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未唯への手紙

未唯への手紙

連続性の中に生きる

2016年09月05日 | 7.生活
豊田市図書館の品揃い

 2年前の豊田市図書館の品揃いはよかった! この二年で何が起こったのか? 市としての方向が見いだせない。

 市民の環境に関する意識も10年前に比べると悪くなっている。豊かだと思っている連中は現状維持を図る。それは常に悪化を意味する。

連続性の中に生きる

 歯医者の予約を忘れていた。3時に何か感じていたので、ふと感じて、確認したら、そうだった。その日だけで生きるのではなく、連続性の中で生きることを感じないといけない。

 朝起きたときからの1日が全てから変えていきます。だけど、予定したものはほとんど、朝には動けないのも事実。そこでムリすると、急激な眠気に襲われます。それを前提として、生きていく。

ポートメッセの全握に行きたい

 18日のポートメッセなごやでの全国握手会に行こうかと思っている。2日の幕張には、例年の倍の2万人ぐらい来たみたい。少しびびります。体力が持たない。ミニライブで、生ちゃんのミュージカルをみたいけど、近寄ることは難しい。

 ブログを見ていると、ファンの方がメンバーの体調を気にしています。ミニライブは見るけど、メンバーに負担を掛けないために、欠席する人も居た。

 握手するために、七瀬で2時間半待ち。体調悪化が玲香、若様、白石、琴子、日奈子の5人、他の仕事は生ちゃん他2名欠席だから、余計に混みます。

 さらにブログを見ていると、幕張で握手できなかったから、名古屋まで遠征すると決めた人間が多く居た。全握は10月1日の京都しかないから、関東から狙われそう。

大躍進--国民の半数が死のうとも 一九五八~六一年 毛沢東六四~六七歳

2016年09月05日 | 4.歴史
『真説 毛沢東 下』より

中国全土を襲った大飢饉は一九五八年に始まり、一九六一年まで続いた。最悪だった一九六〇年には、政府の公式統計でも、国民の平均カロリー摂取量は一日あたり一五三四・八(キロ)カロリーまで落ち込んでいる。きわめて毛沢東政権寄りの作家ハン・スーインでさえ、都市部の主婦の一日あたりカロリー摂取量は一九六〇年には最大で一二〇〇カロリーだった、と書いている。アウシュビッツ強制労働収容所の囚人は、一日あたりて二〇〇ないし一七〇〇カロリーの食事を与えられていた。それでも、一日に約一一時間の重労働をさせられる囚人の場合、配給以外の食糧を手に入れられない者は大半が数カ月以内に死亡している。

大飢饉のあいだ、人肉を食べた者もいた。毛沢東の死後に安徽省鳳陽県に関しておこなわれた研究(ただちに中止させられた)によると、一九六〇年の春だけで六三件の人肉食が記録されている。その中には、夫婦が八歳の息子を絞め殺して食べたケースもあった。しかも、おそらく鳳陽が最悪のケースではないはずだ。住民の三分の一が死亡した甘粛省のある県でも、人肉食が横行した。ある村の幹部で妻も姉も子供も飢饉でなくした人物は、のちにジャーナリストにこう語っている。「それは多くの村人たちが人肉を食べましたよ……あそこ、公社の事務室の外でしやがんで日向ぼっこをしている人たちが見えるでしょう?あの人たちの何人かは人肉を食べています……みんな、腹が減って頭がおかしくなってしまったのです」

こうした地獄絵の一方で、国の穀物倉庫には食糧がたっぷりあり、軍によって守られていた。なかには倉庫内でそのまま腐ってしまう食糧さえあった。ポーランドのある学生は、一九五九年の夏から秋にかけて中国東南で果物が「トン単位で腐っていく」のを目にしたという。それでも当局は、「餓死不開倉」(人民が餓死しようとも、穀物倉庫の扉は開けるな)と命令していた。

大躍進と大飢饉の四年間で、三八〇〇万近い人々が餓死あるいは過労死した。この数字は、ナンバー2の劉少奇によって確認されている。劉少奇は、大飢饉が終息する前の段階ですでに三〇〇〇万人が餓死したことをソ連大使ステパン・チェルボネンコに話している。

六一年にかけての死亡者数が過少報告されたためである。

これは二〇世紀最悪の飢饉、人類史上最悪の飢饉だった。毛沢東は計算ずくで何千万という人々を餓死や過労死へ追いやったのである。飢饉が最悪だった一九五八年から一九五九年にかけての二年間、穀物だけでも七〇〇万トン近くが輸出されている。これだけあれば、三八〇〇万人に一日あたり八四〇カロリー以上を与えることができる--生死を分ける数字だ。しかも、これは穀物だけの数字で、食肉、食用油、卵、その他大量に輸出された食料品は含まれていない。これらが輸出に回されず、人道主義的基準に従って分配されていたら、おそらく中国は一人の餓死者も出さずにすんだはずだ。

実際には、毛沢東はさらに多くの人間が死ぬことを計算に入れていた。大躍進のあいだ、毛沢東は意図的に大量殺人をおこなったわけではないが、結果的に大量の人間が死ぬことになってもかまわないと考えており、そのような事態が起こってもあまり驚かないように、と、幹部に伝えていた。大躍進運動の開始を決定した一九五八年五月の党大会において、毛沢東は、党が打ち出した方針の結果として人々が死ぬことを恐れてはいけない、むしろ歓迎すべきである、と演説した。「もし今日まで孔子が生き残っていたら、えらいことになるではないか?」「妻が死んだときに荘子が両足を投げ出し盆(酒器)を鼓して歌を歌ったのは、正しかった」「人が死んだときには慶祝会を開くべきである」「死は、まさに喜ぶべきことである……われわれは弁証法的思考を信じるわけだから、死を歓迎しないということはありえない」

この軽薄かつ悪魔的な「哲理」は、下々の農村幹部にまで伝達された。安徽省鳳陽県で餓死や過労死した人々の死体を見せられたある幹部は、「人が死ななければ、地球上に人があふれてしまう! 生きるも死ぬも世の常だ。この世に死なない人間などいるかね?」と、毛沢東の言葉をほぼそのまま口にしたという。ある地区では喪服を着ることも禁止され、涙を流すことさえ禁止された--毛沢東が死は祝うべきことだと言ったからである。

毛沢東は大量死に実用的な利点まで見出した。一九五八年一二月九日、毛沢東は最高幹部に対して、「死はけっこうなことだ。土地が肥える」と発言している。この理屈に従って、農民は死人を埋葬した上に作物を植えるよう命じられた。これは農民に大きな精神的苦痛をもたらした。

最近になってようやく、毛沢東がどれほど多くの人命を失ってもかまわないと考えていたかを確実に知ることができるようになった。一九五七年にモスクワを訪問した際に、毛沢東は、「われわれは世界革命に勝利するために三億の中国人を犠牲にする用意がある」と言った。当時の中国の全人口の半分である。一九五八年五月一七日の党大会でも、毛沢東は次のように発言している。「世界大戦だといって大騒ぎすることはない。せいぜい、人が死ぬだけだ……人口の半分が殲滅される--この程度のことは、中国の歴史では何度も起こっている……人口の半分が残れば最善であり、三分の一が残れば次善である……」

しかも、毛沢東は戦時の犠牲者だけを対象にしていたわけではない。一九五八年一一月二一日、幹部との会話で濯漑工事や製「鉄」などの労働集約事業に言及した際に、農民が栄養不足の状態で苛酷な労働を強いられていることを暗黙に、ほとんど無頓着とも呼べるような態度で受け止めたうえで、毛沢東は、「これだけの事業を抱えて、こういう働き方をさせれば、中国人の半分が死んでもおかしくない。半分ではないにしても、三分の一、あるいは一〇分の一--五〇〇〇万--は死ぬ」と述べた。こうした発言があまりにショツキングに聞こえることを知っていた毛沢東は、自分の責任を回避しようとした。「五〇〇〇万人も死なせれば、わたしは解任されかねない。あるいは命を失うか……だが、きみたちがどうしてもと言うならば、やっていいと言うしかない。ならば、人が死んでもわたしのせいにするなよ」

