【駒込一丁目の「しぶさわくん」】

【駒込一丁目の「しぶさわくん」】

 

北区が運行するコミュニティバス愛称「K(けい)バス」の「しぶさわくん」(渋沢栄一)ラッピングバスが「きどくん」(木戸孝允)別邸裏の坂道を下ってきて駒込一丁目バス停に停車中。

このあと「しぶさわくん」は右折し「むろおくん」(室生犀星)、「はぎわらくん」(萩原朔太郎)、「むらやまくん」(村山槐多)らが暮らした谷田川通りを走り、左折して「ほりくん」(堀辰雄)、「なかのくん」(中野重治)、「あくたがわくん」(芥川龍之介)らが暮らした田端駅前通り切り通しを抜け、「ふたばくん」(二葉亭四迷)、「たきいくん」(瀧井孝作)らが暮らした田端高台通りを走り抜け、古河庭園手前を左折し妙義坂をのぼって駒込駅前へと循環する。

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【西巣鴨4丁目の升幸酒店】

【西巣鴨4丁目の升幸酒店】

 
 
数年ぶりに、昔よく歩いた古道の散歩道を通ったら大好きな升幸酒店が閉店されていた。
 
 
薄暗い早朝から小豆を煮る湯気が香った和菓子店「桐生屋」さんもすでに店を閉じていて、この道はまた寂しくなった。
 
 
この美しい木造住宅も見られなくなる日が来るのだろうか。(写真は2021年4月7日 地図は大正時代のもの)
 
 
 
 
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【正受院の竜宮門形式鐘楼】

【正受院の竜宮門形式鐘楼】

 

正受院(しょうじゅいん)は北区滝野川2丁目にある浄土宗寺院で『江戸名所図会』にも描かれた「不動の滝」で名高い。

こんなふうに書かれている。

「正受院の本堂の後、坂路(はんろ)を廻り下る事、数十歩にして飛泉(ひせん)あり、滔々(とうとう)として硝壁(しょうへき)に趨(はし)る、此境ハ常に蒼樹蓊欝(そうじゅおううつ)として白日(はくじつ)をさゝえ、青苔露(せいたいつゆ)なめらかにして人跡稀(ひとあとまれ)なり」

六義園正門前から出かける朝の散歩で見つけ、気に入りのコースになり、飛鳥山をまわって戻ると往復 16,000 歩強の運動になっている。

室町時代、流れてきた不動尊像を庵に安置したのが草創と伝えられるこの寺の、竜宮門形式鐘楼が好きで一眼見て気に入ってしまい、ときどき見に行きたくなる。

建物は第二次世界大戦の戦禍を免れており、特に明治35 (1902)年建立の鐘楼門は、下部が大谷石製であることが特徴になっている。中興の祖、静道源大僧正の設計だという。

扇垂木で支えられた屋根に 195 キログラム(五十二貫)の梵鐘が下げられ、薄明の始まりを告げる明け六つの鐘がつかれていたが、大戦時に供出されたという。

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【駒込のおあん寺と福寿禅院】

【駒込のおあん寺と福寿禅院】

 

六義園界隈は文京区の外れに位置し、JR 駒込駅周辺は文京区、豊島区、北区の境界が入り組んでいる。文京区民の気分で豊島区の歴史について書かれた本を読んでいると、文京区のここから歩いてすぐの場所が出てきてびっくりする。豊島区民にとって文京区に隣接した駒込一丁目は豊島区の外れなのだ。

名著出版『豊島区の歴史』林英夫・文 / 東京にふるさとをつくる会編を読んでいたらこんなことが書かれていた。

「また名残り惜しいのは、数年前火災にあい、現在はマンションの中におさまっている福寿院(曹洞宗、駒込1―8―8)であろう。区内でも数少ない尼寺のひとつで、江戸時代には従容(しょうよう)稲荷をまつっていたため従容軒とも称され、また世間では「おあん寺」ともいった。さかんな時には、東北や九州の遠方からきた修行尼を含め五〇人もの尼さんが常住していたといわれる。」

現在の福寿禅院とかつてあったと思われる区画

駒込名主屋敷は文京区の外れの本駒込三丁目にあり、名著出版『文京区の歴史』竹内誠ほか・文 / 東京にふるさとをつくる会編にはこう書かれている。

「慶長( 1596 一 1615 )のころ、高木将監は伝通院領の駒込一帯の開拓を許され、土着したという。高木家は代々嘉平治を襲名し、農業に従事しながら上駒込村の名主を勤めた草分名主であった。駒込名主屋敷はその高木家の屋敷である。表門は宝永年間( 1704 一 11 ) 建築という。家屋も同時代に造られたが、火災にあい、現存の建物は享保二年( 1717 )の再建と伝えられる。」

その高木家の娘が大奥に上がり、娘は二十八歳で大奥勤めを終えて戻され、尼僧となって現在の駒込1丁目に庵をつくり桂林院殿春大禅定尼として福寿院を開基したという。駒込名主屋敷と福寿院とはこうしてつながっている。

