カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

爆弾処理・信念を持って働くおじさん

2020-08-09 | ドキュメンタリ

 中東の戦闘地には、たくさんの地雷が仕掛けられており、また敵のアジト風の建物などというところにもたくさんの爆弾が仕掛けられている。車にも積まれているし、道行く人が、爆弾を体に巻いて自爆したりする。要するに爆弾だらけで、気にしていたらとても暮らせないほどとも思われる。
 まあ、要するに、ゲリラ戦というのはそういうもののようで、対する相手が安心しないと思われるだけでもいいという考え方なのだろう。しかしながらやはりそれはそれなりに困ったことにはなるわけで、いったん敵方の陣地を取り戻すなどして平和的に暮らそうにも、あちこちに爆弾が埋まっているので、それを処理しないことにはやはり暮らしてはいけないのだ。そういう時に犠牲になるのは多くは子供で、ウロウロしたり遊んだりしていると地雷を踏む。そのまま亡くなる場合もあるだろうが、足などが吹っ飛んで、障害を負ったまま成長しなくてはならない、という子供の率が増えていく。これはこれで、非常に考えものである。
 それでせっせと爆弾処理をする専門の仕事の人がいる。そういう人のドキュメンタリーを見た。最初から家族の証言から始まるので予想はつく話だが、とにかくそれが凄まじい。
 自分なりに作った棒なのか知らないが、アスファルトから外れた土の部分をせっせとかき回して表面を掘り起こし、鉄などに当たらないか探している。それが地雷なんだろうが、場合によってはそれでも爆発するのではないか。とにかくそのおじさん(特別大佐なのだという)は、棒を振り回すように土を掻き出して、何個も何個も地雷を見つける。撮影しているカメラマンには危ないから離れろといいながら、自分はその手を休めることが無い。いくつか見つけるとペンチを取り出して、何かスパスパと配線を切っていく。これもちゃんと見極めて切っているんだろうけど、そのスピードは速く、なんだか適当に見える。おそらく信管を切った地雷がそこらあたりに積まれて行って、それを回収する車に積まれて運ばれていく。そういう作業を延々とやっている。いつ爆破するか分からないし、そのおじさん以外にもできる人はいるのかもしれないが、映像を見る限りそのおじさんの地雷を探し出すスピードは尋常ではなく、まさにどんどんどんどん見つけては信管を切って積んでいく。
 家の中の爆弾も同じく探している。敵が不在中なのか家の中に入り、どんどん配線を見つけては切っていく。爆弾もたくさん見つける。どうも携帯電話とつながった爆弾らしく、電話が鳴ると爆発して終わりなのだという。ミスしても終わり、携帯が鳴っても終わる。しかし実際に携帯電話の鳴る音がする。一目散に部屋の外に出るが、その時は爆発しない。すでに切った爆弾の起爆装置だったのかもしれない。また部屋に戻って配線を切っていく。
 そのようにして延々と任務を遂行していくわけだが、たまに家族のもとに帰ると、もう行くなと奥さんや子供たちに泣きつかれる。しかしおじさんはまた出て行って爆弾処理の仕事に戻る。何度も何度もそれを繰り返しているらしい。自分が辞めたらどこかの子供が犠牲になるかもしれない。ひとの子供も自分の子供も同じなんだ、とおじさんは言うのである。
 そうしてまたあるまちで地雷を探して作業をしていると、村人が呼んでいるのでそちらについて行こうとすると、爆弾が爆発した。土煙が晴れてオジサンの姿が映ると、すでに片足が吹っ飛んでいるのが分かる。破片が顔などにも飛んでいるらしい。病院に運ばれ一命はとりとめた。
 時間が経過して松葉づえになって、子供のサッカーなど観戦するようになる。それでも軍隊に戻るつもりだったようで、しかし軍隊は障害が重くなったので戻れないと断る。おじさんは、義足をはめてテスト生から軍隊に入り直し、また地雷処理の仕事に就くのである。おそらくだが、前の軍隊の地位は失ったかもしれないが、専門家でもあり、安い給料で再雇用されたのだろう。
 そうして今度は義足で不自由しながら爆弾を探していく。ある新しい街では、またしても大量の爆弾を見つける。もうさんざん仕事をして、今日は終わりだと仕事を切り上げて車で移動していると、その車を止めて「俺の家を見てくれ」と頼む村人がいる。もう終わりだ、と断るが、何とか頼むとしつこい。根負けしてその男の家に行くと、やはりたくさんの爆弾を見つける。まだまだあるぞと探していると、突然携帯電話の鳴る音がして……。
 そうしておじさんは、今度は命を失ってしまったのだった。
 これではキリがないな、と正直思った。しかし人はそうやってでも生きていかなければならない。信念を持った人は、そうやって仕事をするのだろう。もちろんこれは特殊すぎるし、誰もができる仕事ではない。しかし彼が死んでも、どれくらいの人がこのおじさんに感謝するのであろうか。
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不幸の見本としての物語   幸福なラザロ

2020-08-09 | 映画

幸福なラザロ/アリーチェ・ロルバケル監督

 水害か何かで隔離された集落の住民は、貴族の夫人に小作として働かされていたが、夫人のバカ息子の狂言誘拐事件で、違法で搾取されていることがバレてしまい解放される。事件の渦中で崖から落ちて死んだか何かしてしまうラザロという少年が目覚めると、何年も時が経過している。そして街で過去に一緒だった村人たちと再会し、更に狂言誘拐の首謀者のバカ息子とも再会する。それで村人を引き連れて再度バカ息子にからかわれるが、そういうバカ息子に哀れを感じ、銀行強盗と勘違いされて客に殴られ殺されてしまうのだった。
 カンヌで脚本賞をとったということで話題になった作品なのだが、そうしてそういう場合に得てして生まれることではあるのだが、思わせぶりな作風を持ってはいるものの、救いがたい愚作の代表的なものになっている。西洋人、特にヨーロッパ人には、宗教的な深淵なるテーマになると少し考えが弱くなるようで、このような過ちを簡単に犯してしまう。寓話として感じ入ってしまうのだろうが、馬鹿な人間がバカな人に騙されて、多くの人に迷惑をかけてしまうお話に過ぎない。それは純粋な人間だからそうなってしまうわけではなく、単に考えが足りないためにそうなるのである。多くの罪の連鎖を生み出し、反省も無い。詐欺で人を騙した人間に、多重の天罰を与えることに何の意味があるというのだろうか。
 自らの境遇を知らないだけで、虐げられ、豊かさに縁のない人々だから、人を騙して暮らしていいということにはならない。そうしてそういう人が、また、その境遇を笑う人に虐げられてもならない。二重三重に寓意を持たせているのは分かるが、そこに神の啓示があると考えるのは、何か自分自身に後ろめたいものがあるからだろう。邪悪な人はそのままでいるだけだし、騙していいのなら都合よくだまし続けるだけである。それに騙されないように学習していくのが人間であり、社会である。あきらめに救いなど無いのである。ラザロは最後まで幸福ではないし、騙された幻想に助けられてもいない。まるで神のゲームにもてあそばれて、死んでいっただけのことのように思える。それは人間として最も不幸な一生なのではないだろうか。
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