朝鮮戦争をしゃぶりつくす 一九五〇~五三年 毛沢東五六~五九歳

2016年09月05日 | 4.歴史
『真説 毛沢東 下』より

一九五〇年一〇月に中国軍が参戦したとき、北朝鮮軍は敗走中だった。それから二ヵ月後、毛沢東の志願軍は国連軍を北朝鮮から追い払い、金日成の独裁を復活させた。金日成はもはや軍事的統帥力を失い、消耗しきった七万五〇〇〇の朝鮮人民軍は毛沢東が朝鮮に派遣した四五万の中国人民志願軍に六対一で圧倒されていた。中国軍が北の首都ピョンヤンを奪還した翌一二月七日、金日成は軍事指揮を中国側に譲った。志願軍総司令彭徳懐は毛沢東に電報を打ち、金日成が「今後は軍事指揮に直接関与しない……ことに同意した」と報告している。彭徳懐は中朝連合指揮部の総司令となった。毛沢東は金日成の戦争を引き取ったのである。

彭徳懐は南北朝鮮の国境である三八度線の北側で進軍を止めたいと提案したが、毛沢東はその提案を拒絶した。彭徳懐は、現状では補給線が長くなりすぎており、アメリカ軍の空爆にもさらされて危険な状態である、「わが軍は食糧、弾薬、靴、油、塩などの補給を受けることができない……最大の問題は空軍の掩護がなく、確実な鉄道輸送もないことだ。修理するたびにすぐ爆撃される……」と、進軍中止を要求した。それでも、毛沢東は南攻を命じた。スターリンから最大限の援助を引き出すまでは戦いを止めない決意だった。「三八度線を越えて進撃せよ」と、毛沢東は一二月一三日付で彭徳懐に命令している。一九五一年一月初旬、志願軍は韓国の首都ソウルを攻略し、三八度線から南ヘ一○○キロの地点まで到達した。

中国軍の勝利は、スターリンに対する毛沢東の立場をおおいに強めた。スターリンは毛沢東に熱烈な祝辞を送った。これはきわめて異例で、毛沢東が国共内戦に勝利したときさえなかったことだ。スターリンは中国が「アメリカ軍に対して」勝利したことをとりわけ高く評価した。

毛沢東はアメリカ合衆国に甚大な心理的打撃を与えた。一九五〇年一二月一五日、トルーマンはラジオで国家非常事態宣言を発表した。第二次世界大戦やベトナム戦争の際にも、このような宣言が出されたことはなかった。この世の終わりを告げるかのような口調で、トルーマン大統領はアメリカ国民に、「われわれの故郷、われわれの国家が……大いなる危険にさらされている」と呼びかけた。このとき、気温零下で寒風吹きすさぶ苛酷な条件のもと、中国軍はアメリカ軍をわずか数週間で二〇〇キロも後退させていた。ディーン・アチソン国務長官は、この形勢逆転を最近一〇〇年におけるアメリカ軍の「最悪の敗北」と呼んだ。

中国軍も、勝利したとはいえ、おそろしい数にのぼる犠牲を出していた。一二月一九日、彭徳懐は毛沢東に次のように報告している。

 気温は零下三〇度まで下がった。兵隊は消耗がひどく、足が凍傷にかかって歩けず、露営を余儀なくされ……大多数の兵隊は外套も厚手の靴も支給されず、綿入れの上着や毛布はナパーム弾で焼かれてしまった。多くの兵隊がいまだに薄手の綿布製の靴をはき、なかには裸足の者さえいる……。

「想像を絶する数の死者が出るおそれがあります」と、彭徳懐は警告している。志願軍の兵站責任者が一九五一年一月二日にソ連側に語ったところによると、寒さのために全員が死亡した部隊も多数あったという。栄養失調から多くの「志願兵」が夜盲症になった。この報告を受けた司令部からの回答は、松の葉を集めてスープを作れ、生きたオタマジャクシを食べてビタミンとたんぱく質を補給せよ、というものだった。

中国軍は唯一の強みである数の利を活かして、「人海戦術」で戦った。イギリス人俳優マイケル・ケインは朝鮮戦争に徴兵された経験があり、著者のインタビューに答えて、自分自身も貧困家庭の出身だったので朝鮮戦争に出征するまでは共産主義に共感を抱いていた、と述べた。しかし、戦場での経験から、ケインは共産主義に対して永久に消えない嫌悪を抱くようになった。中国兵は西側の弾薬が尽きるまで次から次へと波のように押し寄せてきたという。それを見て、ケインの頭に抜き難い不信が生じた。自国民の生命をなんとも思わない政権に、どうしてぼくへの配慮など期待できようか、と。

中国軍の進軍は、まもなく食い止められた。一九五一年一月二五日に国連軍が反撃を始めると、戦況は一変した。中国側の犠牲者は莫大な数にのぼった。二月二一日、彭徳懐は「重大な難局」と「大量の不必要な犠牲」について毛沢東に直接会って話をするため北京に戻った。彭徳懐は空港から大急ぎで中南海に向かったが、着いてみると、毛沢東は玉泉山の掩蔽壕に隠れているという。玉泉山に着くと、毛沢東は昼寝の最中だという。しかし、彭徳懐は衛士を押しのけて毛沢東の寝室に踏み込んだ(ほとんど大逆罪に等しい行為である)。毛沢東は彭徳懐に喋らせたあと、彭徳懐の懸念を一蹴して、戦争は長引くものと覚悟せよ、「急いで勝利を得ようとするな」と答えた。

三月一日、毛沢東は「全体戦略」の概要についてスターリンに電報を打った。電文は「敵は朝鮮を離れる前に大量の殲滅を免れないであろう……」という書き出しで始まり、中国側の計画は無尽蔵の人的資源を使ってアメリカ軍を疲弊させることだ、と説明している。毛沢東は中国軍がすでに「一〇万人以上の戦死者を出し……今年と来年でさらに三〇万の戦死者が出るものと予想される」と報告し(事実そのとおりだった)、一二万の部隊を派遣してこの損害を補充し、さらに将来の損害に備えて三〇万の兵士を派遣する予定である、「要するに」中国側は「長期戦に備える構えであり、数年かけて数十万のアメリカ兵を殲滅し、撤退に追い込む……」と説明している。毛沢東はスターリンに対して、中国にはアメリカを痛めつける力が十分にあるものの、一流の軍と軍事産業を建設するにはスターリンの援助がぜひとも必要だ、と重ねて強調した。

毛沢東は、中国が朝鮮戦争に参戦した一九五〇年一〇月の時点から、この大目標に向かって動いていた。一〇月にはすでに中国海軍の責任者がソ連へ派遣され、海軍建設に対する援助を要請している。これに続いて、一二月にはトップレベルの空軍使節団が派遣され、かなりの成果をおさめた。一九五一年二月一九日、モスクワは中国国内に航空機の修理整備工場を建設する件について合意案を承認した。損害を受けた航空機が多く、戦域に高度な修理施設が必要だったのである。これらの修理施設をいずれ航空機の生産施設に転用する、というのが中国側の計画だった。中国は非常に貧しい国であるにもかかわらず、朝鮮戦争終結時には空軍は世界第三位の規模となり、最新鋭のミグ戦闘機を含む三〇〇〇機の航空機を持つまでになっていた。工場が次々に建設され、年間三六〇〇機の戦闘機を生産できる体制が三年ないし五年後には整うだろうと予測された(楽観的すぎる予測であったことが、のちに明らかになった)。爆撃機の製造さえ検討されはじめていた。

