みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

そろそろ…という思い

2022年03月21日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 7章

 礼拝後の分かち合いの時間、このところ「主の祈り」を心を込めて祈っていると、ある方が話しておられました。「御国が来ますように」との一つの祈りだけでも、多くのことを考え教えられます。「御国が来ますように」と心から願っています。

 バビロンに捕囚されていたユダヤ人は、年に四回の断食の時を持ちました。第四の月(6月17日)はエルサレムの城壁が破壊されたことをおぼえての断食、第五の月(7月4日)は神殿が焼かれたことをおぼえての断食、第七の月(9月3日)はゲダルヤの殺害によって残りの民が離散するようになったことをおぼえての断食、そして第十の月(12月10日)はエルサレムがバビロンに包囲されたことをおぼえての断食でした。

 第五の月の断食をしなくてもよいのではないかとの預言者や祭司への質問は、神殿の再建工事もいよいよ終わろうとしているからという理由に基づくものだったと考えられます。ある意味で、質問はもっともなものでした。「断食は止めにしよう。新しい時代に入ったのだから…」との答えを、人々は期待したに違いありません。

 けれども、答えは違っていました。彼らはけん責されたのです。「自分たちのためではなかったか」ということばです。

 目に留まるのは、6節の「食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分のためではなかったか」ということばです。イザヤ書58章の初めの部分に、神が好む断食とはどのようなものかが明らかにされています。断食とはただ粗布をまとって食べ物を断つということではなくて、隣人のために配慮し行動することなのだと神は語ります。

 何かを行うときに大切なのは、なぜそれを、誰のためにそれを行うかということ、本当の動機です。


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