カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

人生楽しく生きたものの勝ちである   マリス博士の奇想天外な人生

2020-08-16 | 読書

マリス博士の奇想天外な人生/キャリー・マリス著(ハヤカワ文庫)

 今では連日PCR検査という言葉を聞かない日がないような状態になっているが、そのポリメラーゼ連鎖反応の方法を開発したことで、ノーベル賞をとった著者が書いた本である。ちょっと風変わりな人で、受賞時もサーフィンをやっていたことが話題になり、本の表紙もサーフボードをもって海を背景に写真におさまった姿である。マリファナやLSDもやっていたことを公言したり、4度の結婚や、科学的には旗色の悪いエイズ否認主義であるとか、地球温暖化にも異を唱えている。ある意味で正直で、しかし欲望に忠実な性格なようで、金儲けにも興味があるし、それなりにスケベで遊び好きなだけである。しかし科学者としても優秀なキャリアを積んで、成功を収めたということのようだ。もちろん事の成り行きは、面白おかしくこの本に書かれてあった。
 この発見後に世界は変わったというのは間違いなくて、現在のように新型コロナにおびえる国際社会は、この検査法が無ければ、おそらく誰も知らないままに単に病気でパニックになっただけのことになったかもしれない。一方で感染者(厳密には陽性反応者だけど)の数が検査をすれば把握できるので、別のパニックも生んでしまったわけだが、多くの研究者の研究に役立つだけでなく、政治利用されやすい科学的発明を成し遂げたわけだ。しかしながらこの本を読むまでは知らなかったのだが、PCRのやり方を発表した当時は、そんなに話題になることも無く、著名な科学雑誌にも取り上げられることすらなかった。同僚たちにも半ば無視されたような形で、本当にそんなに重要なのか、ほとんどの人は分からなかったのだ。著者はそのことに恨みは感じているようだが、まあ、気を取り直して後のノーベル賞受賞ですっかり人生を反転させて、また楽しい生活を送っておられるようである。基本的に自分で調べたことと、自由と、その信念のようなものを突きとおすような人のようで、ひとからの批判にはみじんも動じず、多少間違っているような危険のあるようなことでも、平気で批判をしたり擁護したりを繰り返している。文章を読む限りでは、それなりに筋は通っているが、やっぱり変人には違いない。しかしまあ、それもこれもノーベル賞をまだ若いうちに受賞できたおかげで注目を集められたので(それで少なからず経済的にも潤ったのだろう)、素直にそのことには感謝しておられるようだ。いろいろ難しい事情はあろうが、世の中の偉大な発見は、いち早く専門家をはじめ多くの人々に顕彰されるべきものなのかもしれない。まあ、晩節を汚さないなど気にしない人だからこそ、楽しい人生のようで、そういう生き方は、やはりもともと運命的に運を持っているということなのかもしれない。
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人間なんてそんなもん、なのだろうか?   すべては海になる

2020-08-15 | 映画

すべては海になる/山田あかね監督

 書店員の千野さんは、それなりの文学通でもあり、愛についてのコーナーを任されてもいる。そこに主婦らしき怪しい客がやってきて、万引きをする。何とか捕らえたと思ったら、盗んだ本が見つからない。後に本屋の廊下に落ちていたのが分かり、誤認でやってしまったということになってしまい、自宅へ上司とともに謝罪に行く。その家がなんとも不気味な感じのところで、不良娘は二階で大声を出しているし、いかにも学者風の偉そうな中年男がソファーにふんぞり返っており、奥で万引き疑いの主婦が静かに作業している。そうして謝罪を受けたが、謝罪の誠意は結局金だといわれるのである。
 書店側も非常に困った状況に陥っているようだけど、翌日この家族の関係者という高校生の男の子がやって来る。そうしてもう謝罪に来る必要は無いし、このことは自分が解決すると語る。千野さんはこの高校生に関心を持つようになり、自分の携帯の番号も教える。
 この映画の監督さんがこのお話の原作小説の作家さんでもあるらしい。劇中にも別の小説が紹介されて、それも物語になっていて、書いた作家もだけど、これを読んだ人たちの心象風景と深く重なる構成になっている。特に主人公の千野さんは、劇中の主人公の女性に共感しており、しかしだからこそそのストーリーの最後には、どうにも引っ掛かり納得がいかないのだった。しかしこの本はベストセラーになり、サイン会が催され、そして著者と話をする機会があって、そこで実はその最後は編集者によって改変したということを聞かされる。その改変を指示した男は自分と懇意のセックス・フレンドである。そうして万引き家族の青年は、学校でいじめられつつも本を読み進み、書店員千野さんへの愛も深めていく。書店員千野さんは、愛について更に混乱してしまい、一度は関係を絶った編集者の男とのセックスの関係を、再度始めてしまうのだった。
 まあ、何と言うか、そのほかにもいろいろ問題のある映画なのだが、流れとしてその不穏さとともに、現代社会の鬱憤というか、闇というか、そういうものをなかなかうまく描き出している。いっぺんに解決することなんてできないかもしれないが、自分の考えを口に出して相談して、そうして好きなようにしていいのである。それを拒んでいる障害はたくさんあるんだが、たとえそうだとしても、単なるロマンにおぼれず、自分の生き方を貫けばいいのである。なんとなく地味だが、なんかいい作品なのではないだろうか。
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当たり前のことを確認しよう   自分をコントロールする力

2020-08-14 | 読書

自分をコントロールする力/森口佑介著(講談社現代新書)

