町中華というのに注目が集まっていることは、知らないではなかった。しかしである。なんとなくそういうのに乗るのも姑息な感じもする。ならばあえて気づかないふりをする。いや、腹は減るので、考えないようにしているとか。
僕はいわゆる本場中華を知るものである。というと語弊があるかもわからないが、別段いわゆる高級中華レストラン通いをしていたわけではない。また、新地のような中華街の通でもない。単に2年半中国の福建省に留学していただけで、しかしその間は、ほとんど毎日中華料理を食べて過ごしていたということを指している訳だ。そういう日々が、たぶん僕の中華に対するしっかりしたベースになっていることは間違いなくて、だからなんというか、日本の中華である町中華というのに対して、いわゆる日本人的な一般の感覚とはちょっと違うものがあるのではないか、という感じがある。さらりとめんどくさい事を先に行ってしまうと、中国の中にもいわゆる僕ら日本人からすると、本格中華とは少し違う町中華というのが存在する。そんな風に言われている気配は感じないが、それはあまりに自然に多様化して存在しているために、彼ら自体が、その存在を分類化できていないからではないか。それらは日本のそれとは別物ではあるのだが、いわゆる中華料理といわれる日本人の持っているであろう文化観を壊してしまうほどに破壊力があるはずの分野であって、そうしてその対比を含めた日本の町中華の存在があるはずだという予感がある。
実際のところは全然知らないのだが、いわゆる経済のそれなりに発展した諸国において、中華料理の進出していないところは稀だろう。中国人は人口が多いだけでなく、様々なところに出かけて行って住んでいる。そうして住んで生活をすると、その自分の持っている文化である食事をする。最初は心細いからそれなりにより固まって住み、そうしてなかには食堂を開く。現地にカスタマイズするところもあろうが、そうやって様々な形態ではあるが、しかしどこも似たような中華料理というものがあるはずなのである。それでそれが一定の支持を集めるようになると、必ず現地の国民の中に、その料理にインスピレーションを受けて、似たような料理を作るようになるはずなのだ。その歴史に差があって、特に日本では隣国ということもあって、早くからカスタマイズ化された日本的な町中華文化が地域に根付いている、ということなのではないか。だから町中華は中華料理が発祥でありながら、日本文化のにおいのするものであり、そうして実際に日本そのものを表すようになるまでになった。生活の一部になってしまっている人には、かけがえのないソウルフードであり、生きている喜びなのかもしれない。オヤジ文化や独身文化や、実は地域交流まで兼ね備えた、一大食事拠点になっているということなのだろう。
もともとラーメン餃子屋だったかもしれないが、段々と丼なども出して、そうしたサイドメニュー的なものがかえって評判になったりしてファンが広がって、大衆食堂中華もやるよ、という店がコテコテにドロドロになってしまったのではないか。
まあそういうわけでお世話になっておりますが、その個人史は、また別の機会に語るとしよう。