朝鮮戦争を始めた理由 一九四九~五〇年 毛沢東五五~五六歳

2016年09月05日 | 4.歴史
『真説 毛沢東 下』より

毛沢東自身も、これらの問題に関して眠れぬ日々を過ごしていた。今後さらに大きな野望を達成するための基盤となる国土を焼け野原にしてしまうわけにはいかないからだ。しかし、毛沢東は、アメリカが中国本土まで戦争を拡大することはないだろう、と踏んでいた。中国の都市や産業基盤がアメリカに爆撃されそうになればソ連空軍が守ってくれるだろう、とも考えていた。原子爆弾については、トルーマンがすでに日本に二発の原爆を落としていることもあり、アメリカは国際世論に配慮して中国には原爆を落とさないだろう、と読んでいた。ただし、毛自身は用心のため、朝鮮戦争のほぼ全期間を通じて北京郊外の玉泉山にある軍の最高機密施設(もちろん防空壕完備)に身を隠していた。

毛沢東には、自分がアメリカに負けるはずがない、という確信があった。中国には何百万もの兵隊を使い捨てにできるという基本的な強みがあるからだ。ちょうど厄介払いしたいと思っている部隊もあった--朝鮮戦争は、国民党部隊の敗残兵を戦場に送って始末する恰好の機会になるだろう。彼らは内戦末期に部隊ごとまとまって投降してきた国民党軍兵士で、毛沢東は意図的に彼らを朝鮮の戦場に送り込んだ。万が一国連軍が始末をつけてくれなかった場合に備えて、後方には特別の処刑部隊が待機して戦線から逃げもどってきた兵士たちを始末することになっていた。

兵隊の使い捨て競争になればアメリカがとても中国には太刀打ちできないことを、毛沢東は知っていた。そして、これにすべてをかけるつもりだった。中国兵をアメリカ兵と戦わせるという選択を措いて、世界屈指の軍事大国を作るために必要な援助をスターリンから引き出す方法はなかった。

一〇月二日、毛沢東は「中国軍を朝鮮に派遣する」ことを確約するスターリンあての電文を自ら起草した。しかし、そこで毛沢東は考え直したらしい。それまで、参戦に逸るあまり、毛沢東は中国側の問題点についてひとつもスターリンに言及していなかった。そうした問題点を強調すれば、参戦の値段を吊り上げることができるかもしれない--そう考えた毛沢東は、中国軍出動決定の電報を発信せず、かわりに、中国の参戦は「きわめて深刻な結果を招来する可能性があり……多数の同志が……慎重な態度が必要であるという判断……したがって、むしろ……派兵は暫時差し控え……」という、当初とはまるで異なる内容の電報を送った。ただし、毛沢東は参戦の可能性を残して、「まだ最終決定には至っておらず」「貴台と相談させていただきたい」と結んでいる。

同時に、毛沢東は参戦に備えてアメリカに「警告」を送るジェスチャーを見せた。一〇月三日深更、周恩来をインド大使館に向かわせて就寝中の大使を起こし、アメリカ軍が三八度線を越えた場合には「われわれは介入するつもりだ」と伝える、という手の込んだ芝居を打ったのである。公式声明を出せば簡単に事が済むものを、わざわざ西側諸国にほとんど信用のないインド大使を利用するという回りくどい方法をとったのは、「警告」が無視されることを望んでいたからとしか考えられない。こうしておけば、毛沢東としては、自衛のために朝鮮に出兵したという言い訳が成り立つわけだ。

一〇月五日にはすでに国連軍は北に攻め込む勢いで、スターリンはいらだちはじめた。その日、スターリンは毛沢東が参戦を見合わせるかもしれないと伝えた二日付の電報に返電し、以前に参戦を確約したことを忘れるな、と、毛沢東に釘をさした。

 五ないし六師団の中国人志願軍を派遣する件に関して、貴殿をあてにしてよいものと考えている。中国指導部同志諸君[つまり貴殿]から朝鮮の同志を支援するために軍を動かす用意があるという発言をたびたび聞いたものと承知している……

スターリンは、「消極的な傍観政策」では中国は台湾も失うことになるだろう、と、毛沢東を脅した。それまで、毛沢東はスターリンに空軍と海軍の建設支援を要請する理由として台湾を挙げており、それに対してスターリンは、朝鮮参戦を渋れば台湾も空軍も海軍も手に入らないぞ、と脅したのである。

毛沢東は本心から参戦を取りやめるつもりはなく、駆け引きをしただけだった。スターリンからの電報を受け取るより前に、毛沢束はすでに彭徳懐を志願軍総司令に任命し、独自のスケジュールで動いていた。一〇月八日、毛沢東は朝鮮へ派遣する部隊を「中国人民志願軍」と改称し、金日成にあてて、「われわれは貴国を支援するため朝鮮に志願軍を派遣することを決定した」と打電した。一方で、毛沢東は周恩来と林彪を武器援助の件でスターリンのもとへ派遣した。途中、林彪は毛沢東に長文の電報を送り、参戦を取りやめるよう重ねて強く主張した。毛沢東が参戦にこれほど強硬に反対している林彪をスターリンのもとへ派遣した理由は、中国が直面している軍事的困難をスターリンに印象づけて最大限の援助を引き出すためだった。

周恩来と林彪は一〇月一〇日に黒海沿岸にあるスターリンの別荘に到着し、そのまま朝の五時まで話し合った。スターリンは「飛行機、大砲、戦車、その他の軍事装備」の供与を約束した。周恩来は値段の交渉さえしなかった。ところが、スターリンは突然、最も肝心な要求、すなわち中国軍に対する上空からの掩護を断ってきた。スターリンはこの件について、七月一三日の時点で、「空軍一個師団、ジェット戦闘機一二四機で[中国]軍を空中掩護する」と、支援を約束していた。にもかかわらず、ソ連空軍の準備ができるのは二カ月先になる、と言いだしたのである。空軍の掩護がなければ、中国軍は無防備なカモに等しい。周恩来と林彪は、ソ連空軍による掩護は絶対に必要だ、と主張した。話し合いは行き詰まり、スターリンは毛沢東に対して、中国は参戦しなくてよい、という電報を打った。

スターリンは毛沢東の態度をはったりと見て、「もういい!」(毛沢東が後年使った表現)と、怒ってみせたのである。毛沢東はただちに折れて、「ソ連空軍の掩護があろうとなかろうと、われわれは参戦する」と、スターリンに連絡した。毛沢東には、この戦争が必要だったのだ。毛沢東は一〇月一三日付で周恩来にあてて、「われわれは参戦すべきである。参戦しなくてはならない……」と打電した。この電報を受け取った周恩来は、両手で頭を抱えて考え込んでしまった。同じ日、毛沢東はソ連大使に中国の参戦を告げ、ソ連空軍による掩護が「できるだけ早く、遅くとも二カ月以内には」可能になることを「希望する」と伝えた。まさにスターリンの言いなりだった。

こうして、スターリンと毛沢東という共産主義独裁者の世界的野望に金日成の地域的野望が加わって、一九五〇年一〇月一九日、中国は朝鮮戦争の地獄に放り込まれたのであった。