 副題に「非認知スキルの心理学」とある。有名なマシュマロ・テストというのがあるが、ご存じだろうか。お皿の上に一個のマシュマロを置いた状態で、子供に今マシュマロを食べるなら1個だけだが、10分程度我慢して待つことができたら2個食べてもいい、と告げて部屋を出ていく。子供はそれを待つことができるか、ということと、失敗する子と成功する子を追跡調査し、将来的に年収の違いなどが出るのか? ということで統計をとったものがあるという。一般的には待つことができて2個のマシュマロを食べることに成功するような子供は、将来的にも学習の成績が良く、したがってよい就職も得るようになり、年収にも差が出るというものである(実はそのようなことが書いてある本は以前に読んだことがある。そこでは優位な差が出たというデータも含めて、このような非認知スキルの重要性が説かれてあった。調査の結論は違うものであっても、基本的には本書の主張とはかみ合うものなのだが)。いかにもアメリカ的というか、いかにも現代的な思想をもとに人間の成功能力を測るという試みなのだが、本書では、必ずしもそのようなことにはならないと紹介してある。幼年期のそのような傾向は、青年期や大人になっても必ずしも傾向として続くものではないということらしい。実際に我慢強い子もいるのかもしれないが、こういう実験結果は、偶然が左右する確率とそう変わらないのだそうだ。だいたい幼年期ってものすごく気まぐれだし、そういう三つ子の魂100まで、というようなものは、大人の幻想に過ぎないのかもしれない。だいたい子供の頃の自分と現在の自分は、ほとんど別人といっていいくらい違う人間のはずである。そうであるのに、子供のころのほんの一回やらかしてしまった性質の一部を覚えていて、たまたま同じようなことを大人になってやったとしても、それは単なる偶然のたまものであって、変わらないその人の一貫性のある性質とはいいがたいものなのではないだろうか。
 もちろん、IQなどのいわゆる能力の高い人間よりも、実際はコツコツ勉強するような習慣を会得するような人の方が、結果的に成績は上になるなどの傾向があるようで、目的意識をもって、さらにそれを実行できる能力を伸ばすというのは、当たり前だができれば持っていたい能力だ。そうしてそういうものを、子供につけさせることができるのなら、何とかそうできないものかと考えるのが人情である。まあ、そういうもろもろは一応書いてあるが、学者の常として、そういうことはなんだかわかりにくいものの、まあ、多少は身には付くようにはなるようだ。もちろんそれは大人になってからでもそうであって、努力次第なのかもしれない。
 また、いわゆる褒めて伸ばすというような教育方針のようなものであっても、褒美が目的化して頑張るというのは、結局長い目で見ると、その子のためにはならないなどの研究も紹介されている。叱って罰を与えるよりはいくぶんマシ、という程度なのだという。つまるところいかにかかわりをもって接するかということの方が重要で、ネグレクトなど虐待が一番子供には悪影響で、体罰などで厳しくしかりすぎるのは問題だとは言え、しかしそれでも無視するより少しくらいはマシであるらしい。どうあっても子供に関心をもって関わることの方が、重要なのだという。これには多少誤解も生まれそうにも思えるが、当たり前だが親をはじめとする大人と子供の関係こそが、子供の成長には重要なのである。もちろんその質も上げられるということなんだろう。
 一番為になったことは、大人になってからでも、そのような性質は身につくということだった。しかしそれよりももっと重要なのは、目の前の欲望から目をそらすことであるらしく、子供であってもマシュマロから目をそらすことができる子が我慢できるように、そもそもの誘惑要素を排除して考えないことで、今やるべき目の前の一点に集中することが可能になるようだ。要するにシングルタスクとマインドフルネスだ。今ここだけのために、他の余分なものは見ないようにしましょう。
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コンビは決まった人と組もう   僕たちのラストステージ

2020-08-13 | 映画

僕たちのラストステージ/ジョン・S・ベアード監督

 大人気を博した伝説のコメディアン、ローレル&ハーディの晩年の姿を現したドラマ。事務所の契約の関係のこじれで、一度はコンビを解消していたが、全盛時代から時代を経て、16年後に再び英国の地で、コンビを復活させ劇場を回るようになる。もっともその勢いで、映画会社との契約も勝ち取ろうという思惑もあるようで、水面下では交渉が続いている。いくら以前に時代を風靡したコンビとはいえ、最初はなかなか客足が伸びない。しかし知名度は抜群で、なりふり構わす宣伝を打ち、報道も共感的なものが増えていき、再び画期的な人気を取り戻していくのだったが……。
 大人気の大スターながら、時代もあり、お互い複数の離婚歴があり、生活習慣やギャンブルなどの問題なのか、稼いだ金がちゃんと資産として残されていない様子だ。今回のツアーは、そのような生活を打開すべく打って出た、最後の賭けのような試みなのかもしれない。実際にコンビとして動いてみると、あんがい以前のようにしっくりするし、新しいギャグを話し合っても、それなりに形になっているように感じられる。映画としての脚本の方も相方が書いているのだが、なかなかウケそうな塩梅なのである。最初こそ英国側のエージェントのいい加減さもあって扱いがショボいが、何しろ実力者だから大衆はもともとみんな知っているのだ。やっぱり面白いじゃないかと話題になって、劇場の規模を大きくしても大入り満員なのである。
 そういう中にあって、実はやはり過去の確執が原因で、二人は大げんかをやらかしてしまう。過去のわだかまりは、避けて通っていただけのことで、実は心の奥底に、ずっとくすぶり続けていた火種のようなものだったのだ。お互いがお互いに対する不満はあって、それは言わずが仏であっただけのことで、一人がポツリと過去のことを口に出してしまったが最後、どんどん相手を罵倒して止まらなくなる。いつも舞台で演じているドタバタギャグさながらの大げんかになって、もう最悪の関係になってしまうのである。
 こういう伝記映画のどこまでが史実に忠実なのかは僕にはわからない。しかしながら大筋での出来事や、当時のギャグの再現なども行われていた様子である。よく似ているに違いなさそうだが、もちろんいろんな演出デフォルメはあることだろう。売れに売れながら、当時の契約のやり方などにも、やっぱり問題はあったのかもしれない。晩年の悲しさとともに、実にうまくまとまった感動コメディになっている。友情ってやつは、やっぱり必要なんだな、と思います。そうしてそういう友人こそ、人生の豊かさなのであろう。
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みんなキューブリックになろう!

