【動坂下の沢蟹】

【動坂下の沢蟹】

 

動坂下の『山竹』に素焼きの植木鉢皿を買いに行ったら定休日だった。

沢蟹は初夏・仲夏・晩夏、三夏の季語。沢蟹のいる動坂下『魚我志 むさし』店頭にて。

みじか夜や芦間流るる蟹の泡

蕪村

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【しもふり銀座のゼリービーンとマイ・ロスト・シティー 】

【しもふり銀座のゼリービーンとマイ・ロスト・シティー 】

 

しもふり銀座商店街の店先に色とりどりのミニトマト盛り合わせが売られていて、まるでゼリービーンのようだ。売り子のお兄ちゃんが
「さあ、色と形がちがうトマトはそれぞれ味もちがうよ!」
と声を張り上げていた。

スコット・フィッツジェラルドに「ゼリービーン」という作品があり、読んだことがないので村上春樹訳を探したら『バビロンに帰る―ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック 〈 2 〉 』中公文庫があったので注文した。

この、短編集のように短い商店街は古びているけれど意外に新しい。小学生時代はひどく賑わっていたが、当時からある店はもう少ない。小売業のプレイヤーは目まぐるしく変わっていく。この路地に、かつて小さな果物店があって同い年の女の子がいたが、大学入学の年に上京して訪ねたら亡くなられていた。

10 歳年上の友人である編集者に、書き込みのあるフィッツジェラルドの『マイ・ロスト・シティー 』文庫版をもらい、読んでいたく感動したが、新書版の村上春樹翻訳ライブラリーでは改訳されているらしいので改めて注文してみた。何度でも再読してみたい作品集だ。

子どもの頃からこの寿司屋の金魚鉢はあった。廃業されても残っている。明治時代おわり頃の地図で商店街に直交する道があるのはここかもしれない。

まわりはまだ「横棒に縦棒2本」の田んぼマークだらけで、この地図記号「田」は昭和四十年に横棒が消えるが、その頃の地図では、もうこの辺に田んぼなどない。

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【大和郷の姫蔓蕎麦】

【大和郷の姫蔓蕎麦】

 

花は不思議で、調べたり教えてもらったりして、即座に名前が思い浮かぶようになると、身近なそこかしこにまるで突然現れたかのように、その存在の事実に気づかされる。花に限らず、ちゃんと覚えた名前で思い浮かべ、書いたり、話したりできるようにしておくことは大切だとあらためて思う。ゴダイゴも『ビューティフル・ネーム』( 1994 )でそんなことを歌っていた。

清水区中河内のタケノコが届いた。大好きなタケノコとサトイモとココナツミルクの東南アジア風カレーを作ろうという話になり、巣鴨駅ビルの『成城石井 アトレヴィ巣鴨店』まで足りない材料を買いに行った。

帰りに『フレンチ パウンドハウス 大和郷本店』前を通ったら、店頭の大きなフラワーポットにヒメツルソバ(姫蔓蕎麦)が満開になっていた。以前から丸い花をつける植物があったという記憶はあるが、今日はちゃんと「ヒメツルソバ」という名前で存在するようになっていた。

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【ゼロの視程】

【ゼロの視程】

 

未明に目が覚めたら気象に関するアラートが届いていた。

文京区の注意警戒事項
東京都では、低い土地の浸水や河川の増水、強風、高波、竜巻などの激しい突風、落雷、濃霧による視程障害に注意してください。

「視程障害」という言葉がおもしろい。
ちょっと年上の友人たちが次々に白内障の手術を受けていて、数日前にもカメラマンの友人が、片目にガーゼをあてられた痛々しい写真を送ってきた。つれあいが
「どうした、殴られたのか!」
と写真に話しかけているので笑った。

「視程障害」を辞書で引くと

大気の混濁の度合いを表す尺度の一。肉眼で目標物を見分けることのできる最大距離で、0( 50 メートル未満)~ 9( 50 キロ以上)の階級に分ける。

とある。白内障も大気の混濁のような自覚症状があるから施術を受ける決心をするわけだけれど、こういう自覚とはどういうものだろう。自分の今の状況を、思い浮かべた過去の状況と比較して見えにくさを想像し、医者の診察を受ける覚悟、その診察結果を聞いて手術を受ける決心をしたわけで、そのこころのプロセスが興味深い。

「我思う故に我あり」のデカルト風に言うなら、「我見えにくい」とか「我まぶしい」という症状の自覚は「我こんなはずじゃなかった」と思い出す過去にいたはずの自分との比較から成り立っているわけで、「我見えない、故にこんなの我じゃない」という言い方が成り立つのは、存在論じゃなく認識論だからだ。

