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未唯への手紙

未唯への手紙

人生観と世界観

2016年09月09日 | 1.私
『人間と実存』より ⇒ 池田晶子の概念「宇宙の旅人」で私の感覚は変わった。他者の存在を信じていない。

人生観というものと世界観というものとは離すことはできない。殊に現代のように人間学とか実存哲学とかいうようなものが哲学の中心問題であることがはっきり意識されてくると、人生観と世界観とを区別することさえも無理だと考えられてくる。人生観に根ざさない世界観はあり得ないし、世界観の形を取らない人生観も実際としてはないであろう。

世界観の観ずる問題は結局は形而上学の攻究する問題にほかならない。形而上学の根本問題は昔から霊魂不滅に関するもの、意志自由に関するもの、神に関するものの三つに要約されている。この根本問題は今日でも必ずしも変ってはいない。もし霊魂不滅、意志自由、神などの言葉が古めかしい感じがするならば、その代りに死、実存性、共同的世界内存在というょうな言葉を用いて見ればいい。そうすれば現代的な匂いがする。しかし問題そのものは昔とあまり変ってはいない。形而上学、従って世界観の焦点をなすこの三つの問題は同時にまた人生観の問題でもある。不滅とか自由とか神とかいう問題はみな人生というものを中心に置いてそこから考えた問題である。人生の全体性すなわち人の一生ということを考えると、霊魂不滅とか死とかいうことが問題になってくる。人生の原本性すなわち人の本当の生き方ということを捉えようとすると、自由とか実存性とかいうことが問題になってくる。人生の相対性、従って甲の人生と乙の人生と丙の人生の相互関係ということに目を附けると、絶対的統一としての神とか共同的世界内存在とかいうことが問題になってくる。

およそ人生観を述べようとすると、この三つの問題に対してどう観じているかを述べなければならないことになる。それは昔から幾度となく繰返して考え抜かれていることであるから、今更なにか新味を加えようなどということは企てる方が間違っている。昔から在る様々の思想がどういう風に有機的に内的に結合し醗酵してその個人の血となり肉となっているかというところに人生観の個性が認められなくてはならない。私の観方を簡単に述べてみよう。

霊魂不滅の問題を私はどう観ているか。現代人がこんなことを問題とするのは可笑しいという人があるかも知れないが私はそうは考えない。人間の一生は死によって無に帰してしまうものか、または何等かの形で存続するものか、いずれであるかということは真面目に考えてみて差支ない問題だと思う。だが私自身には来世存在の理由として普通に挙げられるものはIつとして首肯することはできない。その限りに於て私自身は来世の存在を信じない。来世が在るとすれば人間は二度生きることになる。現世が二つあるようなものである。そうすると現世の一回性とか尊厳とかいうものが壊されてくる。人生は絶えず死に脅されている果無い脆いものである。しかしその果無さ脆さに人生そのものの強さがある。人間がただ一回だけしか生きることが出来ないで、我々の一歩一歩が我々自身の徹底的否定である死に向って運ばれているというところに、人生の有つすべての光沢や強さが懸っているのである。同じようなものが二つあるという余計なことを許さないならば、来世はないという論理になるであろう。朝に道を聞けば夕に死すとも可なりというような光沢と強味のある人生は一回だけ生きられるものでなくてはならない。我々が死なずに永久に生きているものとしたら、どんなに冗漫で退屈なものであろう。死は全体性としての人生に欠くべからざる緊張を与えている。死が何時とも知らず控えているということが人生を生甲斐あるものであらせている。

人間は死の自然の到来を待たないでみずから生よりも死を択ぶこともある。だが、もし死後に何等かの形で生の存続があるとしたなら自殺は無意味なものとなってしまう。自暴自棄の自殺でさえも、責任逃避の自殺でさえも、自殺という現象は否むべからざる厳粛性を担っている。その厳粛性は生か死かという選択が肯定か否定かの選択として本当に成立することを予想している。死後にまたしても生があるというのでは生か死か肯定か否定かの選択ではないことになってしまう。私には自殺の後に更に来世を押付けるということは自殺行為に対して何か冒涜ででもあるかのょうに感じられる。情死者が死の彼岸に楽しい来世を描くというような場合があるとしても、それは全く無邪気な妄想に過ぎないであろう。情死によって人生に対する何等かの反感を力強く明示する事実そのものの中に、情死の目的は完全に達せられている。また何者の介在をも許さずただ二つの心が抱き合って死ぬという瞬間そのものの中に、永遠の天国がある。