図書館は分化と統合の場

2016年09月04日 | 6.本
図書館は分化と統合の場

 「記憶を還元する」という図書館の定義は成長しない限りは意味が無い。もうひとつは部分と全体の関係。

 これは分化と統合という動きとつながるものがあります。個の分化をうけるところと統合することで毎回、全体を変えていく。あくまでも部分だけではなく、全体があること。

 部分と全体の関係はよく言われているけど、実際の行動を起こすためのシナリオができていない。できているのはトポロジーだけです。図書館というものの定義があるけど、図書館そのものが有限から無限に変わっていく。

 市民とのつながり、分化と統合が多くなっていく。もうひとつ大きいのは成長すると言うこと。変わっていくだけでなく、成長していく。成長ということは方向が重要。方向を誰が示すのか。

沖縄の高校生が『図書館戦争』を読んだら

2016年09月04日 | 6.本
『図書館ノート』より

私が勤務する私立大学の入試制度では、AO入試は一〇月上旬に、推薦入試もて一月上旬に合格者が早々と決まってしまう。一〇〇名にものぼる合格者のなかには、入学が決まった安堵感からか、学校での授業に集中できなかったり、喫煙や飲酒などの事件を起こすこともあるらしく、高校側から「気持ちが浮つかないように大学から何か課題を与えてほしい」という要望もあって、「入学前課題」というものを合格者に課すことになっている。私が所属する学科では課題図書の感想文を課しており、専門領域ごとに一冊ずつ合計三冊を選んだうえで、四〇〇字詰め原稿用紙八枚以上にまとめて提出するように指示している。

合格者が選択できる領域は「近現代文学分野」「古典文学・文化分野」「琉球文化分野」「日本語・国語教育分野」「人文情報分野」の五つである。「人文情報分野」は私が担当することになっているため、司書になりたいという合格者にぜひ読んでほしい本として、『図書館戦争』(有川浩著 メディアワークス ニ○○六)を課題図書の一冊に挙げている。。

課題図書は全領域を合わせると一六冊あるのだが、そこから『図書館戦争』を選んだ合格者は今年度も四三人と圧倒的に多い。私自身も大好きな作品だが、司書志望以外の学生も本書を選んでおり、あらためて『図書館戦争』が高校生にとって、とても魅力的なコンテンツなのだということがよくわかる。

この課題のもともとの目的は「合格後も勉強する習慣をなくさないように」という消極的なものであったため、提出された感想文の出来不出来の評価はせずに、ネットからのコピー&ペーストではないかを取りまとめ役の教員が調べる程度で、課題図書を選定した教員のところに作文が届くことはなかった。ただ、三年前からは私が学科長として合格者の対応を引き受けていることもあって、専門領域の作文には時間を見つけて目を通すようにしている。いざ読んでみると、新鮮な発見や興味深い指摘もあって、はっとさせられることも少なくない。

上の表は今年度の合格者による『図書館戦争』の感想文が取りあげた題材やテーマを大きく分けたものである。

前年度までの傾向としては、登場人物の人間関係や恋愛模様に着目したものが多くを占めていたのだが、今年は本書のメインテーマである「表現規制問題」について正面から向き合ったものが増えている。ただし、このテーマを「図書館」と関連づけて書いた感想文はむしろ減っていて、作中の「四、図書館はすべての不当な検閲に反対する」

この章では、「高校生連続通り魔事件」が起こった後に、「考える会」の介入により、学校図書館の「エンタメ系の本が大量に処分」されたことに不満をもった中学生二名が「考える会」の列にロケット花火を投げ込むエピソードが描かれている。多くの合格者はこの中学生の行動を共感的にとらえているのだが、これは感想文を書く時期にちょうど「東京都青少年条例」の改定問題(二○一〇年)がマスコミで騒がれていたことが影響しているのだろう。感想文のなかには条例の問題点を詳しく調べて書いたものもあり、表現規制・マンガ規制という現実の問題が高校生の日常生活と重なり、本書のテーマに対する理解がいつも以上に深まっているようすがうかがえるのである。

また今年の感想文では、規制を求める側と規制に反対する側のそれぞれの意見を取り上げて、「正論のぶつかり合い」「考えれば考えるほど難しい」として、いったん判断を保留するものがあったのも特徴的である。これまでは「表現規制には反対」という作品のテーマに沿った感想しかなかったことと比べると、「葛藤」が書かれている分、本書のテーマをより真剣に考えようとしている姿勢が現れているように思える。これも現実の問題が影響しているのだろう。

私が最も印象に残った感想文は、「図書館の自由に関する宣言」のなかの「図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る」という項目への違和感を書いたものであった。

この感想文を書いた高校生は、「この〈我々〉というのは作中では図書を守る立場にある『図書隊』の役割であるわけだが、現実の方となるといったい誰になるのだろうか?」と冒頭で投げかけている。そして、「真っ先に出てきたのは図書館で働く図書館員である。けれど、私は多くの図書館を知っているわけではけして無いのだが、図書館員というのは一つの図書館にそう大勢は居ないのではないかと思った。少人数では、〈あくまで自由を守る〉ことは難しそうである」と綴られている。そして、感想文の最後には「この〈我々〉の答えが一体何処にあるのか分からなかったが、私はその答えが『私を含めた図書館利用者=一市民』であれば良いと思った」とまとめられている。

「図書館の自由に関する宣言」は何度も読んでいるはずだが、この感想文を読むまで、「われわれ」という言葉が図書館員以外を指しているとは考えたこともなかった。確かに、「自由宣言」の副文を読み返してみると「われわれは、図書館の自由を守ることで共通の立場に立つ団体・機関・人びとと提携して、図書館の自由を守りぬく責任をもつ」と記されている。図書館員が連携する対象が挙げられているため、ここでの「われわれ」は「図書館員」を指していると考えるのが妥当である。しかし、そうした二元論的な解釈は自由宣言の主旨からすると無意味だろう。この合格者が言うように、「我々」のなかに「図書館員以外の一市民」が含まれるという解釈は間違いではないだろうし、東京都での条例改訂の動きをみると、積極的にそう解釈することふさわしい社会になりつつあるようにも感じてしまう。素朴な感想ではあるが、胸を突く鋭さが含まれているように思う。

私が課題図書として『図書館戦争』を挙げている第一の目的は、司書志望の合格者に対して、「図書館の自由」という理念があることを知ってほしいということにあるのだが、もう一つ隠れた意図があることもここで告白したい。合格者には、本土(沖縄県外の)出身者も毎年数人は含まれているが、九五%以上は地元の、つまり沖縄の高校生である。

以前、『図書館戦争』を評した専門家のコメントのなかに、「図書館の自由」と「戦闘」を結びつけることに対して「違和感」を表明したものがあった。私が勤務する沖縄国際大学は普天間基地と道路をはさんですぐの場所にあり、入学前から否応なしに戦争・平和という問題を考えなければならない環境にある。本書のメインテーマは「表現規制」や「図書館の自由」であるが、「戦闘、戦争」という素材を用いた作品を沖縄の高校生はどう読むのか、という興味が、私には密かにあったのである。

結論を先に言うと、「戦争」や「平和」というキーワードに結びつけて書かれた感想文はわずか二作しかなかった。一つは昨年の「尖閣諸島中国漁船衝突事件」と絡めて政府による情報規制が国民の知る自由を侵害することで、戦争という過ちをふたたびくり返してしまうのではないか、という問題提起、もう一つは「メディア良化法」のような政府による表現規制が進めば、普天間基地問題の国内外移設を求める「県民の怒り」も届かなくなってしまうのではないか、という不安を書いたものであった。

その一方で、男子生徒の感想文のなかには、作中に登場する武器や軍の組織などディテールに感嘆する感想文が三人から寄せられた。その内、一人は「図書館戦争というタイトルをみて、興味を持たない男子高校生はいないと思います」と書いている。こうした状況をどのようにとらえるべきなのだろうか。

