『真説 毛沢東 下』より
毛沢東自身も、これらの問題に関して眠れぬ日々を過ごしていた。今後さらに大きな野望を達成するための基盤となる国土を焼け野原にしてしまうわけにはいかないからだ。しかし、毛沢東は、アメリカが中国本土まで戦争を拡大することはないだろう、と踏んでいた。中国の都市や産業基盤がアメリカに爆撃されそうになればソ連空軍が守ってくれるだろう、とも考えていた。原子爆弾については、トルーマンがすでに日本に二発の原爆を落としていることもあり、アメリカは国際世論に配慮して中国には原爆を落とさないだろう、と読んでいた。ただし、毛自身は用心のため、朝鮮戦争のほぼ全期間を通じて北京郊外の玉泉山にある軍の最高機密施設(もちろん防空壕完備)に身を隠していた。
毛沢東には、自分がアメリカに負けるはずがない、という確信があった。中国には何百万もの兵隊を使い捨てにできるという基本的な強みがあるからだ。ちょうど厄介払いしたいと思っている部隊もあった--朝鮮戦争は、国民党部隊の敗残兵を戦場に送って始末する恰好の機会になるだろう。彼らは内戦末期に部隊ごとまとまって投降してきた国民党軍兵士で、毛沢東は意図的に彼らを朝鮮の戦場に送り込んだ。万が一国連軍が始末をつけてくれなかった場合に備えて、後方には特別の処刑部隊が待機して戦線から逃げもどってきた兵士たちを始末することになっていた。
兵隊の使い捨て競争になればアメリカがとても中国には太刀打ちできないことを、毛沢東は知っていた。そして、これにすべてをかけるつもりだった。中国兵をアメリカ兵と戦わせるという選択を措いて、世界屈指の軍事大国を作るために必要な援助をスターリンから引き出す方法はなかった。
一〇月二日、毛沢東は「中国軍を朝鮮に派遣する」ことを確約するスターリンあての電文を自ら起草した。しかし、そこで毛沢東は考え直したらしい。それまで、参戦に逸るあまり、毛沢東は中国側の問題点についてひとつもスターリンに言及していなかった。そうした問題点を強調すれば、参戦の値段を吊り上げることができるかもしれない--そう考えた毛沢東は、中国軍出動決定の電報を発信せず、かわりに、中国の参戦は「きわめて深刻な結果を招来する可能性があり……多数の同志が……慎重な態度が必要であるという判断……したがって、むしろ……派兵は暫時差し控え……」という、当初とはまるで異なる内容の電報を送った。ただし、毛沢東は参戦の可能性を残して、「まだ最終決定には至っておらず」「貴台と相談させていただきたい」と結んでいる。
同時に、毛沢東は参戦に備えてアメリカに「警告」を送るジェスチャーを見せた。一〇月三日深更、周恩来をインド大使館に向かわせて就寝中の大使を起こし、アメリカ軍が三八度線を越えた場合には「われわれは介入するつもりだ」と伝える、という手の込んだ芝居を打ったのである。公式声明を出せば簡単に事が済むものを、わざわざ西側諸国にほとんど信用のないインド大使を利用するという回りくどい方法をとったのは、「警告」が無視されることを望んでいたからとしか考えられない。こうしておけば、毛沢東としては、自衛のために朝鮮に出兵したという言い訳が成り立つわけだ。
一〇月五日にはすでに国連軍は北に攻め込む勢いで、スターリンはいらだちはじめた。その日、スターリンは毛沢東が参戦を見合わせるかもしれないと伝えた二日付の電報に返電し、以前に参戦を確約したことを忘れるな、と、毛沢東に釘をさした。
五ないし六師団の中国人志願軍を派遣する件に関して、貴殿をあてにしてよいものと考えている。中国指導部同志諸君[つまり貴殿]から朝鮮の同志を支援するために軍を動かす用意があるという発言をたびたび聞いたものと承知している……
スターリンは、「消極的な傍観政策」では中国は台湾も失うことになるだろう、と、毛沢東を脅した。それまで、毛沢東はスターリンに空軍と海軍の建設支援を要請する理由として台湾を挙げており、それに対してスターリンは、朝鮮参戦を渋れば台湾も空軍も海軍も手に入らないぞ、と脅したのである。
毛沢東は本心から参戦を取りやめるつもりはなく、駆け引きをしただけだった。スターリンからの電報を受け取るより前に、毛沢束はすでに彭徳懐を志願軍総司令に任命し、独自のスケジュールで動いていた。一〇月八日、毛沢東は朝鮮へ派遣する部隊を「中国人民志願軍」と改称し、金日成にあてて、「われわれは貴国を支援するため朝鮮に志願軍を派遣することを決定した」と打電した。一方で、毛沢東は周恩来と林彪を武器援助の件でスターリンのもとへ派遣した。途中、林彪は毛沢東に長文の電報を送り、参戦を取りやめるよう重ねて強く主張した。毛沢東が参戦にこれほど強硬に反対している林彪をスターリンのもとへ派遣した理由は、中国が直面している軍事的困難をスターリンに印象づけて最大限の援助を引き出すためだった。