朝起きると
「我起きた故に我あり」
と毎朝思う。

それは誰もが毎日普通にやっていることだが、もし
「我起きない!やばい故に我なし」
と自覚したとしたら自分は死んでいるのだ。

けれど、はて自分が死んでいると気づいた第一発見者の自分は誰だ?という謎が生まれると落語の『粗忽長屋』になってしまう。あれは存在論と認識論のすり替えを使ったうまい話で、視程には対象が存在するかぎりという限界がある。もしほんとうに粗忽長屋の住人が死んでいる自分を自覚したなら、それは「やばい!」じゃなく「しめた!」だろう。

写真は六義園正門前から文京グリーンコートあたり。明治はじめの地図を見ると茶畑、桑畑、竹林、雑樹だらけだ。地租が農地に対しては作物取れ高に応じて課せられていたためで、いわば税金逃れだ。

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【壁のある裏道】

【壁のある裏道】

 

セメントに水を混ぜたミルク状のものをセメントペースト、セメントに水と砂を混ぜたものをモルタル、セメントに水と砂と砂利を混ぜたものをコンクリートと呼び、その順に強度が増す。

駒込から本郷台地の等高線に沿った道を歩くと大谷石の石垣が多い。都市復興事業の一環として整備された公園などにも大谷石が使われ、いまは激しく劣化しているので、このあたりの戦後復興には大谷石の使用が流行ったのかもしれない。

本駒込から豊島や北の区域に散歩すると珍しい「からみ煉瓦」を用いた石垣や塀も残っていて、住民の好み、落札業者、発注者ごとに、使われた材料の傾向が偏っていたのかもしれなくて、それもまた地域の小さな個性になっている。

文京区域の崖線を歩くと、セメントを結着剤にして大小の石が混じった壁面が地層断面のように露出しているのを見かける。昭和の東京には、戦争中につくられた工場や軍施設の残骸がそこここに残って、子どもたちの遊び場になっていたが、そこにもこういう荒々しい断面が顔をのぞかせていた。

明治時代の地図を見ると、一時は路面電車も走った不忍通りはまだ影も形もない。田んぼや斜面の細道が、今も裏通りとして残って壁のある路地になっている。左下にあるのは今の千駄木小学校。

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【言葉と存在】

【言葉と存在】

 

友人のブログにとてもおもしろいことが書かれていた。珈琲豆の配達に出かけた先で赤い花が咲いているので、花の持ち主に名前を言って確かめたらやはりマンサク(万作)の花だというので、モヤモヤした思いが解消したという。そうしたら今年はマンサクがたくさん咲いている気がしてきて、配達帰りに見たら、見慣れた自宅の近所にもちゃんと赤いマンサクが咲いていたという。

人はさまざまな刺激による情報を「言葉」にして思い浮かべられたとき、それが「ある」ことを認識できる。言葉で言い表せないものは、実は「ない」に等しい。人は生まれながらに「赤」を知っているのではなく、自分が見ているその刺激をみんなが「赤」と「言葉」で呼ぶことを知ったとき、赤いものを見て自分も「この赤」と赤一般を使って他人に指し示せるようになる。彼女は「この赤い花」がマンサクであることを確かめたとたん、近所でもたくさん「マンサクが咲いている」と言えるようになったのだ。哲学の入門書に書かれているようなことを実際に体験できている。赤い花はあの「青い鳥」だったのだ。とてもおもしろい日記だった。

じつはこの日記を読むまでマンサクといえば黄色い花だとばかり思い込んでいて、赤いマンサクもあることをはじめて知った。そうしたら、近所のそこかしこに赤いマンサクがたくさん咲いているのが目に入るようになった。強いので生垣の植栽用に人気らしい。近所で新築されたマンションでも、仕上げに赤い花をつけたマンサクの苗木を植えている最中だった。


動坂にて

午後、散歩に出た帰り道、動坂から本郷台地の斜面沿いの道を歩いていたら、大谷石の石垣によく見かける丸い花がたくさん咲いている。植えられているというより、強くて繁茂してしまっているように見える。

石垣や石畳の隙間にときどき咲いているのを見かけるあの丸い花はなんだったのだろうと、帰宅後調べたらヒメツルソバ(姫蔓蕎麦)で、ヒマラヤからロックガーデン用に日本に導入された多年草なのだという。強いわけだ。

「このヒメツルソバ」と言葉で指し示せるようになったので、自分と世界のあいだにヒメツルソバが確かに存在するようになった。文明開化期の古い地図を見ても、「ヒメツルソバが好む石垣」のある家が多い理由を、「等高線のある地図」上で指し示すこともできる。

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【未明の着信】

【未明の着信】

 

