ゼカリヤ書 12章
月に一度の家庭での聖書の会。いつも一緒に聖書を読んだ後で主催者の方が用意してくださるお昼と、参加者が少しずつ持ち寄るものとをいただくのが楽しみなのですが、昨日は予定があって中座。残念でした。次回の楽しみといたしましょう。
この章には、エルサレムが神によって劇的な救いにあずかること、「恵みと嘆願の霊」が注がれることとが語られています。ここに記されていることの一部は、すでにイスラエルの歴史において見られたことでもあるのですが、完全な成就はやがての時を待たなければならないのでしょう。
力のない者、それどころではなく叩きつぶされそうにまでなっている者たちを神が助けるならば、彼らは守られ助けられるのです。8節の「その日、彼らの中のよろめき倒れる者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになって、彼らの先頭に立つ主の使いのようになる」ということばが目に留まりました。ローマ人への手紙8章31節の「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」というパウロのことばを思います。
この章の後半には「嘆く」「泣く」ということばが連なります。しかも、激しく…。ここにある嘆きは、人が神の前に持つべき嘆き、涙です。なぜならこれらは、自分たちが神に背いていること、神を突き刺したことを悔い改めてのものだからです。世界は今、大きな嘆きの中にいます。しかしそれが「あの人々はかわいそうだ」「世の中はひどい」「何度ひどい仕打ちだ」という嘆きでとどまるのではなく、「主よ、わたしの罪を赦してください」という祈りに繋がるものでありたいと願うのです。
「ひとよ、汝(な)が罪の 大いなるをなげき 悔いてなみだせよ…」(讃美歌21 294より)