小説の感想とは離れてしまうが、沖縄で図書館学を教えることにつながる大きなテーマが隠されているようにも思う。

ナチス「無駄なくせ闘争」の十ヵ条

2016年09月04日 | 4.歴史
『ナチスのキッチン』より ⇒ 総力戦のターゲットが家庭なんですね。キャッチフレーズは美しい! 実態はバレバレだけど。市民は常に裏の裏を読まないといけない。その為に「本」がある。

闘争の十ヵ条

 ところでショルツ=クリンクとバッケは、「無駄なくせ闘争」の開戦にあたりて、主婦に向けた十ヵ条の要望を発表する。ここには、ちようど「アイントップの日曜日」運動がそうであったように、台所を国家とダイレクトに結びつける表現が多い。それぞれの条文に、主婦の自尊心を刺激し、主婦を発奮させるようなレトリックが用いられているので、ひとつすつみていこう。

 一、「無駄なくせ闘争」は民族の価値ある財産を救う。食糧の自由に貢献する。

  第一次世界大戦時のイギリスの経済封鎖によって、ヨーロッパ大陸外からのドイツの食糧輸入が一切断たれた悲劇を繰り返さないため、いつ戦争が起こっても大丈夫なように国内の食糧を確保せよ、というニュアンスが「自由」という言葉に込められている。つまり、自由とは、イギリスからの自由であり、世界市場からの自由であり、逆説的にいえば、いつでも戦争を行なうことができる自由をも意味しているのである。

 二、勤勉な主婦であれば、食べものをけっして無駄にしない。

  主婦に「勤勉」であることを要求している。「無駄なくせ闘争」の女性政策の本質は、この「勤勉」にある。たとえば、当時はまだ高級品であった冷蔵庫を購入したり、食料保存庫を改良したりするには費用がかかる。そうではなく、主婦の自助努力によって一億五〇〇〇万ライヒスマルクの無駄を削りなさい、とシュルツ=クリンクおよびバッケは説いている。

 三、いつも、旬のもの、ドイツの土地で収穫したものを買え。

  現在の日本の文脈に即していえば、これは地産地消運動やエコロジー運動のさきがけであろう。ドイツ産の旬の食材を購入することで、たとえばドイツの気候では育たない地中海産の果物を購入するさいの輸送経費を省く、というねらいがここにはある。さらにいえば、ドイツの旬の野菜や果物を主婦があらためて知ることは、ドイツの自然や文化を知ることでもあり、主婦の国民化政策としても重要である。

 四、手塩にかけて育てられた農作物を購入する人は、それを適価で購入することによって、質の高いドイツの農業生産に貢献するのだ。

  これは、公定固定価格とは異なる値段で食料が売買される闇市への牽制であろう。ドイツ産の食料品をしかるべき価格で購入し、国内市場を掻き乱さないことは、主婦の重要な義務である。だが、ナチ時代、闇市の売り手も買い手も犯罪者とみなされたにもかかわらず、第一次世界大戦と同じように、それが全国いたるところに出現したことは見逃せない。

 五、必要以上に作物が生産され、台所、地下貯蔵庫、食料倉庫において食べものを傷みから守ることができる場合にかぎり、買いだめをせよ。

  食べものが不足しているからといって安易に買いだめをして、市場を混乱ぎせることを戒めている。計画的に理性をもって買い物をすることを要請しているのみならず、結果的には、一九三九年の開戦と同時に実施された戦時配給制の精神的な準備にもなった。また、食材を煮詰めて保存する手法は、さまざまな料理本や雑誌で紹介された。

 六、汝が買いだめしたものを、宿敵たち、つまり汚れ、暑さ、霜、害虫から、日夜防御せよ。

 七、出現したすべての有害生物と即座に、そして精力的に戦え。なぜなら、その有害生物から百万の破壊者が産まれるからだ。

  これは両者とも、バッケの演説と重なる。過激な表現であるが、のちに「清潔なる帝国」と呼ばれた第三帝国の過剰なまでの清潔志向、主婦の平凡な日常がしつは戦争であると思わせる比喩、敵への憎悪の創出の巧みさをみることができるだろう。これは、ユダヤ人を「寄生虫」と呼んで忌まわしさを増幅させるレトリックとそれほど遠くない。ナチス・ドイツを「清潔なる帝国」と呼んだのは、ハンス・ペーター・ブロイエルであり、それはそのまま彼の本のタイトルになっていて、ブロイエルはもっぱら性問題や人種主義についてのナチスの「清潔さ」を指摘している。だが、そればかりでなく、「無駄なくせ闘争」にみられるように、家庭の台所を清潔に保つことから、国家財政を運営するための無駄をとことん排除し、さらには人種の「純潔」を守るためにユダヤ人やスラブ人を排撃する暴力にいたるまで、もっと広義の清潔志向を考えなくてはならないだろう。そうしてはじめて、ナチス・ドイツを「清潔なる帝国」と呼ぶことができるのである。

 八、愛は食事によって表現できる。そのために、食事は丹誠込めて、十分な理解をもったうえで、調理せよ。

  前条までの好戦的な文句とはうってかわって、突然、ロマンティックな響きをもつ条項が現れる。この「愛」とは何か。ここで思い出されるのは、第2章で引用したエルナ・ホルンの「美味しい料理によって主婦は夫の愛を獲得する」という一節、あるいは第4章で引用したマジー・ハーンの表現、「夫の心への道は、胃袋を通っている。

  〔……〕愛だけでは配偶者の幸福の持続を保証することはできません」であろう。これらの言葉と同様に、第八条も、基本的に、家族愛の醸成の核に料理を据えている。

  だが、問題なのはそれだけではない。「無駄なくせ闘争」が国家プロジェクトである以上、それは民族愛であ79、国家への愛でもなければならない。だからこそ、この「愛」には修飾語が付されていない。こうした愛の連鎖も、すでに述べたように、新聞や雑誌をあまり読まない人びとをも巻き込む「食」というメディアの特色である。

 九、良き主婦は。食材の残りを目的に応じて再利用する。それによって家參に費やされる夕金を蓄えよ。

  食材の残りを、たとえば、農家なら畑の肥料に、都市の住人なら家庭菜園の肥料にすることで、リサイク片を奨励している。この試みにかんしては、次節で詳しく触れたい。

 一〇、無駄なくせ闘争は、ドイツ民族が作った収穫物への感謝なのだ。

  十ヵ条の最後は、こう締めくくられている。家の台所が、生産地と直接つながっていることを、この条項は想起させる。

 この十ヵ条は、主婦を挑発し、創意工夫をさせ、家事労働に緊張感をもたせる。女性を台所に閉じこめる、というよりは、台所から新しい社会を建設するというプラスのイメージを感じさせる演出なのである。この十戒は、冊子やビラなどに書かれ、主婦たちに配布されていった。

ナチスのキッチン ラジオによる台所の統制

2016年09月04日 | 3.社会
『ナチスのキッチン』より ⇒ いかにも、ドイツ的なアプローチ。日本の場合は、標語と町内会で統制していた。この統制を民族意識とかませた文献はあるのか? 当たり前すぎて、論文にもならない。この国の最大限の弱さであると思う。

女性への宣伝を担ったメディアは、雑誌、新聞、演説だけではない。ヴァイマル時代に世界を席捲したニューメディアでありたラジオも、「主婦のナチ化」に大きな貢献を果たしていく。ドイツでラジオの設置してある世帯の割介は、一九二五年にはわすか六・七パーセントにすぎなかったのが、一九三三年には四分の一にまで上昇する。ナチ時代に「民衆受信機」という名の安価なラジオ受信機の大量生産が軌道にのったことで、その割合はさらに上昇する。一九三九年にはドイツ(一九三七年の領土)の全世帯のうち、半数の世帯にラジオが設置され、一九四一年には六十五パーセントになった。

