『真説 毛沢東 下』より
中国全土を襲った大飢饉は一九五八年に始まり、一九六一年まで続いた。最悪だった一九六〇年には、政府の公式統計でも、国民の平均カロリー摂取量は一日あたり一五三四・八(キロ)カロリーまで落ち込んでいる。きわめて毛沢東政権寄りの作家ハン・スーインでさえ、都市部の主婦の一日あたりカロリー摂取量は一九六〇年には最大で一二〇〇カロリーだった、と書いている。アウシュビッツ強制労働収容所の囚人は、一日あたりて二〇〇ないし一七〇〇カロリーの食事を与えられていた。それでも、一日に約一一時間の重労働をさせられる囚人の場合、配給以外の食糧を手に入れられない者は大半が数カ月以内に死亡している。
大飢饉のあいだ、人肉を食べた者もいた。毛沢東の死後に安徽省鳳陽県に関しておこなわれた研究(ただちに中止させられた)によると、一九六〇年の春だけで六三件の人肉食が記録されている。その中には、夫婦が八歳の息子を絞め殺して食べたケースもあった。しかも、おそらく鳳陽が最悪のケースではないはずだ。住民の三分の一が死亡した甘粛省のある県でも、人肉食が横行した。ある村の幹部で妻も姉も子供も飢饉でなくした人物は、のちにジャーナリストにこう語っている。「それは多くの村人たちが人肉を食べましたよ……あそこ、公社の事務室の外でしやがんで日向ぼっこをしている人たちが見えるでしょう?あの人たちの何人かは人肉を食べています……みんな、腹が減って頭がおかしくなってしまったのです」
こうした地獄絵の一方で、国の穀物倉庫には食糧がたっぷりあり、軍によって守られていた。なかには倉庫内でそのまま腐ってしまう食糧さえあった。ポーランドのある学生は、一九五九年の夏から秋にかけて中国東南で果物が「トン単位で腐っていく」のを目にしたという。それでも当局は、「餓死不開倉」(人民が餓死しようとも、穀物倉庫の扉は開けるな)と命令していた。
大躍進と大飢饉の四年間で、三八〇〇万近い人々が餓死あるいは過労死した。この数字は、ナンバー2の劉少奇によって確認されている。劉少奇は、大飢饉が終息する前の段階ですでに三〇〇〇万人が餓死したことをソ連大使ステパン・チェルボネンコに話している。
六一年にかけての死亡者数が過少報告されたためである。
これは二〇世紀最悪の飢饉、人類史上最悪の飢饉だった。毛沢東は計算ずくで何千万という人々を餓死や過労死へ追いやったのである。飢饉が最悪だった一九五八年から一九五九年にかけての二年間、穀物だけでも七〇〇万トン近くが輸出されている。これだけあれば、三八〇〇万人に一日あたり八四〇カロリー以上を与えることができる--生死を分ける数字だ。しかも、これは穀物だけの数字で、食肉、食用油、卵、その他大量に輸出された食料品は含まれていない。これらが輸出に回されず、人道主義的基準に従って分配されていたら、おそらく中国は一人の餓死者も出さずにすんだはずだ。
実際には、毛沢東はさらに多くの人間が死ぬことを計算に入れていた。大躍進のあいだ、毛沢東は意図的に大量殺人をおこなったわけではないが、結果的に大量の人間が死ぬことになってもかまわないと考えており、そのような事態が起こってもあまり驚かないように、と、幹部に伝えていた。大躍進運動の開始を決定した一九五八年五月の党大会において、毛沢東は、党が打ち出した方針の結果として人々が死ぬことを恐れてはいけない、むしろ歓迎すべきである、と演説した。「もし今日まで孔子が生き残っていたら、えらいことになるではないか?」「妻が死んだときに荘子が両足を投げ出し盆(酒器)を鼓して歌を歌ったのは、正しかった」「人が死んだときには慶祝会を開くべきである」「死は、まさに喜ぶべきことである……われわれは弁証法的思考を信じるわけだから、死を歓迎しないということはありえない」
この軽薄かつ悪魔的な「哲理」は、下々の農村幹部にまで伝達された。安徽省鳳陽県で餓死や過労死した人々の死体を見せられたある幹部は、「人が死ななければ、地球上に人があふれてしまう! 生きるも死ぬも世の常だ。この世に死なない人間などいるかね?」と、毛沢東の言葉をほぼそのまま口にしたという。ある地区では喪服を着ることも禁止され、涙を流すことさえ禁止された--毛沢東が死は祝うべきことだと言ったからである。
