三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島における非軍人日本人の侵略犯罪 6

2012年03月03日 | 海南島史研究

 日本軍が海南島に奇襲上陸してからまもなく、「南支派遣軍」の報道部員として海南島に侵入した国分一太郎(1911年~1985年)は、1940年6月に『戦地の子供』(中央公論社)を出した。そのなかで、国分は、「日本の子供」にたいして日本の海南島侵略にかんして、次のようなことを語っていた。
    「私は三月の末から、四月のはじめにかけて、海南島に行きました。
     海南島は二月十日に皇軍が上陸して、まだ一月余しかたつてゐませんでしたが、すつかり平和なところにな
   つてゐます」、
    「海口には、日本軍の助によつて、新しい政府が出来、もういろいろな仕事をしてゐます」、
    「島民は早く日本軍が来てくれればよいとまつてゐた」、
    「私は、支那の銅銭を十幾枚もつて、ほしそうな子がゐたらくれてやらうと、中山馬路とか、博愛馬路を歩きまは
   つたのですが……」、
    「海南島でも、紙芝居を使つて、日本軍が海南島に来たわけなどを話して聞かせて居りますが……みんな面白
   がつて見てゐます」、
    「旧政府あとに、日本に親しむ人たちばかりでできた瓊山県治安維持会ができ、大きな門の前にはその看板が
   かけられ、日章旗と五色旗がかゝげられてゐました」。

 日本大蔵省在外財産調査会が1947年ころ作成し、日本大蔵省管理局が、極秘文書として、1950年ころ配布した『日本人の海外活動に関する歴史的調査 海南島篇』の「序説」に、
     「諸会社団体は軍の援助の下に一九三九年より終戦の一九四五年に至る七年間に亘り、文字通り熱帯の暑
   熱と戦ひ……、更に奥地に蟠居する蕃族や共産匪賊と戦ひ、遂に二千年来中国政府及び島民が夢想だにしな
   かつた程急速度に各種の近代的技術と資材に依る産業開発を実行した」、
    「近々七年間に生れ変つた海南島が建設されたのである」
と書かれている(原文は「元号」使用)。
 これ以後、日本政府機関は、日本の海南島侵略にかんする総括文書をだしていない。日本大蔵省(財務省)は、海南島の先住民族や抗日戦士を敵視し、侵略を肯定するこのコトバをとりけしていない。

 日本人は、海南島に侵入し、民衆を殺傷し、家を焼き、家畜やものを奪った。既耕地をふくむ土地を奪った。日本人は、海南島で資源(鉱山資源、水産資源、森林資源)を奪った。日本人は、資源略奪・軍用施設建設(飛行場、港湾、道路、鉄道……)などのために、海南島民衆に、労働を強制した。海南島民衆を性奴隷とした。日本人は、海南島の自然を破壊した。日本人は、「ヒノマル」・「キミガヨ」・日本語を海南島民衆におしつけた。日本人は、軍票を乱発し、海南島民衆の経済生活に大きな被害をあたえた。日本人は、海南島でアヘン栽培をおこなった。
 「日本人の海外活動」の実態を覆い隠そうとする日本政府機関の策動は、1945年8月以前も以後も、続けられている。
                                                           佐藤正人

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