賞罰の観念によって来世の存在を要請しようとする人があるかも知れない。またそれによって人生に一層の緊張を加えようと企てるかも知れない。しかし善い行為はそれ自身が賞であり、悪い行為はそれ自身が罰である。善い行為が来世に於て更に賞せられ、悪い行為が来世に於て更に罰せられるというのは二重に同じことを繰返すだけで私には余計なこととしか思えない。また賞罰を背景に据えて緊張の度を増そうとするのは寧ろ卑しい考え方である。

魂の発展という観念に基づいて来世を展望の中に置こうとする人があるかも知れない。しかしこのことは人類全体の発展ということと相容れないように私には考えられる。個人の魂がどこまでも発展して行くものならば、人間は子孫を造る必要はない。人間が子孫を造るのは、個人の魂の発展の中絶と頓挫とを、その中絶し頓挫した箇所に於て取上げて更に発展を継続させて行くためである。不滅という意味は子孫による価値の継承が不滅であるということより以外には考えられない。

普通の意味の来世を信じる位ならば、私はむしろ厳密な同一事の永劫回帰を信じたい。なぜならば一生が厳密に同一な内容をもって無限回繰返されるということは、一生が一回より生きられないということとつまりは同じことである。厳密な同一事の永劫回帰の思想は現世という実像を無数の鏡に写してその映像を過去と未来に配列したようなものである。映像を無数に造ったからとて実像の一回性や尊厳をいささかも傷けはしない。

人生は無に取囲まれている。死は生の徹底的終局である。死の積極的意義を飽迄も悉知している人間でも、それ故に、時としては、歳月の推移に無限の哀愁を感じる。そして魂は死の鐘を聴くとき、自己の創造した価値が、たとえ僅少でも、不滅であるという諦念を懐いて、自己を無の淵へ突き落すであろう。

自由の問題を私はどう観ているか。自由ということは問題にならないほど確かなことのように私には考えられる。自然科学が決定論を唱えて意志自由に累を及ぼした時代もあった。しかし現代の自然科学的認識論はその非を悟っている。殊に量子論の進展につれて必然性の概念は蓋然性の概念に場所を譲り、因果的決定の概念は確率増大の概念によって代られる傾向を示すに至った。また仮に自然科学が決定論を立てたとしても、それによって意志自由が危くされると考えてはならない。意志自由の直証に立脚して自然科学の決定論の認識論的限界乃至弱点を発見して行かなければならない。意志自由は論議の帰着点ではない。出発点である。自由を措いて実存ということは考えられない。実存を措いて人間というものは考えられない。自由ということと人間ということとは殆ど同義語と云ってもいい。自然科学そのものも人間の産んだものにほかならない。

タイ「自由」な社会と「不自由」な社会

2016年09月09日 | 4.歴史
『タイの基礎知識』より

タイは「自由」な国であるとよく言われる。これは「夕イ」という語が自由という意味を持つことに由来する。すなわら、タイ人に言わせれば彼らは自由の民であり、誰からも束縛されず自由意思で行動できる人々なのである。このような言説が出てきたのは大タイ主義が出てきた一九三〇年代末のことと思われ、タイナショナリズムの高揚とともに重視されていった。一九三九年の国名の変更を筆頭にこの時期には盛んにタイという言葉が用いられることとなり、タイという語は国民に広く浸透していった。