ヴァイマル時代からナチ時代までの農村におけるラジオの普及過程について研究したフローリアン・ツェブラは、ラジオが消費統制政策に重宝された事実を伝えている。たとえば、国営ラジオ局マンブタタ支局は、一九三四年四月から六月にかけて、週に一度、料理レシピを紹介した、という。しかも、その主菜の添え物は、地元の食材を使ったもので、アスパラガス、卵、カブ、ジャガイモがとくに強く勧められた。というのも、これらの作物を使用するキャンペーンの要請を地元の農政担当者から受けたからであった。

また、一九三四年十二月には、食糧農業省事務次官バッケの名前が付された通達によって、外国産と国産の価格を比べる情報をラジオで流すことと、さらに、ラジオで農民の優位性を強調することを避けるように、との指示が出された。これは、労働者が、安価な外国産の食料を購入したり、自分たちよりも農民のほうが政府に優遇されていると疑ったりすることを未然に防ぐためである。

もちろん、ナチスの女性団体も、ラジオを積極的に利用する。本書では実際にごのような家政関連番組が放送されたかを調査することはできなかったが、べルリン連邦文書館所蔵「国民経済=家庭経済」のファイルのなかに、ラジオ番組の提案が二十一ページにわたって記された書類を見つけたので、参考までにそれを紹介したい(以下、連邦文書館の引用には請求記号を付す)。

これは「一九三八年から一九三九年にかけての冬期のラジオ番組の提案」というもので、全国女性指導部の出版プロパガンダ部ラジオ専門チームが作った書類である。ここでは、たとえば、「家事--将来有望な職業を目指す女性のためのステップボード」という女子の家政教育にかんする番組、あるいは「しっかり立てた計画は、あなたの名アシスタント」という、母親が家事手伝い人や未婚者たちを指導するやり方を放送する番組がある。後者の番組のなかには、ラジオの男性レポーターが勤勉な主婦「シュミットさん」の家に訪問して、とくに洗濯の方法なくその指導ぶりを取材するものもあり、なかなか充実した内容である。

本書の関心からして興味深いのは、「家族の健康は正しい食事次第、国民経済の健康は主婦の経済観念次第」という番組である。ここでは、百年にわたって肉と脂肪に偏りつつある食の変化を反省し、それがリューマチや代謝疾患をもたらしていることを警告したうえで、当時めざましい発展を遂げていた栄養学の知識を用いることでその危機を乗り越えるための、心構えとレシピが紹介されている。

ドイツの代表的な食材であり、しかもヴィタミン豊富なジャガイモを有効に料理すること、食材が乏しい冬の「正しい」買いものの方法や、「正しい」食料保存方法、とくに霜から守るための方法、あるいはしばらく冷水に浸し、それによってデンプンが化学変化をおこして蓄積された糖分を溶かして流す、という霜にかかったジャガイモから甘みを消す方法などが語られている。

また、油脂のかわりに、ドイツ産のテンサイから精製できる砂糖の使用も奨励されている。砂糖は栄養学的にいっても、熱やエネルギーの素になるだけでなく、消化によく、他の食材にすばやく浸透する優れものである。甘い料理を食事のときに出してもいいし。果物の砂糖煮も冬には不可欠である。クリスマスには脂肪を少なくし。その代わりに砂糖を増やしたケーキを作る。パンは、国民の健康のために黒っぽいパンを、つまり、ライ麦パンや全粒粉のパンを食べるべきだ。タンパク質と脂質がふんだんに含まれている魚料理も、価値が高まりつつある、という。

なお、この時期、ドイツ婦人事業団では、「フォルクスヴァーゲン」ならぬ「フィッシュヴァーゲン」という宣伝車を都市や農村に走らせ、魚のキッチン・デモンストレーションを敢行していた。ある研究によれば、実際に、第二次四ヵ年計画の枠組みのなかで、一九三八年だけで約七八〇〇に及ぶコースの調理デモを行ない、一回につき平均十八人から二十人の参加者が訪れた、とされている。

ふたたびラジオ番組に戻れば、ニシンの煉製、コイ、カニなども推奨されている。ちなみに養鯉はヨーロッパの内陸部でさかんに行なわれて、海から遠い農村の貴重なタンパク源を供給してきたものである。さらに、反肉食も繰り返し訴えており、肉の代わりに、魚のみならす、ジャガイモや野菜を使った団子、粗挽きの粉、ひきわりの麦ノ豆類を野菜と一緒に混せてつくる焼き団子が勧めている。もちろん、アイントップの紹介コーナーもある。また、冬に不足しがちなヴィタミン源として、ヴィタミンBおよびCが豊富なキャベツ、とくにザウアークラウトも扱われている。

というように、このラジオ番組の提案書はきわめて具体的であり、この前年には少なからぬ提案が実現しているような印象を与えるのだが、全体としてみると、やはり、調理の基礎として栄養学用語が頻繁に用いられていることが際立っている。「ヴィタミン信仰」の篤さは相変わらすだし、脂肪より砂糖へという論調も、また肉食批判も、ほとんどその文脈で語られている。国民経済的視点をさりげなくいれることも忘れていない。

以上のような、進歩するメディア技術、存在感を増す栄養学、そして緊迫した食糧状況の相乗効果が、かつてなかったほどまでに台所に国家権力を浸透させる。国家権力といっても、それは暴力を伴わない。パンフレットの配布やヴォランティア活動のように自発性を喚起する、いわば「柔らかい権力」である。食品の購入から、保存、調理、残飯の分別にいたるまで、台所は政府の厳しい目にさらされた。こうして監視される台所と、そこで調理される食べものを通じて、ドイツ国民は、身体の外側からだけでなく内側からも戦争に適応可能な人間に変えられていく。

宣伝は、台所でも容易に聴くことができたに違いないラジオはもちろん、新聞、雑誌、演説によっても頭にすり込まれる。店の棚から、まな板を経て、胃のなかに収まる過程で繰り広げられる「食」というメディアを通じたこのような宣伝は、それが朝昼晩と一日三回も繰り返される習慣であり、心身の調子にもダイレクトに影響を与えるだけにいっそう根深く、またやっかいなのである。

女性は「第二の性」であり、「第一の性」である男性に奉仕すべきだ、というナチスの男性中心主義。だが、こうしたイデオロギーとはうらはらに、主婦たちは、台所という空間からさまざまな通路を通って外とつながっていく。具体的な事例を以下にみていこう。

消費社会のもたらす疎外と孤立

2016年09月03日 | 3.社会
『映画は社会学する』より 消費社会論

資本主義の帰結としての消費社会

 ボードリヤールは、消費社会における欲求が決して特定のモノヘの欲求ではなく、記号的な差異への欲求であると指摘し、そこに競争の要素が加わることで、差異の無限の連鎖が生まれることを論じた。差異への欲求にとらわれれば、その欲求は満たされることを知らず、あたかも中毒性のあるドラッグのように働く。ここで先の引用の繰り返しになるが、『ヘルタースケルター』における整形クリニックの院長の台詞を振り返ってみよう。

  「せっかくあんなに美しく幸せにして差し上げたのに。定期的な治療なしで安定した状態を保てると思うなんて傲慢よ。働けばいいだけでしょ。」

 興味深いことに原作コミックにも院長による同様の台詞があるのだが、そこでは最後の「働けばいいだけでしょ」の部分は書かれていない。この台詞の追加によって、手術にはお金がかかるということだけでなく、そのお金は「働く」=労働によって稼がれるということが意識化される。肉体の美しさを手に入れるために労働があたかも義務であるかのように強いられるのである。

