みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

二人の牧者

2022年03月25日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 11章

 ここは、複雑で何を伝えようとしているのかが分かりにくい箇所です。1−3節は内容的には前章に続くものだと思います。

 預言者は、神のことばを人々に伝えるために、さまざまなことをさせられることがあります。ここで預言者ゼカリヤは羊を飼えと命じられています。飼うのは屠られる羊の群れ。この羊の群れはやがて売られて殺されます。売る側の商人は潤い、買う側は羊を屠っても責めを負うことはありません。双方は自分たちの利益のために羊を売り買いしているだけなのです。ここでの羊は、力ある者たちによって良いようにされる民のあわれな姿を現しています。

 それでもゼカリヤは、「慈愛」と「結合」という二つの杖によって羊を飼うのですが、我慢も極限に達し「慈愛」と名づけた杖を折ります。8節のことばに目が留まります。ゼカリヤが退けた三人の牧者とは、ユダの民のこれまでの指導者だった王と祭司、そして預言者のことだと考えられます。ということは、ゼカリヤが任じられている羊飼いがこれらの務めを一人で行うということをこのことばは表しているのかもしれません。

 まことの王であり、大祭司であり、そして神のことばで羊飼いとはイエス・キリストです。ゼカリヤはここでやがておいでになるまことの羊飼いを「演じて」いるのです。羊を飼うのを止めたゼカリヤは、羊飼いとしての自分に賃金を払うようにと求めます。値積もりされた額は銀30シェケル。羊飼いゼカリヤの価値でした。これは、イスカリオテのユダがイエスを銀貨30枚で売ったことへと通じます。

 15節を読むと、今度はゼカリヤは愚かな牧者を「演じる」ようにと命じられます。これは、まことの牧者を退けるならば、羊を滅ぼす愚かな牧者が現われて羊たちが犠牲になるという預言です。愚かな指導者は、群れを滅ぼしてしまうのです。


これほどまでしてくださる羊飼い

2022年03月24日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 10章

 外に出ても寒さを感じなくなりました。夜7時を過ぎても空は真っ暗ではありません。次の日曜日からは夏時間。良い季節です。こんな時ですからなおさらのこと、空を見上げ、天のお父さまを覚えます。

 この章には、神がユダとイスラエルを回復される様子が描かれています。

 1−2節では、誰を求め誰に尋ねて人生を歩むかについての問いかけがなされています。「主に雨を求めよ」ということばは、具体的な命令です。漠然とではなく、雨を降らせてください。実りのためにどうしても必要なのですという切実な願いは、占い師にではなく主にこそ求めるべきなのです。目が見えないバルテマイに、「わたしになにをしてほしいですのか」と尋ねた、主イエスのことばを思いました。→マルコの福音書10章51節

 3節以降には、頼りにならない羊飼いたちと、頼りがいのあるまことの羊飼いなる主が並んでいます。「羊飼い」はゼカリヤ書後半のキーワードです。羊飼いなる主は、ユダとエフライムに力を与えて勇士のようにし戦いに勝利されます。イエスはまことの羊飼いとしてキリスト者をも、勇士として見えない敵との戦いに勝利するために導かれるのだと思ったときに、心に大きな喜びが湧いてきます。

 まことの羊飼いは、ご自分の羊たちのためにこれほどまでしてくださるのです。


ろばの子に乗る王

2022年03月23日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 9章

 木々の花も次々に開いて、春到来です。ワックス付の「プレミアム洗車」をしたばかりの自動車が、サハラからの黄砂で見るも無残な姿に…。給油のついでに洗車しました。いつもならそれほど待たずにできるのに、洗車を待つ何台もの自動車がすでに並んでいました。考えることは同じなのですね。待ちに待って、ようやくきれいになりました。

 ゼカリヤ書は、8章までが神殿の再建工事中に語られ、9章以降は神殿完成後に語られたものと考えられています。課題になっていた「大プロジェクト」をやり遂げた後の人々はどんな思いだったのだろうかと想像しながらここを読みました。