『豊島区の歴史』にある火災は昭和 48 年なので、それ以前の地図で福寿院の場所を探したら、明治末期の地図に現在福寿院マンションのある同じ場所にそれらしきものがあった。この界隈は尼さんがお椀を持って托鉢に出たので「おわん横丁」と呼ばれたともいうが、尼寺の主である尼僧をいう「あんじゅ(庵主)さん」のいる「おあん寺」とごっちゃになったのかもしれない。

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【駒込名主屋敷】

【駒込名主屋敷】

 

働きかけられることの受動と、働きかけることの能動、両者はたいがい表裏をなしている。

「働きかけられるもの」をつづめて言う場合は「働きかけ」の前に受動を表す前置詞「被」を置く。たとえば支配する者「支配者」に対して「被」をかぶせて「被支配者」というように。

それが表裏をなしているというのは、たとえば名主(みょうしゅ)は下の者を支配する権利を認められることで、その権利を認めてくれる上の者から支配を受けている。名主に限らず人間社会の役割はそういうふうにできている。

そもそも人間自体が、自分で自分自身を支配して生きているつもりでいながら、自分が望まない死の定めから逃れられないことで「支配者」「被支配者」兼任のあり方をしている。

「支配者」「被支配者」兼任の「役割」を生きる名主の屋敷は、古地図を見ると絶妙な場所にある。

農民が台地下の水田地帯から稲荷坂を上って来る高台に、稲荷社と駒込村総鎮守である駒込神明宮があり、駒込本村と枝村である染井村をつなぐ村道がその場所で交わり、その結節点にあたる場所に名主屋敷は位置している。
人が役割を生きるとはどういうことかをよくあらわしている。

(写真は2021年4月2日 駒込名主屋敷にて)

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【古道の選び方】

【古道の選び方】

 

江戸が終わって明治の世が始まったばかりのころの東京地図にたくさんの道が描かれている。駒込あたりはまだ人家まばらな田舎なので、田畑や雑樹の中に線で引かれた古道をたどるのが楽しみとなる。

地図の定式符号凡例を見ると、線で描かれた道にも國道、縣道、里道、村道と序列があり、その下に「駄獣ヲ通セシムベキ小径」があり、さらにその下に「徒歩ニ非レハ通シ難キ小径」そして「凹凸道」(でこぼこみちではなくおうとつみち)がある。

駄獣(だじゅう)とは荷を背負わされて行く牛馬のことで、牛馬が荷車などを引かされると輓獣(ばんじゅう)ということになる。車を引かせた輓獣で効率よく荷を運び、輓獣が通れない道は駄獣に背負わせ、駄獣が通れない道は人自身が荷を背負って歩き、荷を背負っていない人が自分の身体を運ぶだけなら凹凸道を行くという手もあったわけだ。

写真は駒込一丁目、木戸孝允別邸脇の木戸坂。地図では「徒歩ニ非レハ通シ難キ小径」となっている。

 

 
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【東京府巣鴨病院】

【東京府巣鴨病院】

 

明治維新の激動の中で町には行き場を失った浮浪者や病人があふれ、それらを調べてみると半数以上がこころに疾患を持つ人たちだった。

彼らを収容するため 1879(明治 12 )年、上野に東京府癲狂院(とうきょうふてんきょういん)がつくられ、1881(明治14)年の本郷区向ヶ丘移転を経て、1886(明治 19 )年 6 月に小石川区巣鴨駕籠町に移転し、1889(明治 22 )年、東京府巣鴨病院と改称された。

第4代院長は東京帝国大学精神病理学講座主任教授だった呉秀三(くれしゅうぞう 1865 - 1932)が兼任し、古い看護観を放擲(ほうてき)し、技術の向上を図り、患者の処遇を改善し、治療方針を刷新し、作業療法を積極的に活用するなどの改革を行なった。東京帝大で呉の門下だった森田療法の森田正馬(もりたまさたけ 1874 - 1938 )も勤務していた。

本駒込2丁目の文京グリーンコート。1919(大正 8 )年、荏原郡松沢村に移転して東京府松沢病院 (現・松沢病院)となるまで、東京府巣鴨病院はこの場所にあり、明治終わりころの地図にもその名が見える。
(写真は2021年4月3日 文京グリーンコートにて)

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【染井銀座の春】

【染井銀座の春】

 
 
新型コロナウィルス感染防止の巣ごもりで、日常生活用品調達の場として霜降銀座、染井銀座商店街に活気が戻っている。すれ違う若い女性たちが
「わ〜、ちがう街みたい!」
などと言っている。
 
 
この曲がりくねった商店街はかつて藍染川(谷田川)の上流にあたる川で、暗渠になった両脇に商店が集まって街ができた。関東大震災直前の地図ではまだ川が流れている。
 
 
昭和三十年代の終わり頃、郷里清水に帰る前、母はこの商店街にあった婦人服店で働いていた。大変賑やかな商店街で日暮れても人通りが絶えることがなかった。
「わ〜、昭和の時代の街みたい!」
と心の中で思う。
 
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【染井村から駒込名主屋敷まで】

【染井村から駒込名主屋敷まで】

 