2020-08-12 | なんでもランキング

 キューブリック作品の何を最初に見たのか、というのがはっきりない。多くの作品はそれぞれ見返しており、テレビなどの放送もあったし、借りたのもあって記憶が混雑している。白黒だったのかカラーだったのかさえ、よく思い出せない。しかしながらすでに評判が定着した後のことであったのは確かで、例えば映画の本編を見る前に、「2001年宇宙の旅」のいくつかの場面は見た記憶がある。その後ちゃんと見直して、「ああ、やっぱり映画の方が凄いんだな」と感激した。
 それではっきりしないといいながら、恐らく最初は「スパルタカス」なんだと思う。テレビのロードショーで見て、女は怖いんだな、と思った。まあ仕方がないともいえるが。奴隷という立場のつらさがありながら、どんどん力をつけて反撃していくストーリーはなかなか力があり、そうして負けても皆がスパルタカスになるという感じも、いかにも民主国家の在り方のような感じで、それなりの啓蒙作品だったのかもしれない。後にキューブリックはこの映画の製作についての不満が、ハリウッドから離れるきっかけになったといわれている。それまで仲の良かった主演をしていたカーク・ダグラスとの関係も、こじれてしまったようだ。
 とにかくキューブリックは、自己主張の強い変人であると業界では有名な人なのだが、強いこだわりがあるのは見て取れるものの、それなりに自分自身はユーモアがあって面白い人だと思っていたらしい。しかし映画を撮るということに関しては、徹底して資料を集めて吟味し、とにかく時間をかけて準備する。他の人に脚本を書いてもらったとしても、ほとんど原型をとどめないほどにずたずたにして自分で書き換えてしまう。それは何とか自分の思うような素晴らしい作品にしたい、という思いの強さではあるわけだが、そうされてしまった人が、いい気分でいられなくなるという原因でもあろう。
 ということで僕が一番衝撃を受けたのは、他でもなく「時計仕掛けのオレンジ」なのである。題名も訳が分からないが、みていてもそんなに訳が分かる内容ではないが、とにかくショックを受けた。映像はきれいなんだが、内容はグロテスクで、まさにバイオレンスの連鎖が続き、うんざりさせられるんだが、次が気になって仕方がない。見終わった後も、何かどう考えていいか混乱して、楽しいのだ。これは凄いな、と思って今更のようにあれこれ気づくことがあって、この作品に影響を受けた日本の漫画も結構あるように感じた。特に手塚治虫は「時計仕掛けのりんご」という作品があって、内容はクーデターものでまったく別のものだが、いわゆる不条理な暴力を扱うという意味では、ちょっとした共通の感覚があるのかもしれない。
 感心したものばかりとは言えない。ある人からキューブリックならダントツに最高傑作は「バリー・リンドン」だといわれ喜び勇んで鑑賞したが、あえなく撃沈した。これだけ退屈で面白くない映画もそんなにたくさんはあるまいと思ったものだが、後にそれなりにやっぱり退屈で面白くない作品は、世の中にたくさんあることも知ることになる。まあ、そんな風に考えてみると、ちょっとくらいはマシな方だったかもしれないが、とにかくキューブリック作品だから、我慢して観た人が多かったのではなかろうか。確かに蝋燭のみの照明を使い、当時の調度品や衣服を精密に再現したということは凄いのかもしれないが、後にキューブリック自身も語っている通り、作り物であることに変わりはなく、いくら本物に近いといっても、映画を見ている人が本物だと感じることが肝心なのであって、道具がそうだから本物だという議論は、キューブリック自身も望んでいる評価ではないだろうと思う。
 僕があんがいお勧めするのは「現金に体を張れ」である。時代として「突撃」もいいのだが、初期のものはこれくらいドライに非情を描いた作品もあるまい。いや、キューブリック作品はどれも非情といえばそうなんだけど、その一番空しいラストが、見事に表れている傑作だろう。
 そうして「博士の愛情」ということになるが、これは多少ごちゃごちゃしたコメディながら、笑えないまでもなかなか面白い。何度か見ると、実際は笑えるようになるので、変な作品なのである。
 ホラーでは作者からは嫌われたそうだが、やっぱり「シャイニング」は素晴らしいと思う。そこまで怖いという感じではないが、とにかく映像がきれいで、テレビCMなんかには使いたくなる人がたくさん出たのではないか。不気味だったりショッキングだったりする場面も多くて、流れとして確かにキング作品のしつこい怖さという感じではないのだけれど、まあ、キューブリックなんだしいいじゃん、と思ってしまう。
 そして「フルメタルジャケット」なんだが、これも素晴らしい傑作だと思う。それまでこんな戦争映画を観たことが無くて、こういう戦争を風刺する方法があるんだな、という発見が凄かった。その後はそれなりに真似られて、こういう表現はいわば当たり前になったと思うけれど、最初のショックは大きかった。それと正直言って僕がタイムリーにキューブリック作品を観たのは、これと最終の「アイズ・ワイド・シャット」だけで、最後はちょっとずっこけたな、という印象をもってお笑いだったけど、フルメタル・ジャケットはそういう意味でも素晴らしい体験だった。本当に亜流作品がたくさん生まれて、日本の漫画もそういうのがたくさん出た。いわゆるクリエイターに影響力のある人で、みんなキューブリックになりたくなるのだ。
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いい嫁さんはいい幽霊になる   夫婦フーフー日記

