『映画は社会学する』より 消費社会論
資本主義の帰結としての消費社会
ボードリヤールは、消費社会における欲求が決して特定のモノヘの欲求ではなく、記号的な差異への欲求であると指摘し、そこに競争の要素が加わることで、差異の無限の連鎖が生まれることを論じた。差異への欲求にとらわれれば、その欲求は満たされることを知らず、あたかも中毒性のあるドラッグのように働く。ここで先の引用の繰り返しになるが、『ヘルタースケルター』における整形クリニックの院長の台詞を振り返ってみよう。
「せっかくあんなに美しく幸せにして差し上げたのに。定期的な治療なしで安定した状態を保てると思うなんて傲慢よ。働けばいいだけでしょ。」
興味深いことに原作コミックにも院長による同様の台詞があるのだが、そこでは最後の「働けばいいだけでしょ」の部分は書かれていない。この台詞の追加によって、手術にはお金がかかるということだけでなく、そのお金は「働く」=労働によって稼がれるということが意識化される。肉体の美しさを手に入れるために労働があたかも義務であるかのように強いられるのである。
先述の通り、ガルブレイスが指摘したような「ゆたかな社会」においては、人びとが必要とするモノを消費するのではなく、何よりもまずモノが過剰に生産されるがゆえに その消費(者)が必要とされる。ボードリヤールは、消費が先にあって、その支払いのために貯蓄や計算が必要とされるクレジットを例に挙げて、われわれが「よき消費者」として訓練されているのだと論じる。このように、「生産と消費は、生産力とその統制の拡大再生産という唯一の同じ巨大な過程のことなのである」。しかし、その過程においては、過剰に生産されたモノの方が主となり、モノを生み出す労働やその主体であるはずの人間の方が従となる。つまり人間は疎外されてしまうのだ。
消費社会における人間の疎外:「スクラップ集団」
こうした人間の疎外というテーマが前面に出ているのが、映画『スクラップ集団』(1968)である。元汲取屋の「ホース」(渥美清)、福祉事務所の元ケースワーカーの「ケース」(露口茂)、元公園の清掃人[ドリーム](小沢昭一)、そして安楽死の研究に没頭して医学界から追放された「ドクター」(三木のり平)。彼らは人間の活動が生み出すさまざまな「スクラップ」(ゴミや排泄物から、病人・失業者まで!)にかかわる仕事をしていたが、それぞれスクラップに執着しすぎるあまりに職を失ってしまい、日雇い労働者が集まる大阪の釜ケ崎に流れて来たのである。彼らは自らの境遇や「スクラップ」への愛を語り合うなかで意気投合し、やがて「ドクター」の提案でスクラップの回収をビジネスにしようという話になる。地道な廃品回収からスタートした彼らのビジネスは,ある日サーカス団の象の死体処理を引き受け、解体作業を公開したことで評判になり、軌道に乗ることになる。消費社会においては、商品の論理によって「すべてが見世物化される」のである。しかしこれで味をしめた「ドクター」は次第に事業欲にとりつかれていく。
ドクター:「近頃わしは、ビルを見ても橋を見てもテレビ塔を見ても、皆なんでも叩き壊したくなるんだ。少しでも古びているものを見ると気がかりでならん。今にわしがな、指差しこれはスクラップだといえば、それが何であろうとスクラップだとみなされる時代が来るのだ。今にスクラップが、全ての法則の基になって、この世を支配していくのだ!]
