親類になる。この霧の呼び名は霧の立つところで違う。朝霧と夕霧と夜霧、山霧に川霧、霧の海も良く聞く霧の姿だ。

早朝ウオーキングでは朝霧、川霧、山霧が見れる。運がよければ霧の海を見上げることもある。そんなときは手の届きそうなとこまで霧が降りてきている。掴もうとすると気持ちだけ冷たい感じがする。霧の帳の中を進むこともあるが、このときは仙人気分になれる。

そんな朝には「夜霧よ今夜もありがとう」「夜霧の第二国道」「俺は待ってるぜ」など大昔の歌詞を思い出している。カラオケの無い時代に耳で覚えた単調な演歌は今も頭の隅っこに残っている。演歌は哀調を帯びた日本のメロディーで、微妙な節回しの歌い方に引かれる。

演歌を築き上げて来られた名前を知っている作詞作曲家の方が続いて亡くなられる。どの方の作品にも若いときになじんだ歌、今も口に出る歌がある。演歌は日本の音楽文化だ、これからもいい演歌を誕生させそして聞かせてほしい。

(写真:霧に霞む山を背景にした日の出少し前の錦帯橋)
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紋 所

2009年05月12日 | 生活・ニュース
               

「この紋所が目に入らぬか」は水戸黄門ドラマの終りの定型句。このシーンの前は「助さん角さん懲らしめておやりなさない」で始まるチャンバラ、時には無益なシーンのようだが、これなくしては最初のセリフに繋がらない。

葵の紋所を目にした悪代官はひれ伏し黄門様の「追って主君より沙汰ある」を聞いて再びひれ伏して悪の終焉、あの高笑いを残して次週へ続く。勧善懲悪の典型的なドラマだがその結末に視聴者はホットする。

こうした時代物の映画のロケ地が少なくなっていると言うが、身近を見回しても納得できる。建物も道も古さを除いたり変えたりすることが先進に通じる策と、競い合って全国各地で突っ走った頃があった。

その行き過ぎが過疎を生み限界集落を作らせた。今、この行き過ぎに気づきふるさと再生ふるさと回帰と策が打ち出されてきた。黄門様の歩ける道が戻ってくるのは壊した以上に難しかろう。

もうひとつ時代映画にそぐわない風景画ある。山のいたるところに建つ鉄塔。身近では錦帯橋を写すのに城山を背にしたら何本もの鉄塔が入る。観光地のこうした構造物には環境配慮が欲しい。

元家老宅の長い白壁には松葉三つ巴の家紋の入った瓦が残っている。文化財に指定されている。古里に時代劇に登場するような町並みをぜひ保存させて欲しい。

(写真:松葉三つ巴の家紋入りの瓦)

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アリバイ

2009年05月11日 | 生活・ニュース
               

冬至のころから俄かに減る早朝ウオーキングの顔ぶれ、GWが過ぎるころからその顔ぶれが揃い、朝の挨拶を交わす。立夏過ぎの朝方は新緑の風が心地よい。

寒い時期のウオーキング中に出会うのはバイクに乗った新聞配達の人だけ。そんなとき何かの間違いから「アリバイ」を求められたらどう説明したらいいか、推理もの大好き人間の妄想だ。

刑事ドラマでは、アリバイを問われた人は「私を疑っているのですか」、「いや、皆さんにお聞きしていますので」と刑事が答えるシーンが必ずある。嘘っぽいアリバイが真実で、理詰めのアリバイがトリックというのはドラマの常道となっている。

最近のドラマ、例えば松本清張原作でも、現在の科学捜査や携帯電話にネットなどを駆使した捜査で事件が解説される。原作の電報を使った情報収集、その間の人間味のある苦悩、歩いて歩いての証拠集めやアリバイ崩しなどは露ほどもない。

人に出会うことのない朝のウオーキング中のアリバイ、その証明の仕方はいつか推理に挑戦した時のネタに残してある。

晴れていれば月もアリバイを証明してくれる。今朝は錦帯橋付近で山の端に隠れる十六夜の月をみながら「あの位置に月が隠れた」といえば科学的証明が得られるかもしれない、そんなことを思いながら汗を拭った。

(写真:錦帯橋の向こうに沈む16夜の月、AM5:00頃)
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いつもありがとう

2009年05月10日 | 生活・ニュース
               

あるスーパー、母の日恒例の園児の描いた「おかあさん」の絵が今年も展示された。その数400枚以上。400枚と言ってしまえばそれまでだが、1枚を10秒単位で観ても1時間では足らない。園児のパワーを感じる。

園児より若ぶりなおかあさん、すぐ上のお姉さん風なおかさん、全身超スマートで園児の理想系のようおかあさん、正直にメタボ風に描いた元気そうなおかあさん、みんな違ってみんな面白い。

一目で孫の作品を撮る人とわかる婦人がシャッターを押す。その嬉しそうな顔を見ながら「絵と一緒に写しましょうか」とカメラを受け取った。絵と婦人の顔が同じ位置で構図良し、絵は婦人そっくりの顔立ちだった。だから嬉しそうに撮っていたのか、そう思いながらシャッターを押した。

この通路には父の日も敬老の日もそれぞれの絵が展示される。プレゼントを渡しながら改めて家族を考えるいい機会かも知れない。という私ら夫婦の両親はすでにない。京都に住む息子夫婦からは母の日のメッセージと花が届いた。

(写真:みんな良く描けているおかあさんの似顔絵展示)
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