 先述の通り、ガルブレイスが指摘したような「ゆたかな社会」においては、人びとが必要とするモノを消費するのではなく、何よりもまずモノが過剰に生産されるがゆえに その消費(者)が必要とされる。ボードリヤールは、消費が先にあって、その支払いのために貯蓄や計算が必要とされるクレジットを例に挙げて、われわれが「よき消費者」として訓練されているのだと論じる。このように、「生産と消費は、生産力とその統制の拡大再生産という唯一の同じ巨大な過程のことなのである」。しかし、その過程においては、過剰に生産されたモノの方が主となり、モノを生み出す労働やその主体であるはずの人間の方が従となる。つまり人間は疎外されてしまうのだ。

消費社会における人間の疎外:「スクラップ集団」

 こうした人間の疎外というテーマが前面に出ているのが、映画『スクラップ集団』(1968)である。元汲取屋の「ホース」(渥美清)、福祉事務所の元ケースワーカーの「ケース」(露口茂)、元公園の清掃人[ドリーム](小沢昭一)、そして安楽死の研究に没頭して医学界から追放された「ドクター」(三木のり平)。彼らは人間の活動が生み出すさまざまな「スクラップ」(ゴミや排泄物から、病人・失業者まで!)にかかわる仕事をしていたが、それぞれスクラップに執着しすぎるあまりに職を失ってしまい、日雇い労働者が集まる大阪の釜ケ崎に流れて来たのである。彼らは自らの境遇や「スクラップ」への愛を語り合うなかで意気投合し、やがて「ドクター」の提案でスクラップの回収をビジネスにしようという話になる。地道な廃品回収からスタートした彼らのビジネスは,ある日サーカス団の象の死体処理を引き受け、解体作業を公開したことで評判になり、軌道に乗ることになる。消費社会においては、商品の論理によって「すべてが見世物化される」のである。しかしこれで味をしめた「ドクター」は次第に事業欲にとりつかれていく。

  ドクター:「近頃わしは、ビルを見ても橋を見てもテレビ塔を見ても、皆なんでも叩き壊したくなるんだ。少しでも古びているものを見ると気がかりでならん。今にわしがな、指差しこれはスクラップだといえば、それが何であろうとスクラップだとみなされる時代が来るのだ。今にスクラップが、全ての法則の基になって、この世を支配していくのだ!]

  ケース:「そやけどな、商売繁盛さすためにスクラップでないものをスクラップにしてしまうということにわいは付いて行けんのや。そら再生やない、破壊や。一つの国が発展して行くために無理矢理戦争しかけるのと同じ理屈や。」

  ドクター:「戦争!? 戦争になればスクラップが増える。戦争大いに結構!」

 ボードリヤールは「消費社会が存在するためにはモノが必要である。もっと正確にいえば、モノの破壊が必要である。モノの「使用」はその緩慢な消耗を招くだけだが、急激な消耗において創造される価値ははるかに大きなものとなる」と論じているが、『スクラップ集団』の上述のくだりもまた、きわめて戯画的にではあるが、同時代に消費社会の矛盾を描いていたのである(ボードリヤールの「消費社会」の初版がフランスで出版されたのは1970年のことだが、この映画の公開は1968年である)。

 やがてこの矛盾に耐えられなくなった「ケース」は「ドクター」から離れ,「ホース」と「ドリーム」はそれぞれにスクラップのなかで命を落とす。「ドクター」はスクラップをあくまで商売のタネとしてみてそれに執着するのだが、他の三人はそれが人間の活動の産物であり、たとえ社会から不要なものとして排除されたとしても、むしろそれゆえに深くスクラップに共感し同一化している。このように、この映画は「ドクター」を風刺的に描き、もう一方で他の三人の姿を愚かしくも愛すべき人びととして描くことで、つまるところ、そうした人間(の活動の産物)をスクラップとしてしまう(疎外する)消費社会の非人間性を痛烈に批判しているのである。

孤立する消費者たち:『スワロウテイル』

 『スワロウテイル』(1996)は、「『円』が世界で一番強かった時代」の架空の日本を舞台とした映画作品である。娼婦だった母を亡くして知り合いをたらい回しにされた少女(伊藤歩)は、歌手を夢見て「円都」にやって来た「円盗」(違法滞在をする外国人)のグリコ(CHARA)にアゲハと名づけられ、その恋人・フェイホン(三上博史)の経営するなんでも屋「青空」で働くことになる。彼らはスクラップをかき集めてそれを売って生活していたのだ。

 ある日彼らはひょんなことから一万円札の磁気データが入ったカセットテーゾを人手する。そこでフェイホンらは千円札を半分に切ってセロハンテープで一万円札の大きさにつなぎ、この磁気情報を印刷したものを両替機に入れることによって、大金を得ることに成功する。フェイホンはこのお金でグリコの夢を叶えてやろうとライブハウス「イェンタウンクラブ」をオープンさせ、グリコの歌はたちまち評判をよび、彼女は大スターとなる。

 ところが、フェイホンとグリコの関係を引き裂こうとしたレコード会社のマネージャーの策略で、フェイホンは密入国のかどで警察に逮捕されてしまう。フェイホンはなんとか街に戻ってくることができたが、グリコのために身を引いて、マネージャーから手切れ金を受け取る。これにバンドのメンバーは激怒し、「イェンタウンクラブ」は閉鎖に追い込まれてしまうのである。

 この作品に登場する「円盗」たちは、「円」を求めて日本にやって来て、「青空」に集う。しかしたまたま手に入れた(偽の)「円」がきっかけで、一時的な成功を収めることができたものの、次第にお互いに疎遠になり、最終的にはばらばらになってしまう。こうしたプロセスは、貨幣が人間に「統一」をもたらすと同時に「距離化」ももたらすとしたG.ジンメルの議論を想起させる。

 さらに物語の終盤では、アゲハが仲間たちと過ごした日々を取り戻すために店の権利を取り戻そうとするのだが、データを追っていた暴力団の手下から彼女らを助けようと再び偽札を使ったフェイホンは運悪く逮捕されてしまい、留置所での拷問によって帰らぬ人となってしまう。そしてフェイホンの遺体を荼毘に付したグリコとアゲハは、結局手に入れた大金もすべて燃やして灰にしてしまうのである。

 ここでは「貨幣」そのものが消費の対象となっている。しかもその価値は、セロハンテープでつなぎ合わせた偽札という稚拙な「記号」によって簡単に置き換えられてしまう。そうした貨幣の「記号」によってあがなわれた彼らの夢や関係性も、最後にはあえなく消えてなくなってしまうのである。「消費者たるかぎりでは、ひとは再び孤立し、バラバラに細胞化し、せいぜい互いに無関心な群集となるだけである」。


ユダヤ教というカタチにならないものの強さ

2016年09月03日 | 1.私
『生きるユダヤ教』より ⇒ 国民国家の後は「国境のない世界」。その時にユダヤ教から学ぶものが多い。コミュニティ型のムスリムと共に。

ユダヤ教について学ぶ意義

 要するに、日本におけるユダヤ教の認知は断片的であり、偏りがある。日々のニュースの中で、特にイスラエルとアラブ諸国との対立として報道される中東問題のニュースの中で、そして、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害問題を通して、「ユダヤ人」という言葉をしばしば耳にする。しかし、その実ユダヤ人がどんな人々なのか、彼らが、なぜ「ユダヤ人」という括りにされるのか、そして、彼らが何をどのように信じているのかの理解は進んでいない。また、どちらかというと、上記のような日本でのマスーメディアで挙げられる「ユダヤ人」像は、「かわいそう」であり、中東問題でスポットを浴びる際のユダヤ人の国家としてのイスラエルは、「ひどい」というイメージを喚起する。いずれにせよ、マイナスイメージが先行する。同時に、いつの間にか、ユダヤ企業の製品は日本の中に浸透している。冒頭のショア(ホロコースト)フェアのように、市場の関心は絶えず移り行く。かわいそうなユダヤ教のイメージを残して立ち消えとなる。「ショア」という用語も定着しそうな頃にはフェアも終わってしまう。

