みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

十字架につけろ

2018年08月25日 | マルコの福音書

マルコの福音書 15章1−15節

 ハンブルグからの車中でブログを書いています。昨日の日本チームの練習でチャプレンのボランティアが終わりましたので、ちょっとだけ観光を…。世界遺産に登録されている倉庫群があるとのことで、行きました。レンガの建物が運河沿いに並んでいます。その中にコーヒー店があり、焙煎(ばいせん)の機械がある中でコーヒーを楽しめます。けれども、長蛇の列。お店の雰囲気だけを味わい、コーヒーを味わうのは別の機会にしました。

 金曜日の朝、イエスはローマ総督ピラトの手に渡されます。マルコの福音書はピラトとイエスとのやりとりについては簡潔に記していますが、ほかの福音書も併せ読まれるのをお薦めします。

 ピラトは、祭りのたびにいわゆる恩赦を行なうことにしていました。バラバという暴徒たちの上に立つような悪党が引き合いに出されました。バラバとイエスなら、当然イエスを釈放することになるというのがピラトの腹づもりでした。ところが、事はピラトの狙いどおりにはいきませんでした。何とバラバを釈放するようにとの声が圧倒したのです。「十字架につけろ」とは、イエスを十字架にとの叫びでした。

 こうして、バラバがイエスのいのちと引き換えに釈放されることとなりました。

「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」イザヤ書53章5節

 バラバとは自分のことなのです。

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そんな者のために…

2018年08月24日 | マルコの福音書

マルコの福音書 14章53−72節

 今回の大会には、私も含めて7名のチャプレンが集まりました。ドイツから2名、英国のウェールズから3名、フランスから1名、オランダから1名です。まとめ役の方がきょうで終わるので(私もきょうまで)、昨日は一緒に夕食を…。

 逮捕されたイエスは大祭司の家に連れて行かれ、そこでイエスの審問が行なわれました。このために祭司長たち、律法学者、長老たちからなる最高法院が召集されました。最初からイエスを死刑に処するための審問でしたが、証言は一致しません。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか」との大祭司の質問に、「わたしが、それです」とイエスが答えたことばを捉えて、神を冒瀆するとして法院はイエスを死に値する者としました。

 捕えられたイエスの後について行ったペテロは、イエスが毅然として不当な審問を受けておられた間に、惨めな経験をしていました。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません」、「たとえ、ごいっしょに死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言い切ったペテロが、です。

 イエスは不当な審問に堂々と受け答えしました。それは、ペテロのためでもあったと言えます。けれども、ペテロはイエスのためどころか、自分のためにイエスとの関係を否定しました。ペテロは弱い、ペテロは愚かだと、誰も言えません。そんな者のために、イエスは一人で多勢に向き合っておられたのです。

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逮捕の場面で

2018年08月23日 | マルコの福音書

マルコの福音書 14章43—52節

 昨日は日本の試合がありませんでしたので、午前に女子のドイツ対中国戦を見ました。いやぁ、ホームゲームとはこうなのだということを実感。観客のほとんどがドイツチーム応援で、ずっと太鼓が鳴り響いています。中国にとってはアウェイ。結果はドイツの勝ちでしたが、中国も最後まであきらめませんでした。

 イエスの逮捕を巡り、ここには何人もの人物が描かれています。

 一人はユダ。彼はイエスを祭司長たちに売り渡しました。口づけは親愛の情の表現としてなされるはずの者なのに、彼にとってのそれは暗がりで逮捕すべきがだれなのかの目印。ユダの心が洗われているかのような偽りの口づけです。

 ユダに手引きされてやって来たのは群衆。彼らは都で実権を握る者たちから差し向けられ、剣や棒を手にしていました。一人を捕まえるために大勢がそれなりの武装をしています。

 イエスを捕まえに来た者たちの中にいた大祭司のしもべの耳を剣で切り落としたのは、マルコの福音書には名が記されていませんが、ペテロです。彼はイエスを守るために勇敢に戦ったように映りますが、漁師が剣を振り下ろすところに彼の弱さやもろさが見えてしまいます。