2020-08-11 | 映画

夫婦フーフー日記/前田弘二監督

 友達として17年、段々意識するというより、まあ結局やっと意識するようになって結婚し、すぐに妊娠が分かったが、同時に悪性腫瘍も見つかる。そうして出産後一か月で妻はあっけなく亡くなってしまう。ものすごい悲劇だが、その妻との出会いと闘病生活をつづった作品が出版されそうになり、結局駄目になったりするせいで、さらに精神が揺さぶられているときに妻の幽霊を見るようになってしまう。普通ならこれはホラーだが、そうはならず、その妻の幽霊のせいで、この話がコメディになってしまうのだった。
 どういう意味だか分かりにくいだろうが、実際に見ているとそうなってしまっていて、この幽霊の妻と夫とのやり取りが、掛け合い漫才のようなことになっている。死んでしまった妻(文章ではヨメ)のことをつづった作品を読み返すと、その時のいきさつのほんとうの展開が映像として現れる。実は文章に書かれていることには少しウソがあって、真実のまま書かれているわけではない。そういうところを幽霊の妻から指摘されたり怒られたりする。しかしそれは当然訳があって、そのまま描くにはつらすぎることや、あえて嘘を書いて理想化するようなことで、作家としての自分自身に対しての慰めにもなっていたことが明かされていくのである。いくら何でもつらすぎる事実の中で、多くの人にも支えられてもいるが、自分も頑張らないことには生活もできない。そういうつらい立場の男の自立物語だともいえるだろう。
 なんで幽霊の妻が現れたのか、というミステリが、途中明らかになりそうになるところがあるのだが、何の変哲もない会話だけで、世の中が二転三転と転換する。アッと驚かされるが、しかし結局脱力して笑わされてしまう。そうして気づかないうちに泣かされてもいるわけだ。妙な話なんだけど、そのままの話だけだと悲しすぎてみる気になれなかっただろうが、このようなコメディとなって、なるほどな、と感心する作品になっている。確かに妻に指摘されるまでも無く、いろいろ突っ込みどころはあるわけだが、しかし何という悲劇なのかと悲しむ余裕などなく、仕事もそんなにうまくいくことも無く、もがきながら作品を書こうという男の姿がある。でも、やっぱりそんなに簡単には上手くは行かないわけで、そうして空しく妻は苦しみながら死んでいく。本当にやり切れない。でもやっぱりコメディな訳で、いつまでも幽霊が出続けてくれるといいのにな、と思う。死んだ人間が幽霊になるっていうのが、こんなにも人を救うことだなんて思ったことが無かった。幽霊でもいい嫁さんというのはいる訳で、結局相性というのは大切なのである。
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住まいとしてのキャンピング・カーの使い道

2020-08-10 | culture

 モータリゼーションの普及とともに、娯楽としてのキャンプがもてはやされたというのが出発点でありながら、その当時の米国はそのまま深刻な不況に陥ってしまった。それでもキャンピング・カーは売れ続けたのだという。その理由は、家のローンが払えなくなって、家そのものを失ってしまった人が多かったためだという。あちらの税制の関係もありそうだが、車のついた箱であれば、家としての税金が免れることも大きかったようで、庭などにキャンピング・カー(モービルハウスなどともいうようだ)を移動させて暮らす人が増えたのだという。
 困ったことには、それがそれなりに歴史を持つようになっているようで、多少貧しさの象徴も無いではないだろうけれど、合理主義的にキャンピング・カーでの生活をしている人が一定以上いるらしいという(要するに税金逃れ)。失業などの問題もあるけれど、学校の先生など、比較的薄給(日本とは正反対だが)の労働者の住まいとして、根強い人気があるようだ。
 というのは米国の話だったのだが、日本でも、キャンピング・カーとまでいかなくても、いわゆる車中泊で暮らしている人が増えているのだという。被災してやむなく、という人がいることも話題になったが、そもそもの出発がそうである人もいるのだろうけれど、要するに原因は貧困で、家などを失った後にも車は手放さず、そのまま公園や道の駅などの駐車場に居ついてしまうのだという。そういう場所でないと、水やトイレの問題があるためであろう。日本らしいというのは、車の車種はあまり関係なく、ふつうの車にそのまま泊るということで、決してキャンピング・カーなどに改造したものではないということだろう。そもそも庭にそのような車を持ち込んで暮らすというような話は聞かないし(絶対に居ないとは言えないが)、庭に設置するならプレハブなどの一応の建物のはずで、あれは基礎がしっかり打ってなければ、登記が要らないかもしれず、ひょっとすると税金逃れにはなるかもしれない(詳しくは知らない)。また、多少の雨風がしのげればいいというのなら、ちょっとした骨組みを、いわゆるブルーシートで囲ったようなものを作るのではないか。田舎ではめったに見ないが、それなりに人が住んでいる近くなら、そうやって暮らす人が一定数出てくるだろう。それは由々しき問題ではあるとはいえ、そう簡単にキャンピング・カーには住めないのではなかろうか。
  もっともやはりあちらはキャンピング・カーを用いたキャンプ自体も盛んなようで、キャンピングカー・カー製造メイカーもたくさんあるという。また季節ごとに工場が労働者を募集するというような職種があって(知らないで言うのだが、クリスマス前のケンタッキー・チキンだとか)そういうところで渡り歩いて働く人は、キャンピング・カーで移動して、そのまま生活をするのだという。そうすると中古市場の充実もありそうで、ともかく日本より安価に、そうして比較的ハードル低くキャンピング・カーの生活が送れるのかもしれない。
 日本だと国勢調査なんかもあるだろうから、安易に移動生活はできそうにないな、と思っていたのだが、そういうことでネット・カフェ生活者がいるわけか……。なるほどね。納得するには、もっと掘り下げて問題意識を持つべきかもしれないが、お国事情は反映されていることかもしれない。
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爆弾処理・信念を持って働くおじさん

