【絵を描く兄弟】

2020年6月6日

【絵を描く兄弟】

古書で取り寄せたなだいなだ『こころ医者講座』ちくま文庫を読んでいる。2006 年 6 月に NHK 出版から出た同名の本の増補改訂版として 2009 年 10 月に文庫化されたので、2013 年 6 月に亡くなられた著者の本としては比較的新しい。それでも亡くなられたせいかすでに絶版なので古書で探した。

中扉の簡素で清潔感あるカットがいいなと思い、これは誰が描いたのだろうとクレジットを探したらカバーと同じ作者らしい。失礼ながら存じ上げなかったのだけれど、成瀬政博さんといい 1997 年から谷内六郎の後を引きつぎ『週刊新潮』の表紙絵を描かれているという。

1947 年生まれで大阪外国語大学卒ということは 10 歳年上で医学系出版社編集者だった友人と同時に大学在籍された可能性がある。ああそうなのかと思う。卒業後公務員として大阪簡易裁判所に入所されたが、退職されてイラストレーターになられたという。堅い公務員的な職業を辞して素朴派的画業に転じた画家の例はよくあるので、ああなるほどと勝手に納得したものの、実兄が横尾忠則であるということにびっくりした。

先日、NHK の【ストーリーズ】ノーナレ「屋根裏のちばてつや」を見た。コロナ禍の日本で、自宅屋根裏でひとり漫画を描き続けるちばてつやは 81 歳になられていた。高校卒業後、上京して暮らした下宿がちばてつや宅のそばにあり、銭湯帰りの夜道を通りかかると中から大勢の若者の笑い声が聞こえてきたあの家だ。あの中に亡くなられた弟ちばあきおの声もあったのかもしれないなと余計なことを思い出した。

兄弟で絵を描くというのは、画風が似ていても似ていなくても、なんだか不思議なものだ。

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【はたと】

2020年6月6日

【はたと】

「はたと気づく」とか「はたまた幻か」の「はた」を蘆花は「将」と書いていて、たしか漢文では「礑」と書いて「はた」「はたと」を意味した。

「一陣の冷風颯(さっ)と面を掃(はら)ひ、湖水の音か、雨の音か、将(はた)万山の樹木枝を震ふの音か」(徳冨蘆花)

おや、と思い日本語辞書を引くと「はた」には「当」と「将」が当てられており、どちらでもいいらしい。「はたはっは!」はひょっこりひょうたん島、ドンガバチョの笑い声である。

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【踊り字】

2020年6月6日

【踊り字】

二年前の今日は関東地方が梅雨入りしている。今朝もややそんな気象状況に近い。

「や〻」と書いて「やや」と読み iOS では「おどりじ」と打ってやると「〻」が候補に出てくる。蘆花などの縦書き文に出てくる繰り返しをあらわす表記で、視覚的に「ちょいちょい」に近いように思われる。揺すり点ともいう。現代では「やや」と書き換えられることが多いけれど、縦書きでは「や〻」の方が踊るように生き生きして見える。

「〻」はそれだけでは意味を持たない記号だけれど、上に置かれる文字との関係においてひとまとまりになると、繰り返しのリズムを加える視覚効果的な意味を帯びているように見える。「屡」はそれ自体で「しばしば」、「各」はそれ自体で「おのおの」という〝意味〟を持つけれど、「しばしば」「おのおの」と〝読ませる〟ため「屡〻」「各〻」と書かれたのはそういうこともあるだろう。

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カレー南蛮百連発:049 本駒込2丁目 松月庵の和風カツカレー・テイクアウト

2020年6月5日
カレー南蛮百連発:049 本駒込2丁目 松月庵の和風カツカレー・テイクアウト
 
 
緊急事態宣言が発令されてから、妻は耐えに耐えて茫茫になった髪を切ってもらいに銀座まで出かけて行った。

緊急事態宣言が発令されてから、一度も外での飲食をしていない。我慢に我慢を重ねたわけでもなく、やってみたらわが夫婦は外での飲食をさほど必要としていなかったことがわかった。年齢的に、こういう生活様式もアリだなと思う。

緊急事態宣言が発令されてから、昼食は妻がつくる小さなお弁当を食べている。NHK ラジオ第一『ひるのいこい』で古関裕而作曲のテーマ曲を聞きながら仕事場でする昼食が、野良に出たようで楽しい。

近所の飲食店はコロナ禍に耐えられず廃業した店もあれば、休業要請に応じず営業を続けた店もある。休業しても食べて行かなくてはいけないのでテイクアウトを始めた店もあるけれど、どんな人がつくっているのか見たこともない店の、食べ物をいきなりテイクアウトする気にはなれない。

時々食べにかよった近所の古い蕎麦屋がテイクアウトを始めており、その店で大好きだったカレー南蛮やカレー丼の味付けで和風カツカレーがテイクアウトできるらしい。

緊急事態宣言が発令されてから、初めてひとり昼食どきを迎えるので、「12時頃取りにきます」と言って注文しておいた。というわけで古関裕而を聴きながら和風カツカレーを食べる、久々のカレー南蛮百連発・特別編である。