装幀を担当した本をお届けしたら、柳田邦男さんが
「明るく、すっきりしていて、いいですね」
と喜ばれたというメールが届いていた。著者から感想をいただくのは嬉しい。16 年目の完結であり、もう 85 歳になられたという。

日本人は科学主義的な形式論と情念的な現実論の間をふらふらしながら壊れていく、といった話を昨夜連れ合いとして遅くまで盛り上がったので、生身の人間のいたみがわかる人からの嬉しいメールだった。着信時刻を見たら午前 3 時 10 分なので、編集者も夜更かししたか、未明に目が醒めたのだろう。(写真は今朝の六義園)

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【自東京至巌槻道】

【自東京至巌槻道】

 

文明開化期の地図を見ると、現在の六義園脇に「」、

駒込妙義坂下に「」、

旧古河庭園脇に「」、

滝野川警察署脇に「」、

王子駅前に「(岩)」の異体字(山+品)、

十条台小学校脇に「」、

荒川小学校のところに「」と書かれ、

直角に折れる丁字路の岩淵宿あたりに「赤羽村」と書かれていて、とてもよくできている。

 元和 3 ( 1617 )年、徳川家康の遺骸を駿河の久能山から日光に移し、2 代将軍秀忠が江戸を出立して日光に向かった道を日光御成道(にっこうおなりみち)という。

日光御成道は日本橋からはじまった中山道(国道17号)が最初の一里にあたる本郷追分(東大農学部正門前の駒込追分)で左折して分岐し、そのまま左折せず直進すると日光御成道となる。荒川の手前に岩淵宿が置かれ、川口宿、鳩ヶ谷宿、大門宿、岩槻宿を過ぎ、幸手宿手前で日光街道(日光道中)に合流して日光御成街道(にっこうおなりかいどう)となる。将軍一行が日光御成道で唯一、岩槻宿に宿泊したので岩槻街道とも呼ばれた。その辺の事情が「自東京至巌槻道」七文字の置き場所でよくわかる地図になっている。

自東京至巌槻道は「じとうきょうしいわつきみち」でもいいし、わかりやすく読み下せば「とうきょうよりいわつきみちにいたる」ということが書かれている。

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【「笑えないこと」を笑う】

【「笑えないこと」を笑う】

 

DVD メディアにちまちまと溜め込んだ仕事のバックアップデータを、早くて安くて巨大になったハードディスクへすべて書き戻している。データ保存の考え方が土台から変わっていく。

DVD メディアからの読み出しには SCSI やパラレル ATA 時代のドライブしかないので、その作業に時間がかかって仕方ない。過去にはそうやって時間をかけてバックアップしたのであり、その巻き戻しをさせられている。速やかな撤退が望ましいので Amazon で検索したら、シリアル ATA( SATA )ドライブで USB3.0 接続の中国製ドライブが数千円で買えるので、当座の用に間に合えばいいやと思って買ってみた。

届いたので使い始めたら爆速なので驚いた。DVD などそもそも低速メディアなので大した差はないと思っていたけれど、驚くほど速い。これは良い買い物をしたと喜んで作業させていたら、だんだん爆音を上げてヒートアップし、異音と思える音を立て始め、音だけ激しくて実は転送が行われていないのに気づき、PC を強制終了し、DVD メディアを取り出したら傷だらけのローラになって破損していた。爆走の果ての破局にいたるスピード感に呆れて、笑い事じゃないけど笑った。

格安中国製をこき下ろす「ヘイト製品レビュー」には与(くみ)しないけれど、今回は驚いて、笑って、呆れて、懲りた。今後のため信頼できる高速ドライブを一台だけ確保しておきたいので、Amazon  で日韓合弁の日立エルジーデータストレージ製 12.7mm ベゼルつき SATA ドライブと、頑丈な USB3.0 対応金属ケースを探して注文し、駒込の家庭内工場で組み立てることにした。

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【ニッケルハルパにさわってみた】

【ニッケルハルパにさわってみた】

 

巣鴨にある北欧音楽スタジオ『レソノサウンド』(東京都豊島区巣鴨 1 - 3 - 3 )に散歩ついでに寄ってみたら、スウェーデンのウプサラ地方に伝わる伝統楽器ニッケルハルパが置いてあり、手にとって弾いてみてもいいという。

Nyckelharpa と書き Nykel が鍵盤、harpa が弦楽器を表す鍵盤付き弦楽器である。弓で弦をこすって音を出す擦弦楽器(さつげんがっき)でありながら鍵盤楽器であり、弓をもったこともないのに物おじしないつれあいが難なく音階を弾くことができた。共鳴弦があるのでビブラートをかけたように一丁前の音がする。