毛沢東は大量死に実用的な利点まで見出した。一九五八年一二月九日、毛沢東は最高幹部に対して、「死はけっこうなことだ。土地が肥える」と発言している。この理屈に従って、農民は死人を埋葬した上に作物を植えるよう命じられた。これは農民に大きな精神的苦痛をもたらした。
最近になってようやく、毛沢東がどれほど多くの人命を失ってもかまわないと考えていたかを確実に知ることができるようになった。一九五七年にモスクワを訪問した際に、毛沢東は、「われわれは世界革命に勝利するために三億の中国人を犠牲にする用意がある」と言った。当時の中国の全人口の半分である。一九五八年五月一七日の党大会でも、毛沢東は次のように発言している。「世界大戦だといって大騒ぎすることはない。せいぜい、人が死ぬだけだ……人口の半分が殲滅される--この程度のことは、中国の歴史では何度も起こっている……人口の半分が残れば最善であり、三分の一が残れば次善である……」
しかも、毛沢東は戦時の犠牲者だけを対象にしていたわけではない。一九五八年一一月二一日、幹部との会話で濯漑工事や製「鉄」などの労働集約事業に言及した際に、農民が栄養不足の状態で苛酷な労働を強いられていることを暗黙に、ほとんど無頓着とも呼べるような態度で受け止めたうえで、毛沢東は、「これだけの事業を抱えて、こういう働き方をさせれば、中国人の半分が死んでもおかしくない。半分ではないにしても、三分の一、あるいは一〇分の一--五〇〇〇万--は死ぬ」と述べた。こうした発言があまりにショツキングに聞こえることを知っていた毛沢東は、自分の責任を回避しようとした。「五〇〇〇万人も死なせれば、わたしは解任されかねない。あるいは命を失うか……だが、きみたちがどうしてもと言うならば、やっていいと言うしかない。ならば、人が死んでもわたしのせいにするなよ」
中国全土を襲った大飢饉は一九五八年に始まり、一九六一年まで続いた。最悪だった一九六〇年には、政府の公式統計でも、国民の平均カロリー摂取量は一日あたり一五三四・八(キロ)カロリーまで落ち込んでいる。きわめて毛沢東政権寄りの作家ハン・スーインでさえ、都市部の主婦の一日あたりカロリー摂取量は一九六〇年には最大で一二〇〇カロリーだった、と書いている。アウシュビッツ強制労働収容所の囚人は、一日あたりて二〇〇ないし一七〇〇カロリーの食事を与えられていた。それでも、一日に約一一時間の重労働をさせられる囚人の場合、配給以外の食糧を手に入れられない者は大半が数カ月以内に死亡している。
大飢饉のあいだ、人肉を食べた者もいた。毛沢東の死後に安徽省鳳陽県に関しておこなわれた研究(ただちに中止させられた)によると、一九六〇年の春だけで六三件の人肉食が記録されている。その中には、夫婦が八歳の息子を絞め殺して食べたケースもあった。しかも、おそらく鳳陽が最悪のケースではないはずだ。住民の三分の一が死亡した甘粛省のある県でも、人肉食が横行した。ある村の幹部で妻も姉も子供も飢饉でなくした人物は、のちにジャーナリストにこう語っている。「それは多くの村人たちが人肉を食べましたよ……あそこ、公社の事務室の外でしやがんで日向ぼっこをしている人たちが見えるでしょう?あの人たちの何人かは人肉を食べています……みんな、腹が減って頭がおかしくなってしまったのです」
こうした地獄絵の一方で、国の穀物倉庫には食糧がたっぷりあり、軍によって守られていた。なかには倉庫内でそのまま腐ってしまう食糧さえあった。ポーランドのある学生は、一九五九年の夏から秋にかけて中国東南で果物が「トン単位で腐っていく」のを目にしたという。それでも当局は、「餓死不開倉」(人民が餓死しようとも、穀物倉庫の扉は開けるな)と命令していた。
大躍進と大飢饉の四年間で、三八〇〇万近い人々が餓死あるいは過労死した。この数字は、ナンバー2の劉少奇によって確認されている。劉少奇は、大飢饉が終息する前の段階ですでに三〇〇〇万人が餓死したことをソ連大使ステパン・チェルボネンコに話している。
