『人間と実存』より ⇒ 池田晶子の概念「宇宙の旅人」で私の感覚は変わった。他者の存在を信じていない。
人生観というものと世界観というものとは離すことはできない。殊に現代のように人間学とか実存哲学とかいうようなものが哲学の中心問題であることがはっきり意識されてくると、人生観と世界観とを区別することさえも無理だと考えられてくる。人生観に根ざさない世界観はあり得ないし、世界観の形を取らない人生観も実際としてはないであろう。
世界観の観ずる問題は結局は形而上学の攻究する問題にほかならない。形而上学の根本問題は昔から霊魂不滅に関するもの、意志自由に関するもの、神に関するものの三つに要約されている。この根本問題は今日でも必ずしも変ってはいない。もし霊魂不滅、意志自由、神などの言葉が古めかしい感じがするならば、その代りに死、実存性、共同的世界内存在というょうな言葉を用いて見ればいい。そうすれば現代的な匂いがする。しかし問題そのものは昔とあまり変ってはいない。形而上学、従って世界観の焦点をなすこの三つの問題は同時にまた人生観の問題でもある。不滅とか自由とか神とかいう問題はみな人生というものを中心に置いてそこから考えた問題である。人生の全体性すなわち人の一生ということを考えると、霊魂不滅とか死とかいうことが問題になってくる。人生の原本性すなわち人の本当の生き方ということを捉えようとすると、自由とか実存性とかいうことが問題になってくる。人生の相対性、従って甲の人生と乙の人生と丙の人生の相互関係ということに目を附けると、絶対的統一としての神とか共同的世界内存在とかいうことが問題になってくる。
およそ人生観を述べようとすると、この三つの問題に対してどう観じているかを述べなければならないことになる。それは昔から幾度となく繰返して考え抜かれていることであるから、今更なにか新味を加えようなどということは企てる方が間違っている。昔から在る様々の思想がどういう風に有機的に内的に結合し醗酵してその個人の血となり肉となっているかというところに人生観の個性が認められなくてはならない。私の観方を簡単に述べてみよう。
霊魂不滅の問題を私はどう観ているか。現代人がこんなことを問題とするのは可笑しいという人があるかも知れないが私はそうは考えない。人間の一生は死によって無に帰してしまうものか、または何等かの形で存続するものか、いずれであるかということは真面目に考えてみて差支ない問題だと思う。だが私自身には来世存在の理由として普通に挙げられるものはIつとして首肯することはできない。その限りに於て私自身は来世の存在を信じない。来世が在るとすれば人間は二度生きることになる。現世が二つあるようなものである。そうすると現世の一回性とか尊厳とかいうものが壊されてくる。人生は絶えず死に脅されている果無い脆いものである。しかしその果無さ脆さに人生そのものの強さがある。人間がただ一回だけしか生きることが出来ないで、我々の一歩一歩が我々自身の徹底的否定である死に向って運ばれているというところに、人生の有つすべての光沢や強さが懸っているのである。同じようなものが二つあるという余計なことを許さないならば、来世はないという論理になるであろう。朝に道を聞けば夕に死すとも可なりというような光沢と強味のある人生は一回だけ生きられるものでなくてはならない。我々が死なずに永久に生きているものとしたら、どんなに冗漫で退屈なものであろう。死は全体性としての人生に欠くべからざる緊張を与えている。死が何時とも知らず控えているということが人生を生甲斐あるものであらせている。
人間は死の自然の到来を待たないでみずから生よりも死を択ぶこともある。だが、もし死後に何等かの形で生の存続があるとしたなら自殺は無意味なものとなってしまう。自暴自棄の自殺でさえも、責任逃避の自殺でさえも、自殺という現象は否むべからざる厳粛性を担っている。その厳粛性は生か死かという選択が肯定か否定かの選択として本当に成立することを予想している。死後にまたしても生があるというのでは生か死か肯定か否定かの選択ではないことになってしまう。私には自殺の後に更に来世を押付けるということは自殺行為に対して何か冒涜ででもあるかのょうに感じられる。情死者が死の彼岸に楽しい来世を描くというような場合があるとしても、それは全く無邪気な妄想に過ぎないであろう。情死によって人生に対する何等かの反感を力強く明示する事実そのものの中に、情死の目的は完全に達せられている。また何者の介在をも許さずただ二つの心が抱き合って死ぬという瞬間そのものの中に、永遠の天国がある。
