【駒込のおあん寺と福寿禅院】

【駒込のおあん寺と福寿禅院】

 

六義園界隈は文京区の外れに位置し、JR 駒込駅周辺は文京区、豊島区、北区の境界が入り組んでいる。文京区民の気分で豊島区の歴史について書かれた本を読んでいると、文京区のここから歩いてすぐの場所が出てきてびっくりする。豊島区民にとって文京区に隣接した駒込一丁目は豊島区の外れなのだ。

名著出版『豊島区の歴史』林英夫・文 / 東京にふるさとをつくる会編を読んでいたらこんなことが書かれていた。

「また名残り惜しいのは、数年前火災にあい、現在はマンションの中におさまっている福寿院(曹洞宗、駒込1―8―8)であろう。区内でも数少ない尼寺のひとつで、江戸時代には従容(しょうよう)稲荷をまつっていたため従容軒とも称され、また世間では「おあん寺」ともいった。さかんな時には、東北や九州の遠方からきた修行尼を含め五〇人もの尼さんが常住していたといわれる。」

現在の福寿禅院とかつてあったと思われる区画

駒込名主屋敷は文京区の外れの本駒込三丁目にあり、名著出版『文京区の歴史』竹内誠ほか・文 / 東京にふるさとをつくる会編にはこう書かれている。

「慶長( 1596 一 1615 )のころ、高木将監は伝通院領の駒込一帯の開拓を許され、土着したという。高木家は代々嘉平治を襲名し、農業に従事しながら上駒込村の名主を勤めた草分名主であった。駒込名主屋敷はその高木家の屋敷である。表門は宝永年間( 1704 一 11 ) 建築という。家屋も同時代に造られたが、火災にあい、現存の建物は享保二年( 1717 )の再建と伝えられる。」

その高木家の娘が大奥に上がり、娘は二十八歳で大奥勤めを終えて戻され、尼僧となって現在の駒込1丁目に庵をつくり桂林院殿春大禅定尼として福寿院を開基したという。駒込名主屋敷と福寿院とはこうしてつながっている。

『豊島区の歴史』にある火災は昭和 48 年なので、それ以前の地図で福寿院の場所を探したら、明治末期の地図に現在福寿院マンションのある同じ場所にそれらしきものがあった。この界隈は尼さんがお椀を持って托鉢に出たので「おわん横丁」と呼ばれたともいうが、尼寺の主である尼僧をいう「あんじゅ(庵主)さん」のいる「おあん寺」とごっちゃになったのかもしれない。

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