 9章の初めの部分には、イスラエルの周辺の国々の名前が並びます。ハデラクやダマスコはイスラエルの北東に、ハマテは北に、そしてツロやシドンは北西の海岸沿いの交易都市です。さらに、アシュケロン、ガザ、エクロン、アシュドデは、南西のペリシテ人の諸都市。これらの周辺国家は、イスラエルにとって常に緊張関係にありました。攻め込まれて戦いを交える時もあれば、友好的な関係の時もありました。神はそれらの国々にさばきを下すと語られるのです。そしてここで語られていることは、ゼカリヤの時代から200年近く後、マケドニアのアレクサンドロス大王によって果たされるのです。

 しかし、メシアはアレクサンドロス大王ではありません。彼は当時の世界制覇を成し遂げるとまもなく世界から消えてしまいます。真にイスラエルに、エルサレムに平和をもたらす勝利の王は、子ろばに乗って入場するのです。新約聖書の読者は、ここに描かれている義なる、勝利の王がナザレ人イエスだということを知ります。不思議な預言です。

 世界の制覇をもくろむ王たちや権力者たちは、戦車や軍馬、そして弓を増強します。現代ならどのような兵器でしょうか。しかし、ろばの子に乗ってエルサレムに入城する王はそれらを絶えさせます。そしてこの方は、もう一度この世界に王の王、主の主としておいでになります。

 「主よ、来てください。」


一緒に行きたい

2022年03月22日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 8章

 スーパーでは小麦粉や油類が品切れになっているので、イースターの子どもたちのためのイベントで行う予定だった工作も変更を余儀なくされています。でも、家や町を追われて避難している方々のご苦労を思うと何のことはありません。

 8章には読む者を力づけることばが連なります。エルサレムの回復、祝福の約束が語られているのですが、それはクリスチャンにも通じます。

 神が彼らをねたむほどに激しく愛すると2節にあります。神のご自分の民への厳しい仕打ちは、このねたむほど激しい愛からでていたのです。さらに3節には、神がエルサレムのただ中に住むとのことばがあります。これは、神殿の建設工事を再開して、完成を間近にしている彼らにとってどんなに大きな支え、神殿完成への力になったことでしょう。描かれる平和がウクライナにも…という思いを持ちつつ4−5節を読みました。8節でも神がエルサレムのただ中に住むとのことばが繰り返されます。「彼らはわたしの民となり、わたしは…彼らの神となる」ということばが心に迫ります。

 12節の「平安の種が蒔かれ」とのことば、さらに13節にはのろいから祝福となると言うことばも届けられます。それが勇気の源となるのです。断食についての質問への厳しい答えが前章にありましたが、ここには、断食が楽しみとなり喜びとなるという約束があります。

 そして何よりのことばは、23節「私たちもあなたがたと一緒に行きたい」と外国語を話す人々が一人のユダヤ人に言うというもの。クリスチャンとしてそのような者であったら、どんなに光栄なことか、うれしいことかと思います。しかし、これはただの夢物語ではなくて、実現する神のことばなのです。


そろそろ…という思い

2022年03月21日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 7章

 礼拝後の分かち合いの時間、このところ「主の祈り」を心を込めて祈っていると、ある方が話しておられました。「御国が来ますように」との一つの祈りだけでも、多くのことを考え教えられます。「御国が来ますように」と心から願っています。

 バビロンに捕囚されていたユダヤ人は、年に四回の断食の時を持ちました。第四の月(6月17日)はエルサレムの城壁が破壊されたことをおぼえての断食、第五の月(7月4日)は神殿が焼かれたことをおぼえての断食、第七の月(9月3日)はゲダルヤの殺害によって残りの民が離散するようになったことをおぼえての断食、そして第十の月(12月10日)はエルサレムがバビロンに包囲されたことをおぼえての断食でした。

 第五の月の断食をしなくてもよいのではないかとの預言者や祭司への質問は、神殿の再建工事もいよいよ終わろうとしているからという理由に基づくものだったと考えられます。ある意味で、質問はもっともなものでした。「断食は止めにしよう。新しい時代に入ったのだから…」との答えを、人々は期待したに違いありません。

 けれども、答えは違っていました。彼らはけん責されたのです。「自分たちのためではなかったか」ということばです。

 目に留まるのは、6節の「食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分のためではなかったか」ということばです。イザヤ書58章の初めの部分に、神が好む断食とはどのようなものかが明らかにされています。断食とはただ粗布をまとって食べ物を断つということではなくて、隣人のために配慮し行動することなのだと神は語ります。

 何かを行うときに大切なのは、なぜそれを、誰のためにそれを行うかということ、本当の動機です。


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