【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧海道編2】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧海道編2】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 10 月 22 日の日記再掲)

古い道沿いには古いものが残っている。

それは過去の出来事が夢まぼろしではなく確かに存在したことへの嬉しい手がかりとなる。

農家を見ると懐かしい。農家で生まれ育ったわけでもないのにどうして懐かしいかと言うと、ほんの少し前の時代、僕が幼かった頃の日本にはもっともっと農家が多かったのである。都会暮らしをしていても、ほんのちょっと郊外に出れば野壺の匂いがした昭和という時代があった。農家というのは基本的に日本中どこへ行っても農家然としていて「(ああ、農家だなぁ)」と感じさせるものがあり、それは住まいや作業小屋の配置などが、農の営みに適した合理的構造になっているからだろう。

古い海道沿いに茶舗があり、住まいの脇に作業ができる広場があり、広場の奥に蔵があり、広場を挟んで住まいの反対側に外便所がある。外便所というのも臭覚的記憶を伴いつつ懐かしい。

幼い頃預けられていた祖父母の家は瓦工場であり、やはり外便所で、夜間トイレに立つのがとても怖かったし、冬は凍えるように寒かった。幼心に「(どうして東京のアパートのようにトイレが室内にないのだろう、水洗じゃないので臭いからかなぁ)」などと思ったりもしたが、トイレがくみ取り式だった時代から一般民家に内便所はあったわけで、今思えば労働優先、住まいの外に隣接して労働の場がある暮らしぶりなら、便所は外の方が都合が良かったのだと思う。

古道沿いに立派な山門を持つ寺があり、その名を東光山本能寺という。解説板を読んでいたら傍らにあの説明好きな爺さんがにっこり笑って立っていそうな気がして振り返る。あの爺さんならこんな説明をするだろう。

「(今は昔、室町時代だから 1500 年代のはじめ、しぞーかに池田っちゅう場所んあって、そこに今もある池田本覚寺の一等偉い坊さんに日東って人んいただよ。その日東さんの夢ん中に真東にある光り物ん出てきて、霊感を感じた日東さん、いてもたってもたまんなくなって、そのまんまダダダッと有度の山に分け入り、日本平動物園やゴルフ場を台風みてゃあに突っ切って清水の馬走(まばせ)あたりに出て、そっから進路を真東から東北東に変えて温帯低気圧に変わり、ちょうどこの場所へと来たら、祠に安置された虚空像菩薩を見つけたもんで、やいやいこれん光り物だっけだなぁってこんで、東の光り物にちなんで東光山と号して寺を開き、18 年間坊さんをつとめて亡くなっただよ。ほうだ、4 年後の西暦 2008 年が開山 500 周年になるだよなぁ。ほう、この山門もたーまんなくええらぁ。写真写いといてくりょうよ。戦国時代庵原郡一帯は武田ん武将今福家が治めてただけーが、こりゃあその今福さんちの母屋の門だっただよ。なぁ、ざっとでええんて覚えといて)」

東光寺門前を過ぎると古道は緩やかに下り、総合運動場前の道に出て尽きるのだが、清水市の地図で見ると道の下は清水港に注ぐ中田川の暗渠になっているのかもしれず、古海道も次郎長通りも中田川に通せんぼされていたのかもしれない。そう思いつつ光り物の夢に導かれ、美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋で、とびきり手間がかかり、とびきり鮮度がよく、とびきり安くてとびきり健康によい、美味しいコハダの刺身を買って帰途につく。

写真上段上:古道沿いにある池田製茶さん。奥に美しい蔵がある。
写真上段下:鮮魚『おおたき』さんの方へ分岐する道も古道らしく、何やら説明した石柱があるが風化が激しく判読不能。
写真下段上:古道沿いの農家。なつかしい風景に胸がキュンとなる。
写真下段下:本能寺山門。
写真小:この無人売店のミカンは1袋100円であり、粒が不揃いだが飛び切り美味しかった。
[Data:KONIKA MINOLTA DiMAGE Xg]

コメント ( 0 ) | Trackback ( )
« 【『街道を(... 【さらばミカ... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。