【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧海道編3】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧海道編3】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 10 月 24 日の日記再掲)


一昨日の日記で海沿いの古道について書いたらいろいろな人からいろいろなことを教えていただいた。

掲示板では、本能寺からドラッグストアのある中田川暗渠までの小道を今福丹波守の屋敷跡にちなんで地元衆は「丹波街道」と呼んでいるのだと教えていただいた。

また、この道の近くで生まれ育ち、高校への通学路として通い慣れた道だったという方からメールをいただき、本能寺の先から総合運動場前の大通り方向へ下る坂を「原の坂」と言い、下ったあたりを「浜下」と呼んでいたという。そして今の総合運動場あたりは干潟だったらしいのだ。

我が母の年齢よりちょっと上のご両親が近くで薬局を営まれているとのことだったので、美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋に行くついでに前を通ったら、確かに薬局があった。そして薬局脇の塀に商業地図が掲示されており、興味深く見ていたら意外なことがわかった。古い海道には名前があって「県道駒越・富士見線」というらしい。

そういえば先日は天王山遺跡通りから左折して県道駒越・富士見線線に入ったのだが、逆方向へ右折した先にも道が続いており、初めて知った道の名からすると駒越まで続いているらしい。

地震・雷・火事・親父。
昨夜、新潟方面を震源にした大きな地震があったが、地震もさることながら、それに伴う火災が恐ろしい。火事というのは恐ろしいものである。

先日とは逆方向、県道駒越・富士見線を駒越方向に入ってすぐに立派な火の見櫓があり、夕暮れ時の感傷もあってしみじみと見上げつつ遠い日のことを思い出す。僕はかつて火の見櫓のてっぺんまで登ったことがあるのだ。

祖父母の瓦工場の隣に八州(やしま)産業という会社の作業場兼倉庫があり、ミカンの皮を乾燥させて貯蔵していた。七味唐辛子の材料にしたのではないかと母は言う。

瓦工場に隣接して母の結核療養を目的に建てられた離れがあり、幼い頃僕は両親とともにそこで暮らしていたのだが、未明に母が目を覚ましたら窓が真っ赤であり、八州産業の工場が燃えていたという。
「火事だ!火事だ!」
と叫んで走り回ったら、いつでも冷静だった祖父が、
「バカっ!こんな夜中に田圃の真ん中で騒いでどうなる、花立(はなたて)まで走って半鐘を叩け!」
と言ったのだそうだ。

母は僕を火事場に残して出掛けるわけにも行かず、ばってんおんぶ紐で背中に括りつけ、闇の中、巴川の土手を走り、北街道沿いにある大内観音入口、花立バス停近くにあった火の見櫓の梯子を登り、
「火事だ!火事だ!」
と叫びながら半鐘を打ち鳴らしたという。

激しく連打される半鐘の音と、夜空を焦がす紅蓮(ぐれん)の炎が僕の記憶にもあるのだが、それは母から何度となく聞かされた思い出話が映像化されただけかもしれない。それでも黄昏時に懐かしい火の見櫓を見つけると、赤く染まった空を背景に幼子を背負って半焼を連打する母の姿が切り絵のように思い浮かぶ。

[Data:SONY Cyber-shot DSC-W1]

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