三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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月塘村で 11

2007年12月03日 | 月塘村
 10月11日、雨の日、月塘村の集会所で、朱開琨さんと朱秀花さんから話を聞かせてもらいました。
 朱開琨さんも朱秀花さんも、いまは、月塘村から離れた所に住んでいるのですが、月塘村委員会の朱福来さんと曾菊さんが、連絡してくれたので、話しを聞かせてもらうことができました。朱福来さんは籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組の成員の1人です。

 朱開琨さん(1935年生)は、つぎのように話しました。
    「日本兵が来たのは、朝の7時か8時ころだったと思う。
    わたしは、庭で遊んでいた。従兄、伯母、従弟、祖母
   の4人は、みんな家のなかにいた。
    日本兵はわたしを刺したあと、4人を殺した。祖母は70歳くら
   いだった。従姉はその日家にいなかったが、村のなかの畑で殺
   された。
    わたしは、日本兵に1回刺されたが、台所の小さなとびらの
   かげに隠れ、日本兵がいなくなってから丘のほうに逃げた。
    日本兵は、みんなを殺したあと、家に火をつけてぜんぶ焼い
   てしまった。
    あの日、10時か11時ころ、大雨が降った。
    日本軍が村を襲ったとき、父は、丘の畑で芋の見張りをして
   いた。当時、村では多くの家が、丘に草の小屋をつくって、芋
   の見張りのときに使っていた。
    母は、日本軍がくる前に病死していた。
    日本軍が去ったあと、生き残った村人は、家族の遺体を埋め
   てから、親戚の家に行った。
    当時、村では死んだ人はみんな草のむしろにつつんで埋め
   た。
    わたしの家は朱学平の家とは、細い道を隔てて隣同士だっ
   た。
    わたしは、朱学平より1つか2つ年上で、よくいっしょに
   遊んだ。
    日本軍を非常に恨んでいる(非常悩恨)。
    思い出したり、テレビで日本軍がやったことを見ると、いつ
   も恨みがつのる」。

 朱秀花さん(1939年生)は、つぎのように話しました。
    「わたしの家には3家族がいっしょに住んでいた。日本兵が
   来たとき、母(李山蘭)はわたしを抱いて台所で食事してい
   た。そのとき家にいたのは、祖伯母、伯母、2人の祖叔母、母
   とわたしの6人だった。母とわたし以外の4人はせんぶ殺され
   た。
    はじめに来た日本兵が、わたしの家を焼こうとした。母と
   祖伯母がひざまずいて、焼かないでくれと頼んだ。日本兵は
   母と祖伯母を蹴飛ばし、頭を銃剣で刺した。しかし、2人は
   帽子をかぶっていたので無事だった。日本兵は、家を焼
   かないで行った。
    その日本兵がいなくなったあと、また、別の日本兵が来て、
   家にいた6人を刺した。4人が殺された。母は、胸を2回刺さ
   れた。わたしは4か所刺された。母は、倒れた。わたしは、
   大声で泣いた。
    2人の祖叔母は、心臓を刺され、2、3回悲鳴をあげて、
   死んでしまった。
    日本兵は、はじめ4人を殺し、それから母とわたしを刺し
   た。わたしは、すべてを見た。
    6人を刺した日本兵は、血のついた銃剣をタオルで拭いて、
   そのタオルを捨てていなくなった。
    母は死んだふりをした。すぐに眼を開けて、泣いてはだめ、
   泣けば泣くほど血がたくさんでてくるから、と言った。
    刺されると、はじめは血だけがでてくるが、そのあと水の
   ようなものがでてくるようになる。
    日本軍がいなくなってから、別の村にいた母の弟が、駕
   籠にわたしと母をのせて親戚の家に運んでくれた。
    父(朱開朝)は、日本軍が襲ってきたとき、魚の売上金
   を受けとりに別の村に行っていたので無事だった。
    堂叔(祖祖父の弟の子)は、その母が芋のつるで覆った
   ので、日本兵に見つからず、助かった。
    家を焼こうとした日本兵は、帽子をかぶっていた。6人
   を刺した日本兵はかぶっていなかった。2人とも30歳まえ
   のようだった。
    わたしの傷は、傷口がふさがるまでに1か月半以上かか
   った。いまも傷跡が残っている。とくに胸の傷が大きい。
   日本兵は、わたしのような小さな子どもまで、心臓をねら
   って殺そうとしたのだ。
    日本軍はとても悪く、人をたくさん殺した。村の人たち
   は、そんな悪いことはしない。日本軍とわたしたちの間に
   は恨みはない。それなのになぜ殺したのか。
    日本軍は、あのとき、あんなにたくさんの人を殺したの
   だから、日本は賠償しなければならない」。

 話しを聞きおわってから、「こまかなことをよく覚えていますね」と言うと、「わたしは記憶力がいいと言われている。4歳のときにどんなことをして遊んでいたかも覚えている」と朱秀花さんは答え、はじめて、ほほえみました。
                               佐藤正人
コメント
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