日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

芭蕉の花と実

2015年06月19日 | ウオーキング 散歩


 葉のよく似ているバナナとバショウ(芭蕉)の違いは「実のなるのがバナナと思えと教えられ納得した」という。子どものころバナナは縁遠い豪華な飾り物だった。一方、芭蕉は身近にみかける水分をたっぷり含んだ大形の植物だった。分類上は両方ともバショウ科バショウ属の大型多年草で親戚になる。江戸時代の俳人・松尾芭蕉は深川の自宅の庭にあった芭蕉から名前を芭蕉としたらしい、という。

 冬の枯れ芭蕉は物の哀れを誘う。ところが春に目覚めるとその成育には驚かされる。夏には見上げるほどの高さになり、大きな葉を風に揺らせる。この大きな葉は破れやすいことから庭に植えることを嫌って庭忌草という別名で呼ばれる。

 庭忌草というがこの家では10数本の芭蕉が垣根越しに見える。見上げるとそのうちの1本に花と実が揺れる葉の隙間から見える。芭蕉は身近にあり珍しくないが、花と実を見るのは久しぶり。隣家の駐車場に少し踏みいれて花と実を狙うも風が強くなかなかシャッターが押せない。これほど粘って撮ったのは久しぶりだ。

 芭蕉の思い出の一つに岩国寿司がある。子どものころ、親戚が集うときには両親が分担し5升つけの桶に5段重ねの岩国寿司を作っていた。各段の仕切り、これは地域によって異なるようだが我が家では芭蕉の葉を使っていた。鮮やかな緑の葉に白い寿司飯が広がっていくのを「ごっそうが食べられる」と喜んで見ていた。四季を通して寿司の食べられる今、あの頃の喜びと楽しみは通じなくなった。そんなことを知る由もない芭蕉は気持ちよさそうに風になびいている。
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イキナクロベイ

2015年03月12日 | ウオーキング 散歩

 春日八郎の歌った「お富さん」。「イキなクロベイ ミコシのマーツに・・・」の出だしの「粋な黒兵衛さん」とはどんな粋な人だろう、そう思いながら気持ちを入れて歌っていた。そんなある時「黒兵衛ではなく黒塀」と知ってからは歌わなくなったという歌の上手い知人がいた。確かに、黒兵衛ならぬ黒塀では歌への思いは変わるだろう。野暮な私は「粋」という言葉には憧れるとこがある。

 その黒塀とは「黒い塗装は渋墨塗といって、柿渋と松の木を焼いた煤(松煙)を混ぜたもので、防虫・防腐・防湿効果がある他、建物の化粧として屋内外に用いられる日本古来の伝統技術」という。低粘度の液状で刷毛で塗布する。これは含浸して着色するので塗膜を作らない。塗膜を作らないから木目や節などがくっきり浮かぶ。この日本伝統の技術も消滅に近いという。

 知人の大工は木造の家を手掛けている。完成したそれを見学したときにこれまで知らなかった匂いに気づき訊ねると「柿渋」の匂いという答え。これまでに見たことのない色合いだったように記憶する。「年数につれ黒味が現れる」と誇らしげに話した。あの家はどんな落ち着きのある家に変わっただろうか。

 散歩道に黒塀と思うそれに囲まれた屋敷、それは元割烹で門の両側の黒い板塀の家。そこにはお富さんはいないが、宮本武蔵に登場するお通のモデルになった仲居さんがいたという話が伝わる。京都では茶屋街で黒塀の観光が楽しめるとか。粋な姿で宴席を設けてみたいが、黒塀は丁寧にお断りしてくるだろう、場違いですと。 
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枯芭蕉

2015年02月12日 | ウオーキング 散歩


 立春から間もなく10日、ローカルでは梅の開花やつくしの映像が流れるな。一方では雪国の豪雪の状況も毎日報じられる。長い日本列島の南北の気象の異なりが大きい。北日本に流れる寒気はヒマヤラからとシベリア大陸からと北極から直行の3種類があるそうだ。このうち直行寒気団が強烈で豪雪に結びついている、と気象予報士の話。