確かにタイは自由な社会である。はじめに述べたように、タイが「居心地」の良い包容力のある社会であることは、自由な社会であるからこそ実現できるものである。二者関係が重視されるタイ社会では集団主義よりも個人主義的な様相が強くなり、その結果「緩い」社会という解釈まで出てきた。タイ人は他人に雇われるよりも自営業を好み、独立志向かきわめて強く、インフォーマルセクターに含まれるようなさまざまな新しいサービスを次々と生み出してきた。タイ社会は多様性が認められる社会であり、さまざまな階層の人々がそれぞれに見合う経済レベルで生活スタイルを構築している。性の転換にも寛容であり、ついこの間まで「男」であった人がある日突然「女」になることも珍しくなく、自分の欲求に基づいて人々が自分の好きな「性」を選んで生活している。そして、他人に迷惑を掛けない限りそのような人々の存在も黙認される。このような自由が、多くの人々を惹きつけているのであろう。

しかし、タイ社会にも「不自由」な側面は存在する。それは国王や王室に対する不自由さである。確かに、国王は二者関係から構築されるタイ社会の中で頂点にあり、「ピー」の最高峰に位置する存在である。その権威はラック・タイの下での国民統合の中で強化され、その存在は絶対化されてきた。このため、タイでは国王の存在に疑問を挟む余地がなくなり、王室批判はタブーとなっていった。タブーが存在するということ自体が、自由の国タイを否定していることになる。規範面のみならず制度的にも不敬罪というものがあり、刑法典には国王や王妃王位継承者、摂政を侮辱する行為は禁固刑に処するという規定が存在している。不自由な社会の側面は、実はラック・タイが生み出した負の遺産であると言えよう。

ラック・タイの原理が効いている間は、たとえこのような不自由が存在しようと、多くの人々はそれを不自由であるとは思ってもみなかった。ところが、二一世紀に入って親タックシン派と反タックシン派の対立が顕著となると、親タックシン派の中から公然と王室批判をする人々が出現し、それを反タックシン派が不敬罪を用いて抑え込む動きが出てきた。反タックシン派は王室擁護派であり、王室も反タックシン的なそぶりを見せたことから、親タックシン派による王室批判の動きが出てきたのである。このため、親タックシン派の言動に対して不敬罪のレッテルが張られる事態が相次ぎ、不敬罪容疑で逮捕される人が二〇〇六年のクーデター以降増加した。不敬罪がこのように政治的に利用されるようになると、内外からの反発はさらに高まることとなり、結果として王室批判の声をさらに高めることとなった。

自由な社会が魅力であるタイであるが、このような不自由な社会という一面もまた存在し、政治的対立がその不自由さをさらに高めている傾向がある。二〇一四年のクーデター以後の軍事政権も不自由な状況を増長しており、政治的に自由に発言や行動ができずに抑圧されている人々もいる。しかしながら、親タックシン派と反タックシン派が自由にデモを行ない、その社会が混乱して不安が増加した状況を踏まえて、半ば強引に平穏が維持されている不自由な状況のほうが望ましいと考える夕イ人も少なからず存在する。

政治的な面に限らず、社会情勢や国際情勢の変化によってタイ社会の不自由さは徐々に拡大してきている。二〇〇〇年代に入って深南部のテロが活発化してから、バンコクのショッピングセンターや地下鉄の入口にも金属探知機が設置され、テロ対策が行なわれている。飲酒を抑制するためにアルコール飲料の販売時間が決められ、コンビニエンス・ストアでも厳守されている。さまざまな場面において規制が強まりつつあり、自由の国タイの実像が徐々に変わりつつある。交通マナーの面などあまりに自由すぎるのもどうかと思われる場合もあるが、逆にあまりに不自由な状況も自由の国タイにはそぐわない。白由と不自由の間の線をどこに引くかが、現在のタイ社会には求められているのであろう。

日本のエネルギー選択と温室効果ガス削減目標

2016年09月09日 | 5.その他
『地球温暖化は解決できるのか』より 私たちに何ができるのか? ⇒ できない。大人が「存在の力」に覚醒しない限りは。

2030年の理想のエネルギーの将来像を考えてみましょう。エネルギーの将来像を考えることは、そのまま日本の2030年の温室効果ガスの削減目標を考えることにもなります。