賞罰の観念によって来世の存在を要請しようとする人があるかも知れない。またそれによって人生に一層の緊張を加えようと企てるかも知れない。しかし善い行為はそれ自身が賞であり、悪い行為はそれ自身が罰である。善い行為が来世に於て更に賞せられ、悪い行為が来世に於て更に罰せられるというのは二重に同じことを繰返すだけで私には余計なこととしか思えない。また賞罰を背景に据えて緊張の度を増そうとするのは寧ろ卑しい考え方である。
魂の発展という観念に基づいて来世を展望の中に置こうとする人があるかも知れない。しかしこのことは人類全体の発展ということと相容れないように私には考えられる。個人の魂がどこまでも発展して行くものならば、人間は子孫を造る必要はない。人間が子孫を造るのは、個人の魂の発展の中絶と頓挫とを、その中絶し頓挫した箇所に於て取上げて更に発展を継続させて行くためである。不滅という意味は子孫による価値の継承が不滅であるということより以外には考えられない。
普通の意味の来世を信じる位ならば、私はむしろ厳密な同一事の永劫回帰を信じたい。なぜならば一生が厳密に同一な内容をもって無限回繰返されるということは、一生が一回より生きられないということとつまりは同じことである。厳密な同一事の永劫回帰の思想は現世という実像を無数の鏡に写してその映像を過去と未来に配列したようなものである。映像を無数に造ったからとて実像の一回性や尊厳をいささかも傷けはしない。
人生は無に取囲まれている。死は生の徹底的終局である。死の積極的意義を飽迄も悉知している人間でも、それ故に、時としては、歳月の推移に無限の哀愁を感じる。そして魂は死の鐘を聴くとき、自己の創造した価値が、たとえ僅少でも、不滅であるという諦念を懐いて、自己を無の淵へ突き落すであろう。
自由の問題を私はどう観ているか。自由ということは問題にならないほど確かなことのように私には考えられる。自然科学が決定論を唱えて意志自由に累を及ぼした時代もあった。しかし現代の自然科学的認識論はその非を悟っている。殊に量子論の進展につれて必然性の概念は蓋然性の概念に場所を譲り、因果的決定の概念は確率増大の概念によって代られる傾向を示すに至った。また仮に自然科学が決定論を立てたとしても、それによって意志自由が危くされると考えてはならない。意志自由の直証に立脚して自然科学の決定論の認識論的限界乃至弱点を発見して行かなければならない。意志自由は論議の帰着点ではない。出発点である。自由を措いて実存ということは考えられない。実存を措いて人間というものは考えられない。自由ということと人間ということとは殆ど同義語と云ってもいい。自然科学そのものも人間の産んだものにほかならない。
人生観というものと世界観というものとは離すことはできない。殊に現代のように人間学とか実存哲学とかいうようなものが哲学の中心問題であることがはっきり意識されてくると、人生観と世界観とを区別することさえも無理だと考えられてくる。人生観に根ざさない世界観はあり得ないし、世界観の形を取らない人生観も実際としてはないであろう。
世界観の観ずる問題は結局は形而上学の攻究する問題にほかならない。形而上学の根本問題は昔から霊魂不滅に関するもの、意志自由に関するもの、神に関するものの三つに要約されている。この根本問題は今日でも必ずしも変ってはいない。もし霊魂不滅、意志自由、神などの言葉が古めかしい感じがするならば、その代りに死、実存性、共同的世界内存在というょうな言葉を用いて見ればいい。そうすれば現代的な匂いがする。しかし問題そのものは昔とあまり変ってはいない。形而上学、従って世界観の焦点をなすこの三つの問題は同時にまた人生観の問題でもある。不滅とか自由とか神とかいう問題はみな人生というものを中心に置いてそこから考えた問題である。人生の全体性すなわち人の一生ということを考えると、霊魂不滅とか死とかいうことが問題になってくる。人生の原本性すなわち人の本当の生き方ということを捉えようとすると、自由とか実存性とかいうことが問題になってくる。人生の相対性、従って甲の人生と乙の人生と丙の人生の相互関係ということに目を附けると、絶対的統一としての神とか共同的世界内存在とかいうことが問題になってくる。
およそ人生観を述べようとすると、この三つの問題に対してどう観じているかを述べなければならないことになる。それは昔から幾度となく繰返して考え抜かれていることであるから、今更なにか新味を加えようなどということは企てる方が間違っている。昔から在る様々の思想がどういう風に有機的に内的に結合し醗酵してその個人の血となり肉となっているかというところに人生観の個性が認められなくてはならない。私の観方を簡単に述べてみよう。