 この季節、散歩の途中の道辺は春を待つ冬枯れした植物が多い。そのシンボルのような一つが芭蕉で今の姿を枯芭蕉と呼ぶ。緑濃い威容を誇った大きな葉は、秋の暴雨風、冬の風雪などで細くずたずたに裂け、茎も崩れていく。その無残な姿になることに同情し「枯れっぷりのよさ」というそうだ。

 その枯れっぷりも1本なら哀れを誘うだろう。しかし、何十本も群生したそれが斜面の一角を占めると哀れというより廃墟した城郭のように見える。その昔は芭蕉の繊維を織って布とし、夏の着物や蚊帳などに使った記録がある。芭蕉紙は芭蕉布と同じ芭蕉を使い紙にした。その歴史は300年以上も前にさかのぼるという。原材料は異なるが和紙が世界遺産に登録された。紙の重要性を改めて思う。

 廃墟した城郭も、陽ざしが長くなると、崩れ落ちた茎の中から緑の茎がのぞき始める。それを見ると「生きていたか」と安心する。大方が水分というより水と言った方が似合いそうな芭蕉、その切り口から落ちる水滴を指し「斜面の崩れを防ぐ」と言いながら倒した芭蕉の片づけを祖父は手伝わせた。あちこちで見かける芭蕉、和紙ならぬ芭蕉紙としての復活は果たせないのか。 
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散歩のあれこれ

2015年01月13日 | ウオーキング 散歩


 足腰の衰えを少しでも遅らせようと歩く。定まったコースはなく気の向くままに歩いている。交通の要の広い道、岩国藩時代名残の迷路のような狭い道、戦災にあわなかった西岩国の町並みは新旧の町姿が混在していて繰り返し歩いても飽きない。それでも、藩時代の古い町名の面影は年々少なくなっていく。

 あてもなく歩いていても思わぬことが目に入ることがある。そんな一つに岩国検定に所属してからは古い町名などにも興味を持つ。城下町中心にある7つの町名はよく知られ、観光案内にも載っている。その裏通りに回ると、案内にない町名もある。琵琶町、登富横町、蛤町、最近、偶然見つけたのは「歴史町名 新地」。汚れた看板に薄くなった墨の跡がわずかに読める。新地は遊里、いろまちを表す。看板のある通りは昔いろまちだったと聞いていた。それを思わせる古いたたずまいが1、2残っている。

 収穫されない柿やビワにイチジク、耕作放棄された畑作物の立ち枯れに背丈ほどの雑草など高齢化がジワリ忍び寄っている光景に現実を感じる。声をかけられ名前を思い出すのに時間のかかる人、新聞に掲載された短文の感想を聞かせてくれる人など思わぬ人に出会う。雑草の中に咲いている花には思わず小さなカメラを向ける。

 この時期の楽しみの一つに川面に遊ぶ越冬の野鳥。静かに近づいたつもりでもカメラを構える前に逃げられることはしばしば。のんびり水面に浮いているようだが油断はしていない。本流から川洲によって分岐した小川ほどの流れに一団の野鳥、近づいても飛び立たない、見るとそれは川鵜だった。200羽近い集団が上流へ向いて行く。これほどの集団は初めて。川面を乱すことなく進む黒の集団、川魚が獲れない一因はこの集団にあり少々不気味、長い隊列を眺めながら思う。
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異体探し

2014年07月14日 | ウオーキング 散歩


 散歩の道すがら、出合ったり、見つけたり、教えられたりと体を動かす以外の効果がある。散歩しながら、何かないかと、いつも虎視眈眈、キョロキョロしているわけではないが、今、探しているものがある。それは、我が家のプランターになっている変わったミニトマトに似ているのはないかと見回す。

