酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

キャパの目が捉えたもの~主観と客観の狭間で

2005-03-21 01:17:28 | カルチャー

 3月は写真月間というべきか。キャパの人生を追った「CAPA in Love&War」(WOWOW)と「一瞬の戦後史~スチール写真が記録した60年」(衛星第1)を見た。キャパに絞って内容を紹介し、感想を述べたい。

 いい写真を撮る方法を尋ねられ、「近づけばいい。対象が個人なら愛すること。愛していることを相手にわからせること」とキャパは答えている。キャパはまさに「近づく者」であり、ジプシーを自称したように「放浪する者」でもあった。相反するベクトルを制御し、バランスを保ったからこそ、キャパの写真は普遍性を獲得し、緊張感を発散出来たと思う。

 キャパはスペイン戦争で名を上げた。共和国側で従軍し「倒れる兵士」を撮る。この写真だけでなく、ドイツの爆弾が降りしきる都市でも、死と背中合わせにシャッターを押し続けた。報道の公共性や中立性なぞ糞食らえで、立ち位置を明確に取材を続けた。恋人ゲルダをスペインで亡くし、反ファシズムの信念は強固になる。空爆に曝されるロンドン、北アフリカ、シシリア島、ノルマンディーと、常に激戦地で体を張っていた。

 キャパは1913年、ハンガリーで生まれた。アンドレ・フリードマンが本名のユダヤ人である。反政府運動で17歳の時、母国を追われた。ドイツに渡るが、ナチス台頭でパリに移住する。後にアメリカの市民権を得たが、遊牧民の自由さで世界を駆け巡った。戦後、日本にも滞在し、子供の写真を多く残した。目線に合わるため跪いて撮影したが、このエピソードこそキャパの人間性と方法論を示すものだと、邦人カメラマンが証言していた。

 そもそもキャパとは、無名時代にゲルダと作り上げた架空の存在だった。「多忙で有名なカメラマン」をデッチ上げ、ゲルダがマネジャー役で出版社と契約した。自らを「トリックスター」に仕立てたのである。祖国がナチスと組んだため、アメリカでの活動が難しくなると、国務省と直接交渉して逆転ホームランを放つ。ノルマンディー作戦での従軍カメラマンの地位を確保したのだ。戦後はグループ「マグナム」を結成し、カメラマンの地位向上に成功する。キャパは優れた芸術家であり、天才プロデューサーでもあった。

 キャパが世間の耳目を集めたのは、他の理由もあった。ハンサムな女蕩し、ギャンブラーとしてゴシップの種が尽きなかったのだ。中でも、イングリッド・バーグマンを袖にしたエピソードは有名だ。バーグマンにとっての悲恋の経緯は「裏窓」のプロットや台詞にも影響を与えたという。

 キャパはアメリカにとって最高のスポークスマンだったが、戦後は微妙な立場に追い込まれる。自由のために闘ったにもかかわらず共産主義者のレッテルを貼られ、チャプリンと同じ悲哀を味わった。同じくFBIの監視下にあったスタインベックとソ連に渡った。その時のルポはセンセーションを巻き起こしたが、権力者の心証をさらに悪くする。「赤狩り」の狂気がアメリカを覆った時期、キャパはパスポート取り消しの圧力を掛けられた。

 キャパは50年前後、引き気味の仕事を選び、明らかに倦んでいた。「ライフ」からインドシナ取材を要請されると、二つ返事で引き受ける。キャパはフランス側で従軍しながら、ベトナムの勝利に興奮していたという。退却中に地雷を踏み、死を迎えた。40年の人生は、一瞬の煌きの連なりといえるだろう。生き延びていたら、ベトナム戦争でどのようなスタンスを取ったか興味深い。「マグナム」の一員であるリブーのように北ベトナムに入国し、アメリカを糾弾する写真を世界に配信した可能性が大きいと思うのだが……。

 最後に訃報を。アヤックス対PSVにチャンネルを合わせたら、元オランダ監督でトータルフットボールの生みの親、ミケルス氏死去のニュースを伝えていた。遥か極東の島国から、冥福をお祈りする。オランダ代表も今月末、W杯予選を2試合控えている。ファンニステルローイとロッペンはケガで復調途上、マカーイ欠場と不安はあるが、墓前に勝利を捧げてほしい。
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