霊魂不滅の問題を私はどう観ているか。現代人がこんなことを問題とするのは可笑しいという人があるかも知れないが私はそうは考えない。人間の一生は死によって無に帰してしまうものか、または何等かの形で存続するものか、いずれであるかということは真面目に考えてみて差支ない問題だと思う。だが私自身には来世存在の理由として普通に挙げられるものはIつとして首肯することはできない。その限りに於て私自身は来世の存在を信じない。来世が在るとすれば人間は二度生きることになる。現世が二つあるようなものである。そうすると現世の一回性とか尊厳とかいうものが壊されてくる。人生は絶えず死に脅されている果無い脆いものである。しかしその果無さ脆さに人生そのものの強さがある。人間がただ一回だけしか生きることが出来ないで、我々の一歩一歩が我々自身の徹底的否定である死に向って運ばれているというところに、人生の有つすべての光沢や強さが懸っているのである。同じようなものが二つあるという余計なことを許さないならば、来世はないという論理になるであろう。朝に道を聞けば夕に死すとも可なりというような光沢と強味のある人生は一回だけ生きられるものでなくてはならない。我々が死なずに永久に生きているものとしたら、どんなに冗漫で退屈なものであろう。死は全体性としての人生に欠くべからざる緊張を与えている。死が何時とも知らず控えているということが人生を生甲斐あるものであらせている。
人間は死の自然の到来を待たないでみずから生よりも死を択ぶこともある。だが、もし死後に何等かの形で生の存続があるとしたなら自殺は無意味なものとなってしまう。自暴自棄の自殺でさえも、責任逃避の自殺でさえも、自殺という現象は否むべからざる厳粛性を担っている。その厳粛性は生か死かという選択が肯定か否定かの選択として本当に成立することを予想している。死後にまたしても生があるというのでは生か死か肯定か否定かの選択ではないことになってしまう。私には自殺の後に更に来世を押付けるということは自殺行為に対して何か冒涜ででもあるかのょうに感じられる。情死者が死の彼岸に楽しい来世を描くというような場合があるとしても、それは全く無邪気な妄想に過ぎないであろう。情死によって人生に対する何等かの反感を力強く明示する事実そのものの中に、情死の目的は完全に達せられている。また何者の介在をも許さずただ二つの心が抱き合って死ぬという瞬間そのものの中に、永遠の天国がある。
賞罰の観念によって来世の存在を要請しようとする人があるかも知れない。またそれによって人生に一層の緊張を加えようと企てるかも知れない。しかし善い行為はそれ自身が賞であり、悪い行為はそれ自身が罰である。善い行為が来世に於て更に賞せられ、悪い行為が来世に於て更に罰せられるというのは二重に同じことを繰返すだけで私には余計なこととしか思えない。また賞罰を背景に据えて緊張の度を増そうとするのは寧ろ卑しい考え方である。
魂の発展という観念に基づいて来世を展望の中に置こうとする人があるかも知れない。しかしこのことは人類全体の発展ということと相容れないように私には考えられる。個人の魂がどこまでも発展して行くものならば、人間は子孫を造る必要はない。人間が子孫を造るのは、個人の魂の発展の中絶と頓挫とを、その中絶し頓挫した箇所に於て取上げて更に発展を継続させて行くためである。不滅という意味は子孫による価値の継承が不滅であるということより以外には考えられない。
普通の意味の来世を信じる位ならば、私はむしろ厳密な同一事の永劫回帰を信じたい。なぜならば一生が厳密に同一な内容をもって無限回繰返されるということは、一生が一回より生きられないということとつまりは同じことである。厳密な同一事の永劫回帰の思想は現世という実像を無数の鏡に写してその映像を過去と未来に配列したようなものである。映像を無数に造ったからとて実像の一回性や尊厳をいささかも傷けはしない。
人生は無に取囲まれている。死は生の徹底的終局である。死の積極的意義を飽迄も悉知している人間でも、それ故に、時としては、歳月の推移に無限の哀愁を感じる。そして魂は死の鐘を聴くとき、自己の創造した価値が、たとえ僅少でも、不滅であるという諦念を懐いて、自己を無の淵へ突き落すであろう。
自由の問題を私はどう観ているか。自由ということは問題にならないほど確かなことのように私には考えられる。自然科学が決定論を唱えて意志自由に累を及ぼした時代もあった。しかし現代の自然科学的認識論はその非を悟っている。殊に量子論の進展につれて必然性の概念は蓋然性の概念に場所を譲り、因果的決定の概念は確率増大の概念によって代られる傾向を示すに至った。また仮に自然科学が決定論を立てたとしても、それによって意志自由が危くされると考えてはならない。意志自由の直証に立脚して自然科学の決定論の認識論的限界乃至弱点を発見して行かなければならない。意志自由は論議の帰着点ではない。出発点である。自由を措いて実存ということは考えられない。実存を措いて人間というものは考えられない。自由ということと人間ということとは殆ど同義語と云ってもいい。自然科学そのものも人間の産んだものにほかならない。