周恩来と林彪は一〇月一〇日に黒海沿岸にあるスターリンの別荘に到着し、そのまま朝の五時まで話し合った。スターリンは「飛行機、大砲、戦車、その他の軍事装備」の供与を約束した。周恩来は値段の交渉さえしなかった。ところが、スターリンは突然、最も肝心な要求、すなわち中国軍に対する上空からの掩護を断ってきた。スターリンはこの件について、七月一三日の時点で、「空軍一個師団、ジェット戦闘機一二四機で[中国]軍を空中掩護する」と、支援を約束していた。にもかかわらず、ソ連空軍の準備ができるのは二カ月先になる、と言いだしたのである。空軍の掩護がなければ、中国軍は無防備なカモに等しい。周恩来と林彪は、ソ連空軍による掩護は絶対に必要だ、と主張した。話し合いは行き詰まり、スターリンは毛沢東に対して、中国は参戦しなくてよい、という電報を打った。
スターリンは毛沢東の態度をはったりと見て、「もういい!」(毛沢東が後年使った表現)と、怒ってみせたのである。毛沢東はただちに折れて、「ソ連空軍の掩護があろうとなかろうと、われわれは参戦する」と、スターリンに連絡した。毛沢東には、この戦争が必要だったのだ。毛沢東は一〇月一三日付で周恩来にあてて、「われわれは参戦すべきである。参戦しなくてはならない……」と打電した。この電報を受け取った周恩来は、両手で頭を抱えて考え込んでしまった。同じ日、毛沢東はソ連大使に中国の参戦を告げ、ソ連空軍による掩護が「できるだけ早く、遅くとも二カ月以内には」可能になることを「希望する」と伝えた。まさにスターリンの言いなりだった。
こうして、スターリンと毛沢東という共産主義独裁者の世界的野望に金日成の地域的野望が加わって、一九五〇年一〇月一九日、中国は朝鮮戦争の地獄に放り込まれたのであった。
毛沢東自身も、これらの問題に関して眠れぬ日々を過ごしていた。今後さらに大きな野望を達成するための基盤となる国土を焼け野原にしてしまうわけにはいかないからだ。しかし、毛沢東は、アメリカが中国本土まで戦争を拡大することはないだろう、と踏んでいた。中国の都市や産業基盤がアメリカに爆撃されそうになればソ連空軍が守ってくれるだろう、とも考えていた。原子爆弾については、トルーマンがすでに日本に二発の原爆を落としていることもあり、アメリカは国際世論に配慮して中国には原爆を落とさないだろう、と読んでいた。ただし、毛自身は用心のため、朝鮮戦争のほぼ全期間を通じて北京郊外の玉泉山にある軍の最高機密施設(もちろん防空壕完備)に身を隠していた。
毛沢東には、自分がアメリカに負けるはずがない、という確信があった。中国には何百万もの兵隊を使い捨てにできるという基本的な強みがあるからだ。ちょうど厄介払いしたいと思っている部隊もあった--朝鮮戦争は、国民党部隊の敗残兵を戦場に送って始末する恰好の機会になるだろう。彼らは内戦末期に部隊ごとまとまって投降してきた国民党軍兵士で、毛沢東は意図的に彼らを朝鮮の戦場に送り込んだ。万が一国連軍が始末をつけてくれなかった場合に備えて、後方には特別の処刑部隊が待機して戦線から逃げもどってきた兵士たちを始末することになっていた。
兵隊の使い捨て競争になればアメリカがとても中国には太刀打ちできないことを、毛沢東は知っていた。そして、これにすべてをかけるつもりだった。中国兵をアメリカ兵と戦わせるという選択を措いて、世界屈指の軍事大国を作るために必要な援助をスターリンから引き出す方法はなかった。
一〇月二日、毛沢東は「中国軍を朝鮮に派遣する」ことを確約するスターリンあての電文を自ら起草した。しかし、そこで毛沢東は考え直したらしい。それまで、参戦に逸るあまり、毛沢東は中国側の問題点についてひとつもスターリンに言及していなかった。そうした問題点を強調すれば、参戦の値段を吊り上げることができるかもしれない--そう考えた毛沢東は、中国軍出動決定の電報を発信せず、かわりに、中国の参戦は「きわめて深刻な結果を招来する可能性があり……多数の同志が……慎重な態度が必要であるという判断……したがって、むしろ……派兵は暫時差し控え……」という、当初とはまるで異なる内容の電報を送った。ただし、毛沢東は参戦の可能性を残して、「まだ最終決定には至っておらず」「貴台と相談させていただきたい」と結んでいる。
