酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「砂の女」~<安部―勅使河原>の最高傑作

2007-05-07 00:08:57 | 映画、ドラマ
 今回は「砂の女」(64年、勅使河原宏監督)について記したい。

 ♪空が哭いてる 煤け汚されて ひとはやさしさを どこに棄ててきたの……

 「東京砂漠」が巷に流れていた年(76年)、俺は東京で一人暮らしを始めていた。マスキー法(排ガス規制)施行直前、汚れ切った東京の空の下、小説の数々が火照った思いを冷まし、乾いた孤独を癒やしてくれた。「義務」として読みふけったのは、「カフカやフォークナーに匹敵する作家」と大江健三郎が評した安部公房である。

 安部自身が脚色し、勅使河原にメガホンを託した作品が、先日スカパーで放映された。「他人の顔」の京マチ子の艶かしさ(おっぱいは吹き替え?)、「燃え尽きた地図」の市原悦子のしなやかさに、女性を描く勅使河原の力量が窺えた。とりわけ強烈なのが「砂の女」の岸田今日子の存在感だ。男(岡田英次)をはぐらかしては包み込み、具象と抽象を行き来する妖しく哀しい女を熱演している。

 「砂の女」は昆虫採集で砂丘を訪れた男の失踪譚である。男は妻との行き違いに悩み、自分は何者なのか自問自答していた。「疎外」、「アイデンティティーの喪失」、「潜在意識への旅」を抉る安部文学の真骨頂といえる作品だ。

 冒頭のシーン、砂地で蠢き擬態する虫の姿が、男の行く末を暗示している。一夜限りの宿のはずが、女の家に閉じ込められ、夜を日に継いで砂を掻き出す定めになる。理不尽で不条理な共同体の囚われ人になってしまうのだ。

 <カフカの後継者>と目された安部だが、デラシネ的な作家ではない。グローバルな普遍性を獲得するだけでなく、とりわけ初期の作品では日本独自の土壌を取り込んでいた。最初の夜、女は「湿った砂は買いたての下駄を半月で腐らせる」と言う。一笑に付した言葉が紛うことなき現実となって、男を押し潰そうとする。「湿った砂」は共同体の隠喩として描かれている。

 脱出に失敗した男は、わずかな時間の外出許可を得るため、衆人環視の下、女と交わろうとする。それはまさに、男が共同体の一員になる儀式だった。女は消え、男は残る。生きる縁(よすが)は「湿った砂」の有効利用だった……。

 ラストで、7年後の男の失踪宣告書が大写しになる。男の住所「新宿区淀橋」は、偶然にも次稿と繋がっていた。

 「砂の女」を読んでから30年、俺は「東京砂漠」の底で蹲っている。

 ♪あなたがいれば ああ あなたがいれば 陽はまた昇る この東京砂漠……

 あなたは俺の指先をすり抜けたが、今日もまた陽は昇るだろう。
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