 
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【琴風】

2020年6月5日

【琴風】

琴を風の通る場所に立てかけておくとよい音で微かに鳴るという話が井伏鱒二にあった。太宰治にもらった津島家ゆかりの琴を体良く始末する話だったと思う。風で琴が自然に鳴ることをそれで初めて知ったのだけれど、徳冨蘆花を読んでいたらこうも書かれている。

石に腰かけて、聞いて居ると、其音!松風、人無くして鳴る琴の音、何に譬へて宜からう?(徳冨蘆花『自然と人生』所収「空山流水」)

エオリアン・ハープ(Aeolian Harp)、ウインド・ハープ(Wind Harp)というものがあり、自然に吹く風で音が鳴るのだという。ギリシャ神話の風神アイオロスにちなんでイオルス琴とかアイオロスの竪琴とも言われる。

いま藤枝で伯母を介護している従姉が、かつて嫁入り前に琴を弾いていたのだけれど、パンポロリンの練習に飽いて立てかけられていたあれも、清水平野を朝夕に吹き渡る海風で麗しく鳴っていたのだろうか。

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【ゆんで】

2020年6月5日

【ゆんで】

左手と書いて「ゆんで」と読ませる。なんで「ゆんで」と読むんだっけと考えても思い出せないので、辞書を引いたら弓を持つ弓手(ゆみて)から来ている。

それでは右手は矢手かなと思ったら馬手(めて)で、馬上の武士が左手に弓を握り右手で手綱をとるからだという。

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【チクチク】

2020年6月4日

【チクチク】

理容室で髪を切ってもらって帰宅するとシャツの襟にあたる首のまわりがチクチクする。チクチクが気になるのでシャツを脱ぎ、襟の内側にガムテープの粘着面を当ててペタペタすると短くカットされた髪の毛がついてくる。チクチク感じて不快だったほどの毛の量では無いので、今度はガムテープの粘着面を襟の内側に触れる首に当ててペタペタやると、驚くほど多くの短くカットされた髪の毛がついてくる。

チクチクさせる側と思われるシャツの襟ではなく、チクチクさせられる被害者側の首に原因物質がついているというのは面白い。襟についた毛のせいで痒いのではなく、痒い首についた毛を襟についた毛であると感じるのだ。人間が〝他人の性格〟だと思うものが実は〝自分の側の好悪〟の投影にすぎないことに似ている。

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【頭の軽さ】

2020年6月4日

【頭の軽さ】

新型コロナウィルス騒ぎが始まってから伸び放題になっていた髪を切りに行ってきた。髪を切ってもらったあと
「ああ頭が軽くなった」
と言うけれど、重さを感じるほどの毛髪量はないので、鬱陶しさが除かれ精神的に軽くなった分が含まれるのだろう。

精神的な気の重さからその原因が除かれてこころが軽くなることもあるけれど、
「ああ頭が軽くなった」
とは言わない。頭が悪いと言われても傷つかない人が、性格が悪いと言われて傷つくこととの、質の違いに似ている。

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【こころの5、6目】

2020年6月4日

【こころの5、6目】

「最近編物男子が多いんだってね」
と妻が言う。だとしたらいいことかもしれない。

むかっときた怒りを堪(こら)えられないことを癇癪を起こすという。怒りのピークは6秒ほど続くので、その6秒を うまくやり過ごせば人は癇癪を起こさなくて済む。

精神科医だったなだいなだは編み物をしていた。編み棒を両手に持ってフランス人の妻に習ったガーター編みをしていると、誰かにむかっとするようなことを言われても、あと残り5、6目を編んでしまい、――実際途中でやめてしまうとあとで厄介らしい――編み終えたところで手を休めて「で?」と言うと、怒りのピークがやり過ごせているという。

戦後かなり経ってから発見された小野田さんと横井さん、軍人としての資質云々ではなく、横井さんが地域から略奪行為を一切することなく平和的に逼塞できた理由は、実は編物や織物ができたからだという話も面白い。

編物をしなくても心の中に編み棒を持って5、6目を編み上げるような間が持てるようにしておくといい。むかっときそうになると好きな歌のサビの部分を心の中で口ずさむ工夫をしている人もいる。確かにサビが持続するピークも5、6目くらいで、激昂型国民が好む歌のサビとはそういうものだろう。

この話の肝は、怒りのピークを抑えて〝怒るな〟ということではなく、怒るべきことには怒っていいのだけれど、瞬間的な怒りは〝怒りの質(たち)〟が悪いということだ。5、6目おいて落ち着いて怒る。感染拡大の予防対策にも通じるだろう。

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【堪える】

2020年6月3日

【堪える】

なだいなだの本を読んでいたら今の若いものは字を知らなくて「堪える」の読みを尋ねるとたいがい「たえる」と読むという。もう三十二年も前の本だけれど、なだいなだは親より一歳年上なので、たぶん書かれた当時も自分はなだいなだから見て〝若いもの〟に該当していたはずだ。若いけれどちゃんと読めるぞ、それは「こたえる」だと心の中で答えたら正解は「こらえる」だと言う。