 ミニトマトは葉の3段おきに実がなる、と菜園趣味の人に教えらた。トマトはどこで学んだのか、必ず3段目で幹から分岐して花が咲き、やがて10数個の実が房状になり、順に赤く熟れていく。ところが今年、幹から分岐した時から何か変わっている感じだったが、少したって、2房状に大きくなり始めた。おなし幹なのにこの一つだけ異形のなり方だ。そんんなり方が気になり、畑のミニトマトを眺める。

 何日か、何回か、何カ所か見たが目につかない。そんなことをしてるうちに赤く熟れはじめ、収穫した。「特別な味」かと期待したが、変わったところはなかった。幹のいたずらか苗の気まぐれか、このところの異常気象からの警告か、農薬は使っていないので異常DNAか、となどといろいろ思うと楽しい。

 異体とは「普通とはかわったかたち(広辞苑)」とある。もしやこの異体、毎日、声掛けながら水やりをする私の裏面を見通したのでは無かろうか。そう思うと、なんとなく2房の形にも親しみを持つ。
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妖 怪

2014年07月08日 | ウオーキング 散歩


 硬めの紐状の体には多数の棘がつている。その体に等間隔に柔らかい理科の実験で使う濾戸の形をした羽が全体にある。羽の付けから2本の細くて長い足、その先端はくるっと巻いている。頭部は薄い円形で、その先端に細く長い触角のようなものがついている。ゆらゆらしながら空間で揺れている。そんなものを撮っていたら「何を写しよってですか」と通りがかりの女性、「いやいや、あれです」と、少し薄暗い高い位置をさす。「何ですかね」と不審な一言を残して立ち去った。

 「自分だけのオリジナル妖怪を作ろう」。今、ゲームやアニメで子どもたちに妖怪ブーム、と報道にある。妖怪は昔々のその昔から、日本人は信じてきた怪しい生き物。話の中では人間にいたずらしたり、ある時は助けてもらい妖怪と友達になったりしてきた。そんな妖怪は人知では解明できない異様な物体、ということになっている。

 こちらで妖怪といえば日本海側の境港には妖怪神社があり水木しげるロードでは妖怪が迎えてくれる。いずれも親しみやすい顔立ちだから人間と仲良く楽しく共存できるんだ、と、その小柄な容姿を思い出している。彼らは年を取らないから妖力は落ちないのだろうと、うらやましい。

 散歩で撮ったちょっと薄気味悪い物体、実はサルトリイバラ(サンキライ)だが、子どものころには「柏餅の葉」と呼んでいた。何にも頼らず伸びて2メートルくらい、その揺れる姿は妖怪にも思える。このままどのくらい伸びるのか、その先どうなるのか、毎日観測するわけにもいかないので、後は想像に任せることとする。これは自然が作った妖怪、としておこう。
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2014年03月17日 | ウオーキング 散歩


 一雨ごとに暖かくなっている。今日、昼間に歩くとうっすらと汗ばむ。最高気温は18度ほどだが陽ざしのせいか体感気温はもっとそれより高く感じる。それでもここち良いのは青空のせいだろう。

 いつも通る道沿いの紫陽花、、高さは2メートルを超えている。その枝からの芽が通るたびに大きくなっていて、すっかり葉の形になった。寒気に耐えていたただの味気のない枝に活力をもたらす自然の姿に感心する。

 季節は新入学生に新入社員など、若者が新しい環境へ出いく。まさに「芽が出る」季節、これからの幸福や成功の機会をつかみ切り開く門出の時期だ。ここまで積み上げてきた自分の努力を称えそれを自信として持ち続けていこう。

 フォーマルウェアを品定め中の母親、その胸の奥にはどんな子供の将来が描かれているのだろうか。芽は植物などの器官に成育する幼い組織という。船出する若者も同じ、旭日昇天の日は続かない。過ぎたるはよくないが適度な保護はフォーマルウェアに手を通す時から始まる。
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兼用

2014年02月10日 | ウオーキング 散歩


 朝、ラジオ体操をもじった自己流の体操と、散歩というかウオーキングというか歩くことくらいが最近の運動になっている。飛んだり跳ねたり打ったりなどは若いころから苦手で、誘われると加わるが、積極的に参加する方ではなかった。それは今も続いており、体を動かすのはもっぱら歩くことにしている。