2020-08-09 | ドキュメンタリ

 中東の戦闘地には、たくさんの地雷が仕掛けられており、また敵のアジト風の建物などというところにもたくさんの爆弾が仕掛けられている。車にも積まれているし、道行く人が、爆弾を体に巻いて自爆したりする。要するに爆弾だらけで、気にしていたらとても暮らせないほどとも思われる。
 まあ、要するに、ゲリラ戦というのはそういうもののようで、対する相手が安心しないと思われるだけでもいいという考え方なのだろう。しかしながらやはりそれはそれなりに困ったことにはなるわけで、いったん敵方の陣地を取り戻すなどして平和的に暮らそうにも、あちこちに爆弾が埋まっているので、それを処理しないことにはやはり暮らしてはいけないのだ。そういう時に犠牲になるのは多くは子供で、ウロウロしたり遊んだりしていると地雷を踏む。そのまま亡くなる場合もあるだろうが、足などが吹っ飛んで、障害を負ったまま成長しなくてはならない、という子供の率が増えていく。これはこれで、非常に考えものである。
 それでせっせと爆弾処理をする専門の仕事の人がいる。そういう人のドキュメンタリーを見た。最初から家族の証言から始まるので予想はつく話だが、とにかくそれが凄まじい。
 自分なりに作った棒なのか知らないが、アスファルトから外れた土の部分をせっせとかき回して表面を掘り起こし、鉄などに当たらないか探している。それが地雷なんだろうが、場合によってはそれでも爆発するのではないか。とにかくそのおじさん(特別大佐なのだという)は、棒を振り回すように土を掻き出して、何個も何個も地雷を見つける。撮影しているカメラマンには危ないから離れろといいながら、自分はその手を休めることが無い。いくつか見つけるとペンチを取り出して、何かスパスパと配線を切っていく。これもちゃんと見極めて切っているんだろうけど、そのスピードは速く、なんだか適当に見える。おそらく信管を切った地雷がそこらあたりに積まれて行って、それを回収する車に積まれて運ばれていく。そういう作業を延々とやっている。いつ爆破するか分からないし、そのおじさん以外にもできる人はいるのかもしれないが、映像を見る限りそのおじさんの地雷を探し出すスピードは尋常ではなく、まさにどんどんどんどん見つけては信管を切って積んでいく。
 家の中の爆弾も同じく探している。敵が不在中なのか家の中に入り、どんどん配線を見つけては切っていく。爆弾もたくさん見つける。どうも携帯電話とつながった爆弾らしく、電話が鳴ると爆発して終わりなのだという。ミスしても終わり、携帯が鳴っても終わる。しかし実際に携帯電話の鳴る音がする。一目散に部屋の外に出るが、その時は爆発しない。すでに切った爆弾の起爆装置だったのかもしれない。また部屋に戻って配線を切っていく。
 そのようにして延々と任務を遂行していくわけだが、たまに家族のもとに帰ると、もう行くなと奥さんや子供たちに泣きつかれる。しかしおじさんはまた出て行って爆弾処理の仕事に戻る。何度も何度もそれを繰り返しているらしい。自分が辞めたらどこかの子供が犠牲になるかもしれない。ひとの子供も自分の子供も同じなんだ、とおじさんは言うのである。
 そうしてまたあるまちで地雷を探して作業をしていると、村人が呼んでいるのでそちらについて行こうとすると、爆弾が爆発した。土煙が晴れてオジサンの姿が映ると、すでに片足が吹っ飛んでいるのが分かる。破片が顔などにも飛んでいるらしい。病院に運ばれ一命はとりとめた。
 時間が経過して松葉づえになって、子供のサッカーなど観戦するようになる。それでも軍隊に戻るつもりだったようで、しかし軍隊は障害が重くなったので戻れないと断る。おじさんは、義足をはめてテスト生から軍隊に入り直し、また地雷処理の仕事に就くのである。おそらくだが、前の軍隊の地位は失ったかもしれないが、専門家でもあり、安い給料で再雇用されたのだろう。
 そうして今度は義足で不自由しながら爆弾を探していく。ある新しい街では、またしても大量の爆弾を見つける。もうさんざん仕事をして、今日は終わりだと仕事を切り上げて車で移動していると、その車を止めて「俺の家を見てくれ」と頼む村人がいる。もう終わりだ、と断るが、何とか頼むとしつこい。根負けしてその男の家に行くと、やはりたくさんの爆弾を見つける。まだまだあるぞと探していると、突然携帯電話の鳴る音がして……。
 そうしておじさんは、今度は命を失ってしまったのだった。
 これではキリがないな、と正直思った。しかし人はそうやってでも生きていかなければならない。信念を持った人は、そうやって仕事をするのだろう。もちろんこれは特殊すぎるし、誰もができる仕事ではない。しかし彼が死んでも、どれくらいの人がこのおじさんに感謝するのであろうか。
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不幸の見本としての物語   幸福なラザロ

2020-08-09 | 映画

幸福なラザロ/アリーチェ・ロルバケル監督

 水害か何かで隔離された集落の住民は、貴族の夫人に小作として働かされていたが、夫人のバカ息子の狂言誘拐事件で、違法で搾取されていることがバレてしまい解放される。事件の渦中で崖から落ちて死んだか何かしてしまうラザロという少年が目覚めると、何年も時が経過している。そして街で過去に一緒だった村人たちと再会し、更に狂言誘拐の首謀者のバカ息子とも再会する。それで村人を引き連れて再度バカ息子にからかわれるが、そういうバカ息子に哀れを感じ、銀行強盗と勘違いされて客に殴られ殺されてしまうのだった。
 カンヌで脚本賞をとったということで話題になった作品なのだが、そうしてそういう場合に得てして生まれることではあるのだが、思わせぶりな作風を持ってはいるものの、救いがたい愚作の代表的なものになっている。西洋人、特にヨーロッパ人には、宗教的な深淵なるテーマになると少し考えが弱くなるようで、このような過ちを簡単に犯してしまう。寓話として感じ入ってしまうのだろうが、馬鹿な人間がバカな人に騙されて、多くの人に迷惑をかけてしまうお話に過ぎない。それは純粋な人間だからそうなってしまうわけではなく、単に考えが足りないためにそうなるのである。多くの罪の連鎖を生み出し、反省も無い。詐欺で人を騙した人間に、多重の天罰を与えることに何の意味があるというのだろうか。
 自らの境遇を知らないだけで、虐げられ、豊かさに縁のない人々だから、人を騙して暮らしていいということにはならない。そうしてそういう人が、また、その境遇を笑う人に虐げられてもならない。二重三重に寓意を持たせているのは分かるが、そこに神の啓示があると考えるのは、何か自分自身に後ろめたいものがあるからだろう。邪悪な人はそのままでいるだけだし、騙していいのなら都合よくだまし続けるだけである。それに騙されないように学習していくのが人間であり、社会である。あきらめに救いなど無いのである。ラザロは最後まで幸福ではないし、騙された幻想に助けられてもいない。まるで神のゲームにもてあそばれて、死んでいっただけのことのように思える。それは人間として最も不幸な一生なのではないだろうか。
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ミステリ作品と男女の機微   愛についてのデッサン 佐古啓介の旅