地図は関東大震災(大正十二年)直前のもの。六義園脇の住宅地大和郷の工事完了は大正十一年、分譲受付開始は大正十二年五月となっているが、この地図ではまだその姿がない。

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【テラの海】

【テラの海】

 

新年度を迎えたので、片付けがてら保存用パソコンデータの引っ越しをしている。「広いところに引っ越す」というより、「内湾より出でて大海に入る」と言った方が状況を言い得ている。

いつの間にか TB(テラバイト)などという単位のハードディスクが「ふつう」になったので、余っていたディスクにデータをまとめ始めたら、際限がないと思えるほど広くて、「過去のすべて」が「いま」にすっぽり包含されてしまうような気分になる。「寺ノ海」という四股名の力士がいたら懐が深そうだ。

海は広いな 大きいな
月がのぼるし 日が沈む(林柳波)

唱歌『海』。作詞者林柳波(はやし りゅうは 1892 -  1974)の妻、林きむ子(はやし きむこ 1884 - 1967 )は美形の人で大正三代美人のひとりと言われた。彼女は日本女子美術学校を卒業しており、当時同校は東大赤門前、住所は本郷菊坂町にあった。(地図は明治の終わり頃)

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【坂下のこめつつじ】

【坂下のこめつつじ】

 

週末恒例の食材買い出しに、妙義坂下の商店街まで荷物持ちでついて行ったら、非常に小さなツツジの苗木が売られているのを見つけ、名札を見たら『雲仙こめつつじ』だという。米つぶのように小さな花の蕾をつけており、名前は花の小ささから来ているのかと思ったら、葉の形が米つぶに似ているのだという。

あまりにかわいいので我慢できずに買ってきた。再度外出し、動坂下の『山竹』で似合いそうな焼物の鉢を選んで買い、夕暮れまで時間があるので植え替えと水やりをした。

陽光を好むという情報もあれば、夏場の強烈な陽射しを嫌うので半日陰にしろという注意書きもある。なんとしても花物のない自宅南向きのベランダで育てたいので、仕事場で大きく育ちすぎている金田くんと成田くん(カネノナルキ)のうち一方を自宅に戻して、こめつつじの日除け役をさせようかと思っている。

そういえばエジンバラ公が亡くなられた。芥川賞作家津村節子の講演に同行する自分をエジンバラ公のようだと夫の吉村昭が書いていて笑ったことがある。エリザベス女王の年齢を調べたら 1924 年生まれなので大正十五年の寅だ。藤枝の伯母が大正十五年の寅で娘は節子という。津村節子は昭和三年の辰でつれあいの母親と同い年だ。買い物の荷物持ちと日除け役にからめて思い出した。(地図は明治の終わり頃)

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【駒込界隈花散歩】

【駒込界隈花散歩】

 
 
 
 
 
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【朝日通り】

【朝日通り】

 

豊島区巣鴨5丁目、豊島区立旭小学校前の道を朝日通りといい、明治維新期の地図にもある古道で、もとの道筋をよくとどめている。

(関東大震災直前の地図)

昔の人が踏み分けた古い道は微妙な地面の起伏にうまく合っており、両脇の家並みも無理なく道に沿っているので、歩いていて心が安らぐ。そういう意味で懐かしい気分になるのだろう。

散歩コースに、人間の欲がまとわりついた歴史などどうでもよくて、ただ古人が暮らしで踏み分けた足跡が懐かしいだけだ。そういう意味でひとり考え事をしながら古道をぶらぶらいくのが好きなのだ。

(明治維新期の地図)

 
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【西居村と東居村】

【西居村と東居村】

 

正岡子規の墓がある大龍寺の東側、山手線沿いを田端高台通りへのぼる坂道。なぜだか懐かしい景色に思える。

散歩しながら明治時代の地図を見るとこのあたりは西居村になっている。北区のサイトで「東京府北豊島郡滝野川町字名一覧」を見ると、大字田端字西居村で地番は 1 〜 188 だった。

当然字東居村もあり地番は 257 〜 366 で、文化人から政治家まで、たとえば芥川龍之介や渋沢栄一なども贔屓にしたという割烹料理屋『天然自笑軒』もそこにあった。

なぜ字西居村の坂道をのぼったかというと、高台通りから旧古河庭園方向へ抜け、上中里の城官寺(じょうかんじ)脇にあったらしい小さな茶畑の跡を見に行ったのだ。

明治時代の地図にポツンとある茶畑の場所には、かつて庚申講のためのお堂があったのかもしれなくて、今も小さな祠が祀られている。何かの理由で庚申堂が失われ、しばらく茶畑だったのではないかなどと想像しながら、茶菓子に旧古河庭園近くの和菓子屋『青柳』で黄身時雨を買って帰った。ここのはとびきりおいしい。

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