 そんなこともあり、最近は用事で出かけるときは意識して歩くことを心がげ、昨秋くらいから荷物でもない限り自転車を使わなくなった。歩きなれると距離感が変わり、あそこまでなら、と億劫さが消えた。ただ、歩くには歩くがウオーキングの時は姿勢も速さも距離も、運動としてそれなりに意識して歩く。

 家から1.5キロほどのところに用事で出かけた。服装は普段着、靴はスニーカーだった。反対側から来た知人と出会う。元気か、から始まって短い近況など立ち話。別れるとき「ウオーキングか」と聞くので「そこまで用事で」と答えた。すると「兼用か」と笑いながら背を向け歩き出した。

 とにかく歩いているのだから、その目的は何であれこなしていることは同じ。ウオーキングだ用事だと区別していたほうが変だった、と今に至って初めて気づき苦笑。自転車を意識して乗らなくしたのは簡単に言えば歩数計の値を伸ばしたいだけだったかもしれない。そんなことを思いながら慣れた道を歩く。南天を撮ったら赤い真珠のように写った。
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温い

2014年01月31日 | ウオーキング 散歩


 ウオーキングで出会うその人は「犬の散歩」ですと歩くことの説明をする。そして「連れて歩くのか連れられれ歩くのかよう分りませんが」と笑う。いつからその犬を飼われているのかわからないが、双方が思い合うような歩くその姿は、連れて連れられての両方に見える。

 その人が「今日は温うありますのう」と、この地方の言葉で話される。犬も着せられていた装いを脱がされ身軽な感じになっている。空には日差しを遮る雲はなく、風は吹かずのどかで春昼を思わせる。気持ちよさそうな蝋梅が塀の上から犬を見下ろしている。

 駐車場のわずかな窪みに昨日の雨が溜まっている。そこで数羽の鳩、野鳥なのかそれとも屋根付きで飼われる鳩か見分けはつかないが、その溜まった水を飲むしぐさを代わる代わるしている。溜まり水を飲まなくてもと思うが、飲むのは今でしょう、といわぬばかり、夢中になっている。温かくて乾いたのど潤しているのだろう。

 いつもより薄着で出かけた。それでも歩き終えるころには温かくて少し汗ばむ。1月も今日まで、立春はそこまで近づいている。午年に見合って駆け抜けたようなひと月だった。万能細胞はストレスを与えたことによって作製された。寒を言い訳に閉じこもっていた体中の細胞に刺激を与える準備をしなければ。 
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名も知らぬ

2013年09月13日 | ウオーキング 散歩


 花の名前に疎いことは何度も書いてきた。それを反省し、教えられたら覚えよう、記憶に残そうという気構えはするが、いつの間にか元に戻っている。これは能力の問題で覚えられなくなっている、そう認識することにしている。それでも、初めて見る花にはこれは「なに」と思う。

 雑草が自然のままに茂っている緩やかな上りの道、頂上まではいろは坂のような道をかなりのぼることになる。自然のまま、といえばきれいに聞こえるが、道の両側のほとりは手入れされていない公道、それでも初秋の柔らかな日ざしは何事もないように、落ち葉の上に注いでいる。

 茂った雑草の中に初めて目にする花が咲いている。よく見ると法面を覆うように伸び広がっているかずら(子供のころからそう呼んでいる)の弦に咲いている。見上げるほどの高さのとこにも、数十個咲いている。子どものころから、畑のほとりの草刈りは経験している。その回数多くて記憶はないが、花は初めて見た。こうなる前にほとりの草は刈っていたのかもしれない。

 この時期、めったに人の通らない坂道、この花を愛でる人はあるだろうか。そんなことはお構いなく、自然の摂理通りに咲いている花、可憐というより野生の力強さを感じる。周辺の桜の木からヒグラシの鳴き声が幾重にも聞こえる。初秋と晩夏が混在している山道、ハゼの木の葉が色好き始めた。
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