高いところにある歴史的視点から見ると東京は空襲で焼け野原になっている。視点をもっと低くして地域を見ると奇跡的に焼けなかった町域もある。さらに地面に降りて人々が書き残した資料を読むと、わずか数十メートルを隔てて、焼けたものと焼けなかったものがある。

江戸時代に駒込神明宮と呼ばれて駒込村総鎮守だった天祖神社は、空襲によって建物が残らず消失している。一方ほぼ隣り合った高木家の屋敷、通称駒込名主屋敷は享保 2( 1717 )年築と伝えられる江戸時代の建物も焼けずに現存している。

駒込本村と枝村だった染井村をつなぐ古道も、現代の地図で高所から見るとそれらしき道筋をたどれるけれど、幕末から明治維新ころの地図を見ると微妙にずれている。大震災もあったし、空襲もあったし、戦後の都市開発もあったわけで、人が歩いて踏み分けた道は埋もれて見えにくくなっている。

終戦直後、二十年代前半の航空写真を見ると、やはり古道の西側に沿った現在の広い道はまだない。自分が古地図上の古道だと思っていた道は微妙に東にずれて現存する。

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【縦書き横書き】

【縦書き横書き】

 

朝日新聞の土曜朝刊を読んでいたら「左縦書き」と題した記事があって面白い。左縦書きとはたとえばどういうものかというと、


定 お
申 早
告 め
は に
  !

というようなもので、街の張り紙で見つけたという。縦書きはふつう右から左に改行する右縦書きになるが、左縦書きを禁じる規則はないのでルール違反とは言えないそうだ。筆者によるとモンゴル文字は左縦書きらしい。バカボンのパパ風に言えば「ヘンだがこれでもイイのだ」。

昔はよくあった右から左への横書き、たとえば

! に め 早 お は 告 信 定 確

を「ヘンだ」と言ったら、これは1行1字の縦書きだからイイのだと言われて、なるほどヘンだけどイイのだなと思った。改行で段組みすればこうなる。

  は 告 信 定 確
! に め 早 お

そういうことなら1行1字の横組みを改行したら右から左へ段組されるので左縦書き、


定 お
申 早
告 め
は に
  !

は、「ヘンだがこれでイイのだ」になる。

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【駒込富士神社脇の三角】

【駒込富士神社脇の三角】

 

駒込富士神社脇から駒込病院脇を経て動坂上、団子坂上、藪下の道を経て根津神社に向かう道は古道として明治維新頃の地図にも見える。駒込名主屋敷あたりから染井村へと向かう古道が交差するあたりに三角形の区画があり、現在そのへさきには小寺石材工業がある。旧町名を神明町といい、現在は本駒込5丁目になっている。

染井村に多かった園芸を生業(なりわい)にする人びとがこの地域にもいて園藝の文字が見える。富士神社、天祖神社、駒込名主屋敷、園芸業者などが集まっていたおかげで、この地域は古い道筋が残されている。

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【東俳シャトル館前の五叉路】

【東俳シャトル館前の五叉路】

 

東俳シャトル館前が現在の五叉路になるのは戦後のことで、『鳥よし』脇へ抜けていく右の道は新しい。

一方、左の道は古くて明治維新直後の地図にも見えるので、江戸時代以前からあった染井村へ抜けていく古道だと思われる。それにしても茶畑だらけだ。

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【ふたつの子】

【ふたつの子】

 

生まれ出て間もない者を「子」という。そういう本物の「子」に対して、「鉢植えといえば子も同然」と言うときの「子」は違い、自分に対して従属的で依存的である物もまた「子」になり、鉢植えの世話をする者は「親も同然」になる。

「同じ」と「同然」は違う。「同じ」はまさに「同じ」でしかないが、「同然」は「違いがないのだ」と言っている。「だれも実の親だとは言ってねぇ、親も同然だと言ってるんだ!」などという人情芝居のセリフは、そういうことを言っている。NHK 朝ドラ『おちょやん』の「マットン婆さん」である。「同じ」でない者に「同然」を認めるのは大事なことなのだ。

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【ふたつの水】

【ふたつの水】

 

わが家の植木鉢の置き場所には南南東向きと北北西向きがある。前者に置いて元気のないものを後者に移すと生き生きし、その逆の場合もまたある。株分けしたものを両方に置くと育ち方が明らかに違う。

「同じように水やりしても差がある」という場合の「水」と、「水に合わない」「水になじむ」という場合の「水」は違い、前者は物質をさし後者は風土をさす。室内、室外はもちろん、室内の置き場所にも風土の違いがあり、「この子はここが水に合うらしい」などとつれあいは言っている。

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【国産の「ちがい」】

【国産の「ちがい」】

 

こんなものまで中国や東南アジアの国々に製造委託して輸入販売しているのかと驚く。原材料が国産で製造が国内だと安心するのが消費者心理だ。口に入れるものは表示をよく読んで、高くても両方を満たした「国産品」を選んでしまう。

鉢植えの植物たちにやる液肥を買ったら「国産品」と大書されている。チッソ、リン酸、カリなどの配合元素に国ごとの違いは考えにくいので、国産品のどこが安心なのだろうと表示を読んだら、
「やっぱり水が違います!」
と書いてあって笑った。

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