ケース:「そやけどな、商売繁盛さすためにスクラップでないものをスクラップにしてしまうということにわいは付いて行けんのや。そら再生やない、破壊や。一つの国が発展して行くために無理矢理戦争しかけるのと同じ理屈や。」
ドクター:「戦争!? 戦争になればスクラップが増える。戦争大いに結構!」
ボードリヤールは「消費社会が存在するためにはモノが必要である。もっと正確にいえば、モノの破壊が必要である。モノの「使用」はその緩慢な消耗を招くだけだが、急激な消耗において創造される価値ははるかに大きなものとなる」と論じているが、『スクラップ集団』の上述のくだりもまた、きわめて戯画的にではあるが、同時代に消費社会の矛盾を描いていたのである(ボードリヤールの「消費社会」の初版がフランスで出版されたのは1970年のことだが、この映画の公開は1968年である)。
やがてこの矛盾に耐えられなくなった「ケース」は「ドクター」から離れ,「ホース」と「ドリーム」はそれぞれにスクラップのなかで命を落とす。「ドクター」はスクラップをあくまで商売のタネとしてみてそれに執着するのだが、他の三人はそれが人間の活動の産物であり、たとえ社会から不要なものとして排除されたとしても、むしろそれゆえに深くスクラップに共感し同一化している。このように、この映画は「ドクター」を風刺的に描き、もう一方で他の三人の姿を愚かしくも愛すべき人びととして描くことで、つまるところ、そうした人間(の活動の産物)をスクラップとしてしまう(疎外する)消費社会の非人間性を痛烈に批判しているのである。
孤立する消費者たち:『スワロウテイル』
『スワロウテイル』(1996)は、「『円』が世界で一番強かった時代」の架空の日本を舞台とした映画作品である。娼婦だった母を亡くして知り合いをたらい回しにされた少女(伊藤歩)は、歌手を夢見て「円都」にやって来た「円盗」(違法滞在をする外国人)のグリコ(CHARA)にアゲハと名づけられ、その恋人・フェイホン(三上博史)の経営するなんでも屋「青空」で働くことになる。彼らはスクラップをかき集めてそれを売って生活していたのだ。
ある日彼らはひょんなことから一万円札の磁気データが入ったカセットテーゾを人手する。そこでフェイホンらは千円札を半分に切ってセロハンテープで一万円札の大きさにつなぎ、この磁気情報を印刷したものを両替機に入れることによって、大金を得ることに成功する。フェイホンはこのお金でグリコの夢を叶えてやろうとライブハウス「イェンタウンクラブ」をオープンさせ、グリコの歌はたちまち評判をよび、彼女は大スターとなる。
ところが、フェイホンとグリコの関係を引き裂こうとしたレコード会社のマネージャーの策略で、フェイホンは密入国のかどで警察に逮捕されてしまう。フェイホンはなんとか街に戻ってくることができたが、グリコのために身を引いて、マネージャーから手切れ金を受け取る。これにバンドのメンバーは激怒し、「イェンタウンクラブ」は閉鎖に追い込まれてしまうのである。
この作品に登場する「円盗」たちは、「円」を求めて日本にやって来て、「青空」に集う。しかしたまたま手に入れた(偽の)「円」がきっかけで、一時的な成功を収めることができたものの、次第にお互いに疎遠になり、最終的にはばらばらになってしまう。こうしたプロセスは、貨幣が人間に「統一」をもたらすと同時に「距離化」ももたらすとしたG.ジンメルの議論を想起させる。
さらに物語の終盤では、アゲハが仲間たちと過ごした日々を取り戻すために店の権利を取り戻そうとするのだが、データを追っていた暴力団の手下から彼女らを助けようと再び偽札を使ったフェイホンは運悪く逮捕されてしまい、留置所での拷問によって帰らぬ人となってしまう。そしてフェイホンの遺体を荼毘に付したグリコとアゲハは、結局手に入れた大金もすべて燃やして灰にしてしまうのである。
ここでは「貨幣」そのものが消費の対象となっている。しかもその価値は、セロハンテープでつなぎ合わせた偽札という稚拙な「記号」によって簡単に置き換えられてしまう。そうした貨幣の「記号」によってあがなわれた彼らの夢や関係性も、最後にはあえなく消えてなくなってしまうのである。「消費者たるかぎりでは、ひとは再び孤立し、バラバラに細胞化し、せいぜい互いに無関心な群集となるだけである」。