2020-08-08 | 読書

愛についてのデッサン 佐古啓介の旅/野呂邦暢著(みすず書房)

 野呂邦暢が亡くなる一年前に出版された小説だという。一応一貫した流れはあるが、短編集といっていい。父から引き継いで古書店を営む若い男が、古書やその本にまつわる人々の関係で、父親の郷里長崎や、友人と共通の恩師にまつわることで京都に旅したりする。章立ててある話の一つ一つに、いわゆるミステリが隠されていて、その謎解きを追って物語が運ばれる。下手なミステリ作品よりしっかりしたトリックが仕掛けられている。しかし文学作品でもあって、その物語につづられる人々の感情が、詩情を交えて浮き彫りにされていく。男女の情愛や愛憎など、なかなかに複雑な心情が見事に描かれていくのである。
 もともとアンソロジーとしてこの中の一編である「本盗人」を過去に読んだことがあって、それで後からこれを買ったのだと思う。買って少し読んだかもしれないが、なぜかそのまま積読していたようだ。最近なんとなく気になってバラバラにまた一編読んで、そうして最初に戻って、今度は全部を通読した。なんで今まで読まなかったのか不思議なくらい、その文章に捕われて読まされた感じだった。文中にそれなりに重要な詩があるのだが、それについてはまったく理解できなかったが、つづられている文章自体に独特の魅力がある。主人公の啓介の考えは、いささか若すぎて好きにはなれないが、しかしその若さゆえに巻き込まれる事件の機微に、主人公そのものが成長させられているような感覚がある。そういう意味では帯の紹介にあるように青春小説でもあり、恋愛小説でもあるのだ。
 結局何か成就するような恋愛は無いのだが、だからと言って全部が失恋ということではない。時代を超えて行き交わったであろう感情については、こちらで想像するよりないものの方が多い。主人公ははっきりと失恋を経験するが、それで恋愛の機微をしっかりと認識できたようになってもいない。しかし、そういう若さが人を傷つけながら、妹や友人などからたしなめられ、主に女性が持っているのだろう不思議な行動を知るのである。これを読んだ僕としても、そういうものかな、程度にしか分からないから、啓介と幾らも変わりは無いのだが……。
 まあ、そういうことではあるが、僕には読みやすかったのは、やはりミステリがあったからであろう。ふつうのミステリ作品のような明確な謎解きではないけれど、確かにそれしか答えは無かろうな、というような答えは見つかる。意外だけれど納得がいく。そういう分からせ方の上手い作品なのであった。
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新型コロナの時代に合う作品   新感染 ファイナル・エキスプレス

2020-08-08 | 映画

新感染 ファイナル・エキスプレス/ヨン・サンホ監督

 いろいろ事情のある人が乗っている高速鉄道列車だったが、ある感染症におかされている一人の患者が乗っていて、次々にその感染症が広がっていきパニックに陥っていくのだった。
 一応感染症ということになっているが、基本的にはゾンビホラーである。感染した病気は、狂犬病のように感染者からかみつかれるなどして感染が連鎖する。人格も変えてしまうということもあって、いわばゾンビとして人々を襲うようになるわけだ。どういうわけか視覚のみでしか判断ができなくなるらしく、トンネルに入ると人間を感知できなくなり、動きが止まる。ガラス窓に紙を張るなどして視界を遮っても効果があるようだ。そういうところは都合主義ではあるが、まあ、仕掛けとして面白い展開の演出にもなっている。もともとの知り合いなどがゾンビ化するので、そのゾンビと仕方なく戦うことに躊躇が入る場合がある。ゾンビの方は捕まえてかみつくしか方法が無いが、人間は武器を使ってゾンビの頭をたたき割ったりなどする。考えてみると人間の方が数段残酷だが、しかしかみつかれるとおしまいという刹那感もあって、いわば仕方なく人間だって狂暴化する。それを推し進め正当化しているのは恐怖感で、いわば今の時代新型コロナにおびえる大衆と重なるところがある。というか、まるで一緒である。感染者がゾンビであると考えている人というのは、結局は恐怖に負けた人なのであろう。
 しかしながら強がっているわけではないが(というかこういう映画の立場になればだれでもそうならざるを得ないだろうが)、基本的に僕は幽霊は怖くてもゾンビはあまり怖くは感じられない。ゾンビに感染したとしても、曲がりなりにも生きている様子であるし、結局はいつまでも増え続けていることを思うと、どのみち逃れられず駆逐も難しそうだ。ゾンビがただ増殖するのみを目的にしているらしいことも理解できないし、いわゆるかみついて食べたいのかもしれないが、基本的には仲間を増やすのみが目的化している様子である。頭を砕かれると、やっと死んでいるのかもしれないが、それが人間の人格として苦しいのかはよく分からない。かみつかれてゾンビ化するのは嫌なことだけど、それは人間でいられる間だけの感情であって、ゾンビの感情になるととんと分からない。そういうところが、僕には恐怖にならない理由らしい。
 変な人がきっかけになって、様々な危機が形を変え品を変え襲ってくる。そういう意味で、楽しい娯楽作品になっている。ゲラゲラおかしいというのではなかろうが、それなりに笑える。まあ、笑う作品でも無いのかもしれないが、今のコロナ禍にあって、なかなか感心して楽しめる作品ではないだろうか。
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失われていく家族の強い愛

