酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「萬蔵の場合」~身につまされる恋愛譚

2007-05-10 00:12:46 | 読書
 今回は車谷長吉氏の「萬蔵の場合」を取り上げる。

 車谷氏は自らを「反時代的毒虫」と評し、露悪的、偽悪的に心の内を綴っていく。氏の作品は俺にとり、心を洗う水であり、時に吐き気を催す灰汁にもなる。「萬蔵の場合」は「俺の場合」と言えるような恋愛譚で、ページを繰るたび、ポッカリ古傷が口を開けるのを覚えた。作品の舞台は1960年代後半の新宿界隈だ。萬蔵の住まいを地図から消えた「淀橋諏訪町」に設定したことが、物語にノスタルジックなムードを加えている。

 萬蔵の心をそよがせる女性は、俳優志望の瓔子だ。奔放な振る舞いは、「突然炎のごとく」のカトリーヌを想起させる。瓔子は萬蔵に、恋愛遍歴をあけすけに語る。<愛することのむごさをおしえてくれた人>、彼女を愛するあまり<一種の廃人>になった男、<あたしを手籠めにした>芝居仲間……。混乱した萬蔵の頭の中、<瓔子の言葉が砕けたガラスの破片のように散らばっていた>。

 瓔子は唐突に、<あなたの子供が生みたい>と話しかける。言葉が途切れた雨の公園、萬蔵は<この女は美しい。一種みにくさの反映である程に>と感じる。唇を重ねてきた瓔子の乳房を探った時、<あなたとだけはそういうことはしたくないの>と突き放された。瓔子の父と同じく、萬蔵は1本の指の先が欠けていた。瓔子にとって萬蔵は、父への愛憎を投影させる存在でもあった。

 萬蔵と瓔子は、蠍のように毒針の付いた尾を互いに向けている。<傷口をなめあうような愛>が芽生えた瞬間、<瓔子はたちまち拒絶的になる>。修羅を避け、瓔子の部屋を辞した萬蔵は、影絵のような川底に、<瓔子の心に澱んだ渇き>を投影させた。即ち<恐らく父が狂死した時に経験したであろう死の嗎啡(モルヒネ)を、もう一遍味わいたい、という渇き>である。怜悧な表現に背中がゾクゾクした。

 瓔子は旅先から、<私は逃げた毬>であり、<瓔子の逃げた毬をいっしょに探して>と綴った手紙を送り付けてきた。だが、失踪は長続きせず、たちまち萬蔵の前に姿を現す。瓔子は<男が背を向けると、いつの間にか男の目が届く範囲の隅に、ちゃんと自分の姿を現わしている>。本作を貫くのは、恋愛に必然的に伴う遠心力で酔うような感覚だ。

 物語のラスト、萬蔵と瓔子は干上がった多摩湖を訪れる。むき出しの湖底を見て、瓔子は<これじゃ死ねないわね>と囁く。本作が「赤目四十八瀧心中未遂」の下敷きであることは間違いない。詩的なイメージに彩られた本作は、ケシのように毒々しく、薔薇のように危険で、カタクリのように儚い。男女の深淵を描いた小説は数あれど、「萬蔵の場合」が白眉と確信した。

 本作は芥川賞候補(81年)に挙がったが、車谷氏は作家として自立できず、筆を折って社会の底を漂流する。才能に比してあまりに不遇の日々を過ごしたが、90年以降、短期間に多くの文学賞を受賞した。目の眩むような栄光は、孤独と絶望に打ちひしがれつつ、自らを浄化するようにペンを走らせた精進の結果に他ならない。

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