マルコの福音書 9章14−29節
きょうから、スコットランドのエジンバラでヨーロッパにある日本語教会の年に一度の集まりが始まります。一日早く,昨日は東隣のグラスゴーまで来ました。緩やかな坂の街ですね。目抜き通りではバグパイプを吹く人、クラリネットを吹く人がいました。感動して応援のコインを…。
山の上で三人の弟子たちが夢のような時を過ごしていた時、残された弟子たちはたいへんな思いをしていました。父親が口をきけなくする霊に憑(つ)かれた人を弟子たちのところに連れて来たのですが、彼らにはいやすことができなかったのです。それがもとで、律法学者たちと論じ合うことになり、群衆も取り囲むまでに大きな騒ぎになっていたのです。
山を下りたイエスは、さっそくこの息子から霊を追い出してくださいました。
この出来事を読んで目に留まったのは、「不信仰」ということばです。イエスは弟子たちの報告を聞いて「ああ、不信仰な時代だ」と言われます。また、父親は「不信仰な私をお助けください」と言っています。父親はナザレのイエスなら、息子を救ってもらえると信じて弟子たちのところにやって来たのですが、弟子たちのやることを見、その後のゴタゴタを見て、ぐらついたのでしょうか。
不信仰な時代に不信仰な自分が生まれるのではないかと、考えました。
「祈りによらなければ」とのイエスのことばにも目が留まります。弟子たちはイエスがいないので、自分たちで何とかしようと考えたのでしょう。その場合も、祈ることなく自分たちの「成功体験」を引きずって「できる」と思ったのかもしれません。しかし、できなかったのです。
「祈りによらなければ」とは、祈る人の側の熱心さを指しているのではありません。自分にはできないことがわかった者に残された道はこれしかないのです。あれもこれもという、可能性の一つに祈りがあるのではありません。失望や絶望の先に残されている一つの、しかも、もっとも確かなものが祈りなのです。