2020-08-07 | 感涙記

 事情があって祖母の介護をすることになった、若者兄弟のドキュメンタリーを見た。あちらのドキュメンタリーには多いが、アナウンスでの説明がない。だから時々映されている側が不自然に説明したりするだが、ともかく間違いなければ、何らかのトラブルがあって、祖母を三人の男の孫が介護しているという場面が続く。日本の介護のそれとは少し違うらしいことは、人的介護にあたっては、家族で見なければならないというのがあるのかもしれない。孫三兄弟は恐らく二十代前半くらいで、サーカスの曲芸なんかもやるような若者たちだ。おそらく一番下の弟が一番面倒見がよくて、いちいちおばあちゃんにキスをしながら手を引く。大事に大事に、いとおしく。
 そういう場面を見ている分には、微笑ましい介護の記録なのかと思いきや、他の孫たちはちょっと様子が違う。彼女を連れてやってくる兄は、面倒を見てないわけではないが、機械的で、さらに制度にも不満があり批判精神を持っている様子だ。確かにこんな状態がいつまでも続くわけはないだろう。そういう予感に、ついイライラしてしまう感じだ。さらにこういう状況になってしまったのは、父が不在の時に母がベッドから落ちてけがをして、大声で騒いでいるのを近所の人が通報したためらしい。事情はよく分からないが、父は母の介護に関して虐待をしているとみなされ、刑務所に入ってしまったようだ。そこで呼び出されて世話をするようになったのが、三兄弟だったというわけだ。
 おそらく二番目の兄は、以前のように歩けなくなってしまった祖母に対して、少し厳しい。少しでも歩けるように戻って欲しいという思いが強すぎるのか、祖母が嫌がっても強引に歩行訓練を続けようとする。そこは公園で、周りの人から結局は通報されてしまう。
 父親は虐待の容疑で捕まったわけで、家族もそのような状況であるということになれば、釈放にも影響があるだろうといわれる。皆困ってしまうが、制度なので仕方がないということなんだろうか。
 これはどうもメキシコの話らしく、ドキュメンタリーの撮り方自体を見ると一編の映画的で、うまく撮れてはいると思う。しかしながら制度そのものはよく分からないから、いったい誰が悪いのかさっぱり分からない。もちろん、このような状況に陥ってしまう可能性のある家族の在り方など、制度を含めた啓蒙の考えがあるのだろうことくらいは、考えてみると分かる。しかしよその国のことだし、実際に詳細にこの家族のことなど分かりえるはずが無い。文化の違いがあるのか、これが貧困なのかどうかも分からないし、あえて介護を受けない方針なのかもわからない。父は虐待で捕まって気の毒だが、近所の人から繰り返し通報されていたのかもしれないではないか。そういうことは一切分からないので、本当に同情していいのかさえよく分からない。結局おばあちゃんは数年後に亡くなったようだが、それはどうしてなのかも不明だった。ナレーションのないドキュメンタリーこそジャーナリズム映画だと思っている文化の作品は、なかなか面倒なのである。まあ、逆説的に日本のものは説明過剰なんであるが。いづれかに折半して作られることを切望するものである。
 それにしても日本の男孫が、おばあちゃんの下の世話までするようなことは、少し考えにくいとも思った。メキシコ人は、いやメキシコ人に限らず日本以外の国の人たちは、家族愛が深いと感じられる。もう戻らなくなった家族の姿を、記録したものなのであろう。
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日本だと試合さえさせてもらえないだろう   がんばれベアーズ

2020-08-07 | 映画

がんばれベアーズ/マイケル・リッチー監督

 いろいろと問題のある少年を集めたチームのコーチを頼まれたアル中のプール清掃員は、元マイナーリーグの選手だった。やる気も無いが金をもらった手前、どうしようもない少年たちを相手に曲がりなりにも指導するが、やはりどうにもならず試合にすらならない。仕方がないので、ものすごいカーブを投げることができる元付き合っていた女の娘を引っ張り込み、更にバイクを乗り回す強打者の不良少年もチームに引き入れ、このとびぬけた力を持つ二人のおかげで、ベアーズは快進撃で連勝するようになるのだった。
 日本だと、いわゆるスポ根になりがちな少年野球の物語が、結局そんなに練習を積まなくて強くなっていく。最初からあんまりやる気は無いのだが、いわゆる民主的で、基本的に子供たちの言うことを聞いてくれるダメアル中の元マイナー・リーガーだった。そうではあったが、それがある意味でこのダメな子供たちにとっては、悪くない大人だった。しかし実際はよく野球を知っていて、実は勝ち方を知っている。そうして実際に勝ち進んでいくようになると、更に欲を出すようになる。それで選手起用も極端になり、妙な不協和音になり、チームは空中分解を起こしてしまう。そうして墜落炎上したことによって、逆にチームがまとまってしまうという結末に、驚きと喝采があるのだ。
 当時この物語は大ヒットして、続編が二編も作られた。その後リメイクもできた。続編の一つは日本遠征編で、欽ちゃんなども出ている。特にテイタム・オニールの人気が高く、日本でも亜流の少女ピッチャー物語があったのではなかったか。ソバカスが多く、いかにもアメリカ的な少女でありながら、やはりとてもかわいいのである。後にマイケル・ジャクソンとの付き合いが話題になり、そして結局テニス界の暴れん坊ジョン・マッケンローと結婚した(のちに離婚)。僕も当然子供のころこれを見たわけだが、なんだかよく理解できていないまでも皆と一緒に熱中した。今見直すと、なかなかやっぱりいい作品で、結果的に子供たちのことをよく描けている。これだけ無茶苦茶な野球少年であっても、やっぱり野球が好きなのだ。また、相手チームの大人たちの都合に反発する少年の姿も印象的で、試合を左右する重大なことをするが、そういうのはとても日本では許されない行動でもあり、やはりアメリカの自由さを見事に表している。
 不良少年にも良心はあるし、ろくに能力のない少年にもプライドはある。物語の処理の仕方が実に素晴らしい。まあ、結果的になんか面白くなっちゃったな、という変な作品なんだが、ブームになる素晴らしさは確かにあったのである。
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蕁麻疹がでる

