いぶろぐ

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知的謙虚のすすめ

2019-12-13 11:03:10 | せんせいとよばれて
僕は一介の塾講師に過ぎなくて、
知識も教養も大したことはないんだけれど、
そんな僕だからこそ、子供たちに明らかに間違ったことを教えたり、
自分の勘違いや固定観念を押しつけたりしないように、とても気をつけている。

方法はいたってシンプル。
事前に確認し、諸説あれば諸説あると伝える。
こうだと決めつけるよりも、多角的なものの見方や様々な可能性について、
自分で考える姿勢を伝えられた方が有益だからだ。

そしてすべてを教えようとしない。
学問的に明らかに答がひとつに絞られるものを除いては、あとは自分でも色々調べて考えて欲しいと投げることも多い。
僕のことも本当かなあと疑うくらいでちょうどいい、とも。

僕は自他共に認める勉強嫌いで、自分の学力的限界もよく自覚している。
アタマの良し悪しはわからないけれど、少なくとも「学ぶ力」は大したことない。
とにかく面倒くさがりだからねー。
でもそんな自覚が「適度に教える」立場としては奏功しているような気がする。

なんでもわかってる、なんでも知っているというような思い上がりは、
たいていロクなことにならない。
知的自信過剰とも呼ぶべき人が、先生としては実に不人気なのもよく知っている。
生徒からしたら自慢とイヤミでマウントされ続けるからだろうなあ。

畏友の言動に触れるにつけ思うことだが、
本物の知性は実に謙虚で余裕があるものだなあと感嘆する。
彼らのおかげで「知」を観る目も自然と養われる。
中途半端に知性を気取って、何でも簡単に断じてしまう人は、
結局他人を見下したり自分の優位性をアピールしたいだけだったりする。
その薄っぺらさや乱暴ぶりが相対的に浮き彫りになる。

自分の頭でちゃんとものを考えたり、
人と本気で議論したりといったことをせずに歳を重ねると、
実に厄介なパワハラ中年や老害になる。
あるいは似非科学やスピリチュアル方面にストンとハマったりもする。
それが同年代だったり旧知の人物だったりすると無性に哀しくなる。

本当の意味で謙虚に学ばなければ、同じ論法や思考パターンにこだわり、
自分に都合のいい情報にしか触れようとせず、どんどん硬直してゆくのみ。
アップデートを怠って、凝り固まった思い込みに囚われ、
根拠のない「常識」を当たり前のごとく振りかざし、
無思慮・無節操にマウントを仕掛け、言いたいことだけ言い逃げする。
そんなのはとても「議論」の名には値しないし、カッコ悪いことだ。

そのカッコ悪さをよく見て反面教師としよう。
もっとしなやかになれるように、
もっと上手に子供たちに伝えられるように、僕はまだまだ学んでいこう。
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