ゼカリヤ書 11章
ここは、複雑で何を伝えようとしているのかが分かりにくい箇所です。1−3節は内容的には前章に続くものだと思います。
預言者は、神のことばを人々に伝えるために、さまざまなことをさせられることがあります。ここで預言者ゼカリヤは羊を飼えと命じられています。飼うのは屠られる羊の群れ。この羊の群れはやがて売られて殺されます。売る側の商人は潤い、買う側は羊を屠っても責めを負うことはありません。双方は自分たちの利益のために羊を売り買いしているだけなのです。ここでの羊は、力ある者たちによって良いようにされる民のあわれな姿を現しています。
それでもゼカリヤは、「慈愛」と「結合」という二つの杖によって羊を飼うのですが、我慢も極限に達し「慈愛」と名づけた杖を折ります。8節のことばに目が留まります。ゼカリヤが退けた三人の牧者とは、ユダの民のこれまでの指導者だった王と祭司、そして預言者のことだと考えられます。ということは、ゼカリヤが任じられている羊飼いがこれらの務めを一人で行うということをこのことばは表しているのかもしれません。
まことの王であり、大祭司であり、そして神のことばで羊飼いとはイエス・キリストです。ゼカリヤはここでやがておいでになるまことの羊飼いを「演じて」いるのです。羊を飼うのを止めたゼカリヤは、羊飼いとしての自分に賃金を払うようにと求めます。値積もりされた額は銀30シェケル。羊飼いゼカリヤの価値でした。これは、イスカリオテのユダがイエスを銀貨30枚で売ったことへと通じます。
15節を読むと、今度はゼカリヤは愚かな牧者を「演じる」ようにと命じられます。これは、まことの牧者を退けるならば、羊を滅ぼす愚かな牧者が現われて羊たちが犠牲になるという預言です。愚かな指導者は、群れを滅ぼしてしまうのです。