六一年にかけての死亡者数が過少報告されたためである。
これは二〇世紀最悪の飢饉、人類史上最悪の飢饉だった。毛沢東は計算ずくで何千万という人々を餓死や過労死へ追いやったのである。飢饉が最悪だった一九五八年から一九五九年にかけての二年間、穀物だけでも七〇〇万トン近くが輸出されている。これだけあれば、三八〇〇万人に一日あたり八四〇カロリー以上を与えることができる--生死を分ける数字だ。しかも、これは穀物だけの数字で、食肉、食用油、卵、その他大量に輸出された食料品は含まれていない。これらが輸出に回されず、人道主義的基準に従って分配されていたら、おそらく中国は一人の餓死者も出さずにすんだはずだ。
実際には、毛沢東はさらに多くの人間が死ぬことを計算に入れていた。大躍進のあいだ、毛沢東は意図的に大量殺人をおこなったわけではないが、結果的に大量の人間が死ぬことになってもかまわないと考えており、そのような事態が起こってもあまり驚かないように、と、幹部に伝えていた。大躍進運動の開始を決定した一九五八年五月の党大会において、毛沢東は、党が打ち出した方針の結果として人々が死ぬことを恐れてはいけない、むしろ歓迎すべきである、と演説した。「もし今日まで孔子が生き残っていたら、えらいことになるではないか?」「妻が死んだときに荘子が両足を投げ出し盆(酒器)を鼓して歌を歌ったのは、正しかった」「人が死んだときには慶祝会を開くべきである」「死は、まさに喜ぶべきことである……われわれは弁証法的思考を信じるわけだから、死を歓迎しないということはありえない」
この軽薄かつ悪魔的な「哲理」は、下々の農村幹部にまで伝達された。安徽省鳳陽県で餓死や過労死した人々の死体を見せられたある幹部は、「人が死ななければ、地球上に人があふれてしまう! 生きるも死ぬも世の常だ。この世に死なない人間などいるかね?」と、毛沢東の言葉をほぼそのまま口にしたという。ある地区では喪服を着ることも禁止され、涙を流すことさえ禁止された--毛沢東が死は祝うべきことだと言ったからである。
毛沢東は大量死に実用的な利点まで見出した。一九五八年一二月九日、毛沢東は最高幹部に対して、「死はけっこうなことだ。土地が肥える」と発言している。この理屈に従って、農民は死人を埋葬した上に作物を植えるよう命じられた。これは農民に大きな精神的苦痛をもたらした。
最近になってようやく、毛沢東がどれほど多くの人命を失ってもかまわないと考えていたかを確実に知ることができるようになった。一九五七年にモスクワを訪問した際に、毛沢東は、「われわれは世界革命に勝利するために三億の中国人を犠牲にする用意がある」と言った。当時の中国の全人口の半分である。一九五八年五月一七日の党大会でも、毛沢東は次のように発言している。「世界大戦だといって大騒ぎすることはない。せいぜい、人が死ぬだけだ……人口の半分が殲滅される--この程度のことは、中国の歴史では何度も起こっている……人口の半分が残れば最善であり、三分の一が残れば次善である……」
しかも、毛沢東は戦時の犠牲者だけを対象にしていたわけではない。一九五八年一一月二一日、幹部との会話で濯漑工事や製「鉄」などの労働集約事業に言及した際に、農民が栄養不足の状態で苛酷な労働を強いられていることを暗黙に、ほとんど無頓着とも呼べるような態度で受け止めたうえで、毛沢東は、「これだけの事業を抱えて、こういう働き方をさせれば、中国人の半分が死んでもおかしくない。半分ではないにしても、三分の一、あるいは一〇分の一--五〇〇〇万--は死ぬ」と述べた。こうした発言があまりにショツキングに聞こえることを知っていた毛沢東は、自分の責任を回避しようとした。「五〇〇〇万人も死なせれば、わたしは解任されかねない。あるいは命を失うか……だが、きみたちがどうしてもと言うならば、やっていいと言うしかない。ならば、人が死んでもわたしのせいにするなよ」
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