【さらばミカン娘】

【さらばミカン娘】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 10 月 23 日の日記再掲)

週末の介護帰省をする朝である。

長期にわたる抗がん剤投与の疲れが癒えてきたのか、このところ母は食欲も気力も回復し、少しは安心して離れて暮らせるので土曜日まで粘って仕事をさせてもらったのだけれど、明日は郷里静岡県清水で大好きだった叔母の納骨に立ち合うので、帰省を土・日・月とスライドさせたのである。

他人の死は呆気ない。
握りしめた指の隙間から砂がこぼれ落ちていくように、大好きな人々が病気になり、永遠に会えない人になっていく。会いたい会いたいと思っているうちに、親たちが次々に病で倒れ、ささやかな夢すら手の届かないものとなる。本当に会いたい人とは、会えるうちに何度でも会っておいたほうがいいと思う。

写真上は大好きだった祖母(左)と叔母(右)。とうとう二人とも故人になってしまった。

清水市大内にあった祖父母の家の縁側で大好きな女性二人に挟まれている僕は、おそらく玩具のバットを刀がわりにしてちょんまげにしてもらい、新撰組ごっこでもしていたのだと思う。この頃はチャンバラが大好きで国定忠治の真似をしている写真もある。

写真下は巴川端にあった祖父歩の瓦工場、釜入れ直前の瓦の小さな傷やひび割れなどをチェックして補修する作業をする叔母。後ろに既に釜に入れて焼き上げる準備の整った瓦が見える。僕は働く叔母の側にいるのが大好きだった。

山形県からはるばる汽車に乗って清水駅に降り立ち、戦後人手不足で悩んでいた農家に『ミカン娘』として集団就職のように出稼ぎに来て、「働き者の娘さんだから」と同い年だった叔父に紹介する人があり、縁あって清水の瓦工場に嫁いだ叔母だった。

思い出の中の叔母は働いている姿ばかりで、神奈川県に嫁いだ長女の元に身を寄せた後も、近所のゴルフ練習場で球拾いの仕事をしていた。母が電話をかけて「もうそろそろ仕事を辞めて隠居したら」と言ったら、「あっしゃあ家政婦さんを雇って家事をやって貰ってでも自分は働きに出たい」と笑って答えたそうである。ガンで倒れる直前まで働き続け、遺影の前には永年勤続した叔母を、社員の模範であると讃えたゴルフ練習場からの表彰状が供えられていた。

懐かしい叔母の写真を日記に挟み、東京駅 7 時 18 分発の東海1号で清水に向かう。

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