同時に、毛沢東は参戦に備えてアメリカに「警告」を送るジェスチャーを見せた。一〇月三日深更、周恩来をインド大使館に向かわせて就寝中の大使を起こし、アメリカ軍が三八度線を越えた場合には「われわれは介入するつもりだ」と伝える、という手の込んだ芝居を打ったのである。公式声明を出せば簡単に事が済むものを、わざわざ西側諸国にほとんど信用のないインド大使を利用するという回りくどい方法をとったのは、「警告」が無視されることを望んでいたからとしか考えられない。こうしておけば、毛沢東としては、自衛のために朝鮮に出兵したという言い訳が成り立つわけだ。
一〇月五日にはすでに国連軍は北に攻め込む勢いで、スターリンはいらだちはじめた。その日、スターリンは毛沢東が参戦を見合わせるかもしれないと伝えた二日付の電報に返電し、以前に参戦を確約したことを忘れるな、と、毛沢東に釘をさした。
五ないし六師団の中国人志願軍を派遣する件に関して、貴殿をあてにしてよいものと考えている。中国指導部同志諸君[つまり貴殿]から朝鮮の同志を支援するために軍を動かす用意があるという発言をたびたび聞いたものと承知している……
スターリンは、「消極的な傍観政策」では中国は台湾も失うことになるだろう、と、毛沢東を脅した。それまで、毛沢東はスターリンに空軍と海軍の建設支援を要請する理由として台湾を挙げており、それに対してスターリンは、朝鮮参戦を渋れば台湾も空軍も海軍も手に入らないぞ、と脅したのである。
毛沢東は本心から参戦を取りやめるつもりはなく、駆け引きをしただけだった。スターリンからの電報を受け取るより前に、毛沢束はすでに彭徳懐を志願軍総司令に任命し、独自のスケジュールで動いていた。一〇月八日、毛沢東は朝鮮へ派遣する部隊を「中国人民志願軍」と改称し、金日成にあてて、「われわれは貴国を支援するため朝鮮に志願軍を派遣することを決定した」と打電した。一方で、毛沢東は周恩来と林彪を武器援助の件でスターリンのもとへ派遣した。途中、林彪は毛沢東に長文の電報を送り、参戦を取りやめるよう重ねて強く主張した。毛沢東が参戦にこれほど強硬に反対している林彪をスターリンのもとへ派遣した理由は、中国が直面している軍事的困難をスターリンに印象づけて最大限の援助を引き出すためだった。
周恩来と林彪は一〇月一〇日に黒海沿岸にあるスターリンの別荘に到着し、そのまま朝の五時まで話し合った。スターリンは「飛行機、大砲、戦車、その他の軍事装備」の供与を約束した。周恩来は値段の交渉さえしなかった。ところが、スターリンは突然、最も肝心な要求、すなわち中国軍に対する上空からの掩護を断ってきた。スターリンはこの件について、七月一三日の時点で、「空軍一個師団、ジェット戦闘機一二四機で[中国]軍を空中掩護する」と、支援を約束していた。にもかかわらず、ソ連空軍の準備ができるのは二カ月先になる、と言いだしたのである。空軍の掩護がなければ、中国軍は無防備なカモに等しい。周恩来と林彪は、ソ連空軍による掩護は絶対に必要だ、と主張した。話し合いは行き詰まり、スターリンは毛沢東に対して、中国は参戦しなくてよい、という電報を打った。
スターリンは毛沢東の態度をはったりと見て、「もういい!」(毛沢東が後年使った表現)と、怒ってみせたのである。毛沢東はただちに折れて、「ソ連空軍の掩護があろうとなかろうと、われわれは参戦する」と、スターリンに連絡した。毛沢東には、この戦争が必要だったのだ。毛沢東は一〇月一三日付で周恩来にあてて、「われわれは参戦すべきである。参戦しなくてはならない……」と打電した。この電報を受け取った周恩来は、両手で頭を抱えて考え込んでしまった。同じ日、毛沢東はソ連大使に中国の参戦を告げ、ソ連空軍による掩護が「できるだけ早く、遅くとも二カ月以内には」可能になることを「希望する」と伝えた。まさにスターリンの言いなりだった。
こうして、スターリンと毛沢東という共産主義独裁者の世界的野望に金日成の地域的野望が加わって、一九五〇年一〇月一九日、中国は朝鮮戦争の地獄に放り込まれたのであった。
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