みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

公義を水のように、正義を川のように

2011年03月25日 | アモス書
アモス書5章16-27節

 主の平安がありますように。

 昨日は、大震災の発生後初めて「みことばの光」の出張校正(印刷会社での印刷前の最終チェック)のために上京しました。節電のために電車の暖房は切ってありました。 もっとも、これまでの電車内での暖房は効き過ぎることもあったので、着込んでいればこれはこれでよいのでは、と納得です。
 地震発生から二週間。今なおたくさんの行方不明者が、避難生活を強いられている方々がおられます。原発事故の対応も「一進一退」だと報じられています。
 このためもあってか、多くの人々がどこかに不安を抱え緊張して日々を送っています。極限にある人々に、神からの支えがあるようにとお祈りします。 

 私の故郷は福島です。
 高村光太郎の「智恵子抄」の中に、「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」(「樹下の二人」より)と歌われ、「阿多多羅山の山の上に毎日出ている青い空が智恵子のほんとうの空だといふ」(「あどけない話」より)と歌われ、「うつくしま ふくしま」とのキャッチフレーズを持つ福島が試練を被っています。

 「みことばの光」ではアモス書を読んでいます。北イスラエルに対する厳しい神からのメッセージが続くのを、複雑な思いで読んでいる方もおられると思います。イエス・キリストの十字架の贖いによって神の民とされた私たちの心を、アモスの預言のことばによってもう一度照らされて、自己を省みるきっかけになればと願っています。
 「主は(ご自分の民に)何を望んでおられるのか。それは公義と正義を、涸れることのない川のように行い続けることである。」(本日の「みことばの光」より)





主を求めて生きよ

2011年03月24日 | アモス書
アモス書5章1-15節

 主なる神の平安がありますように。

 教会の庭に白木蓮があります。気がついてみるとたくさんの花が今にも咲き出そうと「よーいドン!」の姿勢。
空を仰ぐ余裕がなかったなぁ、と白い花を見て独り言。
 花の名前にはまるっきり疎い私が、「こぶしなの、モクレンなの?」聞くと、妻は「こぶしの花よ」と答えましたが、疑り深い私は「白木蓮」ではないかと思い、写真を撮り「検証」。
…うーん、どちらでしょう?

 こぶしの花もモクレン科の花樹とのことで、どちらにしても「お仲間」。こぶしの花が歌われるのが、千昌夫さんの「北国の春」。そして、千昌夫さんの出身は陸前高田だったと聞いています。
 各地から救援物資が届けられていますが、課題はある場所には物資が積み上がっているのに、別の場所には全く届かないことだと、報じられています。必要なものが、必要としている人々に届けられますように。

 「みことばの光」のきょうの箇所では、「求める」ということばが目に留まります。
 東京都の金町浄水場で放射性物質が検出されたと発表されてすぐに、スーパーなどの棚からは飲料水ペットボトルが売り切れました。
食料がなくなるといえば食料を買いだめし、ガソリンがないというのでガソリンを求め、そして今度は飲料水を求める、こんな数日が映し出されています。

 改めて、人は何を求めて生きるのかを、きょうの聖書箇所から教えられたいと思います。



 
 




帰って来なかった

2011年03月23日 | アモス書
アモス書4章

 主なる神の平安がありますように。

 今朝は大きな余震が続きました。
 昨日、支援物資を届けに宇都宮市に出かけました。きょうは、宇都宮に集まった物資を2トントラックで気仙沼、石巻、塩釜と巡って届けてくださるとのことです。
 宇都宮で荷物を下ろし、教会の会堂に積まれた物資の仕分けを少しお手伝いして、午後4時半頃に戻りました。妻が驚いた表情で、「もう帰って来たの?」 道路が混んでいて、帰って来るのは深夜になると思っていたらしいのです。

 今回の震災では、家族や知人の安否を尋ね求め、その帰りを待ちわびている多くの人々の様子が映し出されていました。原発の事故で避難を強いられている福島県浜通りの方々も、いつになったらわが家に帰れるのかと不安を募らせていることでしょう。

 きょうの箇所には「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった」とのことばが繰り返し出て来ます。背信のイスラエルの民への、神からの愛ゆえの嘆きが響いてきます。
 ご自分の民が神のもとに帰るために、「わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから…」と神が言っておられます。
 それでは、民はどうするのでしょうか。「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」と呼びかけておられます。

 この備え、怠りのないように。
 


何を聞いているか

2011年03月22日 | アモス書
アモス書3章

 私たちの主なる神からの平安がありますように。雨の関東地方です。

 震災救援にわずかでも…と捧げられた献金を、今はどのように用いたらよいのか。教会の役員が話し合った結果、今は「お金より物」ではないだろうか、とのことから、こちらで食料品を購入して運ぶことにしました。
早速、携わっている障がい者施設に販売スペースを提供してくださっている隣町のスーパーに、救援のための食品を購入したい旨を日曜日夜遅くに電話しました。
翌朝、店長さんからお電話を頂き、すべて整えたのでいつでもよいとのこと。さらに、値段以上のものを用意してありますとのことでした。

 「みことばの光」の「考えよう」には、「神の民である教会に、神は何を「聞け」と叫んでおられるのだろうか」との問いかけがありました。自分は今、何を聞いているのだろう…。
被災地の悲痛な叫びが画面の向こうから聞こえてきます。原発の事故対応についての会見の様子が刻一刻と聞こえてきます。どれも大切な声です。耳を傾けこころに刻まなければならない声です。
 しかし今だからこそ、キリスト者は神のことばに耳を傾けなければならない、と思います。今だからこそ、聖書を読むという日常をしっかり堅持していきたいと願わされました。
 
 
 


そむきの罪

2011年03月21日 | アモス書
アモス書2章

 主の平安をお祈りいたします。

 日曜日はどのようにお過ごしになりましたか。私が通う教会では暖房を停め必要最小限の照明で礼拝を捧げました。普段は原発のすぐ近くの教会に通っておられるご夫妻が参加しておられました。
 礼拝の献金は被災地救援のためにと捧げられ、礼拝後、呼びかけで集められた支援物資の箱詰めをみんなでしました。水曜日に被災地に届けられます。

 「みことばの光」では、昨日からアモス書を読んでいます。礼拝では1、2章の「そむきの罪」と言うことばの意味を考えました。
「そむきの罪」と訳されていることばには、財産や個人の権利を侵すという意味があります。
他の国の権利を侵し、裏切る、そして弱い人を踏みにじるなどということを、ここに出てくる7つの国は神から責められているのです。

 宮城県大崎市に住む義妹から、先週金曜日に次のようなメールが送られてきました。
「お願いがあります。停電も昨日の朝一週間ぶりに解消しました。しかし食べる物がありません。今日も数時間列んでも買えたのはお茶漬けの元数袋だけです。こちらはお米とか知人が多少差し入れしてくれますが沿岸部の方々は困っています。首都圏では買いだめしている人がいるようですが知人とか教会にいらっしゃる方々に冷静になり被災者に少しでも分けてあげられるよう伝えてください。お願いします。」

 私たちが万が一のためにと買い溜めをすることで、被災地に食べ物が届かないのだとしたら、そしてそこに住む方が買い物に行って数時間並んでも、お茶漬けの元だけしか買えないことの原因のひとつになっているのだとしたら、それは「そむきの罪」を神さまの前に、そして私たちが会ったことのないだれかに対して犯していることにはならないのだろうか、と自らに問いました。




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