まずは最も大切なのは省エネルギーです。省エネルギー技術には様々なものがあり、やり方次第で大きな可能性があることを見てきました。ここではパリ協定を実現していくために最大限に省エネルギーすることにしましょう。2015年に示された政府の2030年エネルギー見通しでは、エネルギー全体に対して2013年比で約10%減の省エネルギーに留められましたが、2012年当時に環境省から示された温暖化対策の選択肢には約20%減(2010年比)というものもありましたので、ここでは少なくとも20%以上削減することといたしましょう。

残ったエネルギーをどんなエネルギー源で賄うかを考えていきます。本来は、日本の使っているエネルギーは、電力に使われる分は4割程度で、残りの6割は天然ガスやガソリンなど熱・燃料用途ですが、ここでは話をわかりやすくするために、電力だけに絞って考えていくことにしましょう。

電力を作るには、再生可能エネルギー、原子力、そして化石燃料の天然ガス、石炭、石油などがあります。それぞれのエネルギーのメリット、デメリットを考える際には、大きく分けて4つの面から考える必要があります。

 ①安全であるか二季故を起こした時に甚大な被害をもたらすリスク等がないか

 ②安定的に供給できるか一日本では化石燃料はそのほとんどを輸入に頼っている。たとえ ば輸入先の石油産出国で政情不安が起きたりすると、日本は輸入できなくなってしまう。そのため1つの国に頼るのではなく、なるべく多くの国から輸入するなどリスクを分散する必要がある。この観点からは国内で産出する国産エネルギーがベスト

 ③経済的であるか:経済活動を行うには、なるべく安いエネルギーが必要

 ④環境に悪影響がないか∵天気汚染や地球温暖化など悪影響を引き起こさないか

今の段階では残念ながら4つのすべての条件を満たすエネルギーはありません

どれを優先するかによって、様々なエネルギーの選択がありえます。4つの面から考えて、それぞれのエネルギーのメリット、デメリットを考えていきましょう。表にはそれぞれの電源の代表的なメリットやデメリットを記しておきましたが、巻末の参照文献などを参考に皆さんでさらに調べて書き込んでみてください。

③の経済性を考える参考として、それぞれの電源の2014年の今の価格と2030年の予測価格の表を示しておきます。2014年の価格で、高い電源の割合を多くすると電気料金は高くなり、安い電源の割合を多くすると電気料金も安くなることになります。ただ、石炭や天然ガスなど化石燃料の価格は2014年も2030年もほとんど変わらないという予測ですが、再生可能エネルギーは技術の進歩が見込まれるので、2030年には価格が下がり、特に太陽光や風力は2030年には2014年の半額になってくる見込みです。2030年時点の予測価格も念頭に置いて検討してください。

④の環境の悪影響をはかるには、第1章第3節で示した化石燃料の排出する二酸化炭素の排出係数の図を参考にしてください。二酸化炭素の排出係数が高いほど、温暖化を進めてしまうことになります。なお二酸化炭素を多く出す化石燃料は、ほかの大気汚染物質も排出することも知っておいてください。

①の安全性を考える際に知っておくべきことは、今ある原発のうち、40年たった古い原発を使わず、さらに原発の新設もしないならば、2030年には日本の原発の割合は大体15%前後になるということです。つまりあなたの考える原発の割合が15%を超えるならば、古い原発の延長か新設が必要です。ちなみに政府の2030年エネルギー見通しで示された原発20~22%というのは、40年以上の古い原発を延長して使うという前提です。

さあ、皆さんは2030年の日本にとってどんなエネルギーの割合が望ましいと考えるでしょうか? どうしてそう考えるのかも合わせて、皆さんの考える2030年の日本のエネルギー選択を書き込んでみてください。2015年に日本政府が発表した2030年のエネルギー見通しと、それに従って決められた温室効果ガスの削減目標も、参考として示しておきます。

エネルギー割合を書き込んだ後は、温室効果ガスの削減目標も考えてみましょう。削減目標とは、要は温室効果ガスを出さないエネルギー(原発と再生可能エネルギー)の割合と、化石燃料の中で石炭を多くするか少なくするかによって決まってきます。政府のエネルギー選択では、二酸化炭素を出さないエネルギーが合わせて約45%で、残りの化石燃料のうち石炭の割合が26%です。もしあなたの考える二酸化炭素を出さないエネルギー割合の合計が45%を超え、石炭の割合を26%よりも低くとるならば、政府の設定した温室効果ガスの削減目標26%を上回る目標になります。逆ならば、政府の目標を下回る削減目標を提案することになります。つまり、あなたの考える2030年のエネルギー選択は、2030年の日本の削減目標を考えることでもあるのです。