なだいなだはこの文章で「たえる」と「こらえる」はぜんぜん違うのだと言う。「こらえる」はただの辛抱ではない。心情的にも高度である。それはその通りで言わんとすることはわかるけれど、「堪える」はずっと「こたえる」と読んでいたので辞書を引くとちゃんと「こたえる」という読み方がある。だが「こたえる」という読みはあるけれど、自分が知っている「こたえる」の意味とは違い、堪えるは「こたえる」と読んでも「こらえる」と同義なのだ。

ひょっとすると自分が心の中で使う「こたえる」という意味は、字で書くとぜんぜん違う漢字なのかもしれないと、痛いところに気づいて辞書を引いたら、自分の「こたえる」は「応える」と書くのだった。そうだったのか。最近の若いものは字を知らないという、なだいなだのありがたい言葉は胸に応(こた)えた。こういう「応える」の用字が正しい。ああそうか。恥ずかしい。

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【ロケット発射場風景】

2020年6月3日

【ロケット発射場風景】

6 月 1 日から六義園の再公開が始まったので、午後の休憩時間に散歩したら、提示した年間パスポートを一旦引き取り、休園期間分を有効期限に加算して再発行してくれた。

5 月の連休に予定していた清水中河内のタケノコ掘りには外出自粛のため行けなかった。六義園も休園となりしだれ桜は無観客で咲いて静かに散り、いまはみごとな葉桜になっている。

そして竹林では芽を出した竹の子が、茶色い皮を脱ぎ捨てながら、二段、三段、四段とロケットに点火し、ことごとく天を衝くような打ち上げに成功していた。

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【夜の鉄人たち】

2020年6月3日

【夜の鉄人たち】

緊急事態宣言が解除されたとたん、夜のまちに繰り出した人たちのあいだで集団感染が発生したという。ニュースを見ていたらガールズバーという言葉が聞こえ、
「まったく男はどうしようもないわね」
と妻が言う。

コロナ関連のニュースで〝夜のまち〟という言葉が出るたびに鉄人 28 号の主題歌を思い出して
「♪夜のまちにガオー」
と歌うと、妻が
「ちがう『♪ビルのまちにガオー』だよ」
と、まったく男はどうしようもないわねと言いたげに訂正する。

今朝のニュースを見ていたら、集団感染はガールズバーだけでなくホストクラブでも発生したらしい。女は女で〝接待をともなう飲食〟目当てに
「♪夜のハイウエーにガオー」
らしい。

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【めんどくさい】

2020年6月2日

【めんどくさい】

剣道をする女性編集者が「めんどくさいので選別しないでまるごとお送りしました」と口を滑らせたので、仕事の受け渡しで事あるごとに「めんどくさいから?」と聞いてやると「大失言すると一生言われる」と笑っている。「めんどくさい」は言ってはいけない究極の本音なのだろう。

人の一生は、家康が重い荷を背負い遠き道を行くようだとたとえたようにめんどくさいものであって、めんどくさいものをめんどくさいと感じないところに生きる喜びがある。めんどくさいことをめんどくさがらずに真摯に受け止め、めんどくさいと思ったらおしまいだと頑張り通した人が、いよいよ人生の終わりを覚悟した時「ああこれですべてのめんどくさいことともおさらばだ!」と思う、それこそが最高に幸せな死だろう。Gone At Last。

新しい週が新しい月とともに始まり、机の上にめんどくさいことのメモ書きが数枚たまったので、めんどくさいことをめんどくさいと思う前に片付けた。めんどくさい〝ことが問題なのではなくて、めんどくさいと〝思う〟こと自体が人生の大問題なのだ。人それぞれでめんどくささは違う。「なんだ、そんなことならわたしがやりましょう。めんどくさくないから」という人が他人を救う。めんどくさい思いをさせることがその人の命を奪うこともあるのだ。

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【横並びの会話】

2020年6月1日

【横並びの会話】

六月一日の朝になり、大通りを挟んだ向かいにある小学校でも授業が再開される。通学の時間帯になって幸いにも雨が一時的に上がり、児童がポツリポツリと登校し、なぜかお母さんが付き添っている子どもが多い。

窓辺に並び、交差点に向かってこっちから登校していく小さなうしろ姿を見下ろし、
「見て見て、小学生が登校していくよ」
と妻が言うので、交差点対角側を見て
「ほんとだ、あっちからも登校してくるね」
と言ったら、
「この学校はあっちから通ってくる子が多いのね」
と言うので、
「この学校はあっちとこっちの子どもが通ってきて、他の子どもたちはあっちの小学校に通うんだ」
と言ったら
「えっ、あっちの子どももこっちじゃなくあっちへ通うの?」
と言う。

疲れるので話はここまでにした。新生活習慣初日。人と人とが向かい合わず、身振り手振りが見えない横並びになり、「あっち」と「こっち」を言葉だけで通じさせ合うのは難しい。

六義園は開園時刻を10時からにして今日から再開

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