 本書は、このような断片的な日本のユダヤ教理解に対して、ユダヤ教を紹介しながら、ユダヤ教の歴史と教えの中から、我々の日常の糧になるものを紹介しようとする書である。特に、古今の具体的なユダヤ教徒・ユダヤ人の生きた足跡を通して、また同時代の、あるいはその後のユダヤ教が彼らをどのように解釈したかを通して、ユダヤ教を理解することを目的とする。

 そもそも、ユダヤ人は空白の二千年間どこにいたのだろうか。紀元七〇年、それまでのユダヤ教の中心であったエルサレム第二神殿が時のローマ帝国によって滅ぼされ、ユダヤ人の自治国家は滅亡した。以来、一九四八年、紆余曲折を経てイスラエル国家が誕生するまで、ユダヤ人やユダヤ教を中心とする国家は存在しなかった。その間ユダヤ人は、中東、ヨーロッパのイスラーム圏やキリスト教圏の諸国に寄生しながら、生き延びてきたのである。さらに、アメリカ新大陸に多数移住した。同時に、南米、インド、中国、オーストラリアにまでも居住圏を拡大した。イスラエルとて、ユダヤ人だけの国家ではない。また、今なお、イスラエルにいるユダヤ人よりもイスラエル外にいるユダヤ人の方が、人数は多い。このように世界中に拡散する過程で、二千年の歴史の中で消滅し、伝説の宗教と化してしまっても何ら不思議はなかった。実際、そのような危機にも何度も直面してきた。しかし、そのたびに、ユダヤ教は逞しく立ち上がり、生き続けてきたのである。

 そのユダヤ人を支えたユダヤ教の教えや発想の仕方から、我々は多くのことを学ぶことができる。とかく、閉塞感の漂う世の中にある今の時代、閉塞的状況を生き延びてきたユダヤ人の軌跡、数々のピンチから立ち上がってきたその姿から、私たちもこの世知辛い世界を生きる力、ヒントを学ぶことができるのではないだろうか。ユダヤ教が大事にしていることは何か。それは、社会の中で、今この世の中で生きていくことである。だからこそ、ユダヤ教徒は二千年の時を超えて、今なお生き続けているのである。生きることを中心において生き続けてきた、そしてさらに生き続けていく宗教である。その軌跡、生き方、考え方から大いに学ぶことができるのではないだろうか。

カタチにならないものの強さ

 著者ら自身、ユダヤ教の信者でもない。それなのにユダヤ教文献世界に惹きつけられてきたのはなぜか。著者らは特に、ラビ・ユダヤ教文献を専門とする。彼らの書物には実に無駄が多い。本質から外れたような紆余曲折的な議論の応酬であったりする。あるいは、聖書の実に細かい部分に拘泥していたりする。しかし、そのような無駄な議論の中に、何気なくきらりと輝く一言が紛れていたりする。ユダヤ教には文献しかなかった。聖書とそこに書かれた言葉しか残すことのできなかったユダヤ教にとって、言葉は神からの贈り物だ。だからこそ、拘わるのだ。そして一字一句に拘わり、いわゆる本質や中心や主題からずれたところまでにも神の意図を探ろうとする。

 そして、考えてみれば、神殿というものを失くして以来、ユダヤ教に残されてきたのはこの本、言葉たちだけである。ラビ・ユダヤ教は、口伝トーラーというシステムを全面に押し出してきて以来、こうした解釈の伝統を全て口伝できるように記憶に叩き込むことにした。そして、世代から世代へと伝えることにした。記憶されたものは、なんのカタチにもならない。しかし、カタチにならないからこそ、他者はそれを破壊することができなかったのではないか。政治的には支配を受けながらも、カタチにはならないからこそ、壊されることはなかったのではないか。そして、そのカタチにならないものを生み出すのが強靭な思考力であり、想像力であり、創造力である。そのカタチにならないものの力強さをユダヤ教文献の中に感じるからこそ、著者らは魅惑され続けてきたように思う。実際には、およそ宗教書らしからぬ、ありがたくもない、枝葉末節の字句に拘泥した議論が展開する。しかし、このような議論の集積が、カタチになるものを持てなかったユダヤ教が生き延びるエネルギーになったのである。

 こうした文献を読み込んでいくと、本質的なこと、役に立つこと、中心的なことと、そうではないこと--非本質的なこと、無用なこと、周縁的なことーなどという線引きが曖昧になってくる。何か重要で何か重要でないか、など我々には計り知れないものがあるのではないか。何か無駄で何か無駄でないかなど決められることではない。いや、無駄なものなど実はないのではないか、という気がしてくる。

 とかく、役に立つもの、カタチになるもの、効率的なもの、結果が出るものをよしとする昨今、カタチにならないもの、無駄なものは、切り捨てられてしまう。しかし、ユダヤ教が生き延びてきた軌跡から、無駄に見えるものが生み出す力強さを我々は学びとることができるのではないのだろうか。それをエネルギーに変えるのがユダヤ教の人間力ではないだろうか。

 著者らの足掛け十年にわたるイスラエル留学を通して体験した限られた世界ではあるが、二千年にわたって伝承されてきた文献の中に、苦難の歴史を潜り抜けてきた民の生きる知恵や珠玉の言葉、思いがけない考え方、発想に、心動かされ、勇気づけられてきたのである。ユダヤ教の中で、その文献の中で、人間が逞しく生きていく姿の中に、時空を超えて教えられる姿があるのではないだろうか。ユダヤ教を通して生きていくための「人間学」を目指したいと思う。

 このような性格上、本書の主張には必ずしも科学的、学術的ではない部分もあるかもしれない。ユダヤ教徒、ユダヤ人の辿ってきた軌跡の意義を評価する場合には、歴史的事実をさらに深読みすることで、その事実が果たした心理的、精神的意義が導き出される場合がある。それは、かならずしも科学的データで裏付けできない場合もある。しかし、生き方を学ぶという目的においては、それも必要なのではないだろうか。

 本書の構成であるが、第一章では、ユダヤ教とその歴史を概論する。第二章では、ユダヤ教のエッセンスであるシェマァ・イスラエルという日々ユダヤ教徒が口にする重要な祈りを考察する。第三章では、ユダヤ教徒の実生活を概観する。第四章は、ユダヤ教の代表的な人物伝であり、具体的な人物像の生き様、生涯の軌跡を通してユダヤ教の諸相を知る。第五書では、書物の民と称されるユダヤ教の様々なテクストを分析する。第六章では、ユダヤ教の中でもピユートという独特のテクストに焦点を当て、これまでの章で扱われてきたテーマや人物に関連するピユートを読んでみる。

 最近、ユダヤ教の概説書は確かに出版されてはいるが、実際のユダヤ教徒の生き様、そして、ユダヤ教の根幹にある様々なテクストを、ある程度の分量で読める書はなかったのではないだろうか。また、ユダヤ教の典礼詩ピユートについての解説書は日本では皆無である。ピユートは聖典や聖典解釈のユダヤ教におさまりきらないユダヤ教の生き生きとした姿を伝える文学ジャンルである。本書は、ユダヤ教徒の生きた様を通して、そして、今に生きるテクストを通して、ピユートに見られる生き生きとしたユダヤ教の姿を通して、生きる力を学ぶために執筆された書である。