2020-08-06 | 掲示板

 朝ごはんを食べて、座椅子に座って新聞やらテレビを見るのが日課なのだが、その日ふと右手の上腕部を掻いているのに気づいた。そんなに痒いと思ってはいなかったのだが、いつの間にか何度か掻いていて、そうしてひっかいた痕が赤くなり、それなりの範囲で蕁麻疹ができている。あれっと思ってよく見てみると、左手上腕も同じく掻かれていて赤く腫れたようになっている。
 つれあいにも見せて、確かにこれは蕁麻疹だな、と確認するが、さて、病院、と言われて気が重い。アレルギーはたくさんあることは、ずいぶん前に何かの検査でだいぶ言われた。それで蕁麻疹ができることはほとんどないが、アレルギー反応で検査をすると、かなりのものが上がってくるのではないか。しかし自覚としてはまったく平気だから、そんなものをいくら上げられたところで仕方がない。
 一応先ほど食べたものを考えてみると、味噌汁やごはんなど基本的に毎日食べるものばかりだ(これを書いている現在、正確なものは忘れてしまった)。つれあいが昨日からのメニューをずらっとメモ帳にあげてくれている。医者に見せる参考ということになろう。しかしその前に検査をするのが厄介そうだし、見た目は派手に赤く腫れだしたけど、基本的に掻いているところだけが赤くなっているような気がする。ざっとネットで検索すると、ストレスとある。ストレスは原因が分からないということの代名詞ともいわれているが、まあ、そういえばそうとも言えるのだから、それは原因なのかもしれない。しかし、それはいったいなんだろう。
 思い当たるとしたら、ここ数日やたらに眠くなるということかもしれない。僕はだいたい6時間半睡眠を基本としているように思う。ときに7時間ちょっと。もう何年もずっとそうで、休みならたまにするが昼寝は習慣には無い。それなりに疲れが溜まっていると思える時は少し多く寝ることもあるが、前の日寝不足であっても同じように寝るだけで、たいていは普通に戻る感じだ。ところがこの一週間ほどは、先週の飲み疲れ後に間があるから少し飲んだらまた疲れた感じがあって、しかしすでに二日ほど経過していて油断していた。昨夜はだけど早く寝て、まったく睡眠十分だったと時間的には言えるが、考えてみるとまだ少し眠気が残っている。運動は特にしないが散歩くらいはしている。雨が降ったりやんだりの間を縫って、涼しいころ合いに歩く。汗をかくのは嫌いだけど、湿度があるので多少は汗ばむ運動にはなっている。
 他に考えられるのは、何か内臓の疾患と連動しているとか……。それは思い当たるふしはあるが、基本的に蕁麻疹は内臓疾患との関連はそれほどないのだという。安心するより疑念があって、ではどうしてこれほど眠いのだろう。まあ、体が単に弱っているということなんだろうか。
 検査をされるという考えを持つだけでかなりのストレス感に陥ってしまったので、すっかり病院に行く気は失せてしまって、さらに特に赤く腫れあがって微熱を帯びているとはいえ、かゆみはほとんど感じない。ストレスや疲れのためなら病院の選択はよした方が良いだろう。ストレスを感じていなくてもストレスを受けているのが体だという解説も読んだが、ちょっと訳が分からないオカルトのような話である。まあ、人体なんてオカルトの世界かもしれないが……。
 ということであんまりオオゴトにすると、今度は酒の制限などつまらぬ強いストレスにさらされる危険がある。そうなると生命維持の危険が出てくる可能性もある。なかなか難しいところなのであった。
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知恵と工夫で這い上がれ   パラサイト 半地下の家族

2020-08-06 | 映画

パラサイト 半地下の家族/ポン・ジュノ監督

 おそらく家賃が安いためであろうと思われるが、窓の外が道路の路面より低い場所に住んでいる家族がいる。何とかバイトのような仕事で糊口をしのいでいるが、それぞれ低賃金の仕事にしかありつけないという感じである。そういう時に浪人の青年の友達が留学するために、今家庭教師をして教えている金持ちの女子高生の先生をして欲しいと頼まれる。留学から帰ったら結婚するつもりの子なので、信用できる友人以外にこの仕事は頼めないからだという。浪人中の身なので有名大学生に成りすまして金持ち宅を訪れた青年は、その奥さんに気に入られ、更に下の小学生の息子の絵の先生として、後輩と偽って妹を紹介する。いろいろあって父が運転手、母が家政婦にとそれぞれ素性を偽って金持ち家族にやとわれていくことになり、この家にいわば寄生するようにお金を吸い上げていくことに成功したかに思われたのだったが……。
 いろいろと賞をとったとかいうことで話題になった映画だが、いかにも韓国といった味付けがなされており、それなりに予想できる展開ではある。しかしながらこれが斬新という感覚が西洋人にあるらしいことも見て取れるわけで、そういうメタ視力を働かせてみると、重層的に楽しめる作品になっている。ちょっとしたきっかけから、思い付きのようなアイディアを思いつき、更にまた人のいい金持ち家族に付け入る隙があるとみて、侵食していく貧乏な家族の姿が、恐ろしくもコミカルに描かれていく。行き過ぎている行動が、どんどんエスカレートして結局は踏み外していくことになるわけだが、その仕掛がやはり行き過ぎていて凄いわけだ。最終的に韓国らしいスプラッター・ホラーになるわけで、怖いけど結構笑える。
 金持ち家族が息子の誕生日にそろってキャンプに出掛けるわけだが、その夜に寄生している家族が金持ちの家でくつろいでいる。外は雨が降っているので、普通ならキャンプがどうなるのか気になるところだが、金持ちの家にあるもので、飲み食いして楽しんでいる。そこに意外な来客があって、ほころびが出てくる展開になる。上手いけれど、そういうところが予定調和にもなっている。貧困という層が、いわば階級化しており、生きていくうえで死に物狂いにならなければ、または、しっかりとチャンスをつかまなければ、這い上がれないことが示唆されている。もともと階級社会である西洋人には、おそらくこのことが身に染みて理解できるのであろう。そういう意味では、やはりなかなか日本では作りえない作品だったのではなかろうか。
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