酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命」~激動の時代に翻弄されて

2024-05-11 21:11:31 | 映画、ドラマ
 当ブログでは映画を数多く紹介してきた。邦画なら時代背景をある程度は把握しているので戸惑うことはないが、海外の作品だと〝?〟を重ねながら観賞することもしばしばだ。そんな時は復習が必要で、ネットであれこれ検索して学び、何となく理解した気になる。古希が近づいてきているが、齢を重ねるとは、俺にとって自分の無知を実感することと同義だ。

 新宿シネマカリテで先日、「エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命」(2023年、マルコ・ベロッキオ監督)を見た。本作はヨーロッパを震撼させた実話をベースに、イタリア、フランス、ドイツの3国が共同で製作した。1858年、イタリア・ボローニャのユダヤ人街で7歳の少年エドガルド(少年期=エネア・サラ、青年期=レオナルド・マルテ-ゼ)が異端審問所警察に連れ去られる。教皇ピウス9世(パオロ・ピエロボン)と枢機卿の命令だった。

 拉致には根拠があった。かつてモルターラ家で働いていたカトリック教徒の家政婦は病弱だったエドガルドの身を案じ、命を永らえさせるため洗礼を行った。そのことが教会に伝わった以上、教皇は無視するわけにはいかない。教会法において<非キリスト教徒にはキリスト教徒を育てる権限はない。誰に授けられたとしても洗礼を受けた者はクリスチャンとみなされる>と定められている。エドガルドの父モモロ(ファウスト・ルッソ・アレジ)と母マリアンナ(バルバラ・ロンキ)は伝手を頼って面会にこぎ着けるが、連れ戻すことは出来なかった。

 信仰の問題は一見、日本人とは無関係に思えるが、天皇教から解放されたのは70年前のこと。比叡山の僧侶たち、一向一揆、島原の乱を経て、仏教は幕藩体制に飼い慣らされた。日本人には本作のキーワードになっている<洗礼>を理解するのは難しいと思う。併せて当時のイタリアは統一に向けて激動期にあった。保守派のカトリック教会は、国民国家を目指す民衆やプロテスタントに押されて劣勢だった。ロスチャイルド家を筆頭にしたユダヤコネクションや進歩派のメディアはエドガルド解放を訴えたが、外圧がピウス9世を頑なにした。

 マリアンナが訪れた寄宿舎では面会が終わったと思えた刹那、エドガルドは母にしがみついてユダヤの祈りを捧げていることを打ち明けた。日々の修行で心境に変化の兆しが表れる。磔刑されたキリストの絵に感化されたエドガルドが手首と足首の釘を外すや、自由になったキリストが教会を出ていく幻を見る。葛藤がくすぶっていたことは、召されたピウス9世の遺体を移送する途中が明らかになる。抗議に押し寄せた民衆に呼応し、「こんな教皇なんて川に流してしまえ」と叫ぶのだ。

 迷いはその時点で消え、エドガルドは市民軍のリーダーだった兄と対峙し、臨終の席で母に洗礼を施そうとして親族の顰蹙を買う。その後は聖職者の道を全うした。ベロッキオ監督は社会の矛盾を追求したパゾリーニに認められていた。シリアスで重厚なトーンで進行するが、ユーモアも織り込まれている。ピウス教皇が見る夢に笑ってしまう。アメリカのユダヤ系劇団は、教皇が割礼されるというストーリーの芝居を上演して話題をさらった。教皇自身もその夢を見てうなされるのだ。

 世界で今、イスラエルへの批判が高まっているが、自由と民主主義、反戦を掲げるリベラリズムに基づくもので、本作と重ねるのは無理がある。信じることの意味を見る者に問いかける作品だった。
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