 そして「ある青年」。イエスについて行こうとした彼は、人々から捕まえられそうになり、裸で逃げました。「ある青年」とは、この福音書を書いたマルコのようです。この福音書はペテロの経験に基づきマルコが書いたと言われていますが、この部分を書く時に二人は互いに「とんでもない失敗をしてしまった」と互いの苦い経験を分かち合い、それでも主のあわれみによって自分たちの今があるのを、深い感謝とともに書いていったのではないでしょうか。

 さて、自分は以上の人々の中のだれなのだろうかと、立ち止って考えています。

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見えない戦い

2018年08月22日 | マルコの福音書

マルコの福音書 14章26−42節

 ここ数日は車椅子バスケットボール世界大会の話題で失礼いたします。昨日のベスト8を目指してのスペインとの試合は、途中15点差を見事に同点にまで追い上げたのですが、あと1本が足りずに2点差で惜しくも敗北。9位から12位決定戦に進むこととなりました。夕方はほかのチームの試合を幾つか見ることができました。男子のイラン対韓国、女子のアメリカ対フランス、オランダ対カナダ戦です。

 きょうの箇所も戦いの場面です。ペテロをはじめとする弟子たちは「肉」による戦いをして、敗北しつつあります。「たとえみながつまずいても、私はつまずきません」と言い切るペテロに、やがてとんでもない落とし穴が待ち構えています。

 一方で、ゲッセマネの園で祈られたイエスは十字架に向けての戦いをしておられました。神のみこころに従おうとする戦いです。マルコはこの箇所を淡々と記しているような感がしますが、医者ルカは「汗が血のしずくのように地に落ちた」と描きます(ルカの福音書22章44節)。

 スポーツの試合を見ていて、「ああ、あのゴールが入っていたら…」と残念に思うことがあります。私たちの歩みの中にも、悔いが残るような出来事があります。「自分はもうだめだ」と嘆くようなことです。ペテロをはじめとする弟子たちも、この後そのようなことをいやというほど体験するのです。

 だからといって彼らは、自分たちの失敗のゆえに消え去ったのではありませんでした。主イエスの戦いのゆえです。決して甘えているわけではありませんが、失敗したら後がないということのない神の大きな恵みを覚えます。

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主の食卓

2018年08月21日 | マルコの福音書

マルコの福音書 14章12−25節

 月曜日にハンブルグに…。けれども、乗るはずの列車は運休。およそ1時間の足止めを食って、替りの列車で向かいました。運休になったのは日本で言えば特急、替りの列車は日本ではほとんど見られなくなった急行だと言えばいいでしょうか。その急行が飛ばす(スピードを出す)こと。

 列車内で、日本チームの試合の様子を確認していましたが、ブラジルに負けました。しかし、グループ1位で次のステップに進みました。きょうはスペインとの試合です。

 この箇所は、イエスと弟子たちの最後の食事のことを描いています。改めて気づくのは、この食事の準備がイエスによってなされたということです。この食事をどこでするのかということから始まって、そのすべてがイエスが食卓の主人として用意しておられるということです。

 しかし,この時の弟子たちの関心事は、自分たちの中でだれがいちばん偉いかということにありました。また、ユダはイエス逮捕に向けての行動を、イエスからパンを分けてもらってすぐにするのです。イエスはユダばかりでなく、弟子たち一人一人に、どのような思でパンを裂いて分け与えられたのだろうかと考えるのです。ここで主は、「やめ!、中止!」とおっしゃらずに、一人一人にパンを分け与えていかれました。

 およそ、主イエスの体や血をいただくにはふさわしくない弟子たち。それは、私たちのことも指しているのです。けれども主は、そのような者たちにもパンを裂いてお渡しになるのです。聖餐への思いを新たにします。

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2011-2019© Hiroshi Yabuki