さあ、いかがでしたか? 書き込んだらぜひ他の皆さんと比べてください。人によって大きく考え方が異なることが感じられると思います。ぜひ、自分と異なる選択をした人とじっくり話し合ってみてください。一番大切なことは、お互いにオープンな気持ちで多様な考え方を受け入れながら議論を深めることです。将来のエネルギー選択や温暖化対策を考えることは、自分たちの未来の社会を考えることです。ぜひ積極的にトライしてみてください!

岡崎市図書館の10冊

2016年09月08日 | 6.本
369.2『合理的配慮』対話を開く 対話が拓く

407『若き科学者へ』

292.3『タイの基礎知識』アジアの基礎知識

281.0『日出づる国の誕生』古代の人物

302.4『空から降ってきた』アフリカ「奴隷社会」の悲劇

311.7『民主主義の内なる敵』

333.8『持続する情熱』青年海外協力隊50年の軌跡

121.6『人間と実在』

522.7『世界の美しいモスク』

319.1『日中の120年 侮中と抗日 1937-1944』文芸・評論作品選

コミュニティの中のユニット

2016年09月08日 | 5.その他
岡崎まで行くのが大変になっている

 これだけ見えないと、岡崎まで行くのがしんどいですね。燃料のインジケーターが3なのか2なのか分かりません。3だと信じて、岡崎図書館まで行きます。

 岡崎までの運転がきつくなっている。本当に車は好きになれない。早く、電子書籍にならないか。そしたら、DNAだけをカプセル化できる

コミュニティの中のユニット

 乃木坂でかなりできていますね。さゆりんご軍団とサンクトエトワールとはメンバーが重なっている。生ちゃんに関しても、中三トリオと97年組とは重なっている。

 コミュニティの中でユニットがどう働くのか。それによっていかに活性化するのか。個人とコミュニティの間の自由自在のユニット。

 ユニットはある個人を活性化する。これがレイアにならずに、グループでやっていけるのがユニットです。中学カーストではなくなる。自分がどこかに属している。それが一人でもいい。一人でもいい人間が居ることが乃木坂の利点です。

 元々、一人だった人間が集まってきて、そこで作り上げた。だけど、根本は個人の存在の力。それに対する、ファンの集団も変幻自在に変わっていく。カーストでないグループの場合は泥沼に陥るけど、それをいかにやっていくのかの実験をしている。

新しいiPhone

 新しいiPhoneは何でもありで7万8千円です。こんなモノが売れるのか。ハードよりソフト、ソフトよりインフラのハズでしょう。ソフトは今のものに寄り添っている。WatchでポケモンGoはその典型です。

 そんなことよりも未来を示せ! それがアップルとかグーグルの役割です。ただし、それは一人勝ちではダメです。あくまでもインフラを提供するだけです。

吉野家の牛とじ丼

 今日の昼は吉野家の牛とじ丼にしましょう。並卵の方がシンプルで安い。何が違うのか見てみます。

未唯宇宙を詳細から見ていく

 昨日から未唯宇宙の1.3以降、一つずつをアップすることに決めました。これは概要から見るのではなく、詳細から見ていきます。概要で再度、位置づけはするけど、重要なのは詳細からです。その部分を決めていきます。当然、参考資料もチェックするから時間は掛ります。だから、1日で一件です。ブログに上げるだけも一杯になります。

ユニットの役割

 ユニットは色々な役割を持ちます。個性があります。ユニットを作るのが優れているのが、生ちゃんです。自分が目立つためではなく、メンバーを目立たせるためです。サポート役で一番優れているのは、若月です。

生ちゃんが作るユニット

 生ちゃんが作るユニットは、新しいことを行なうためのものです。ブータンにしても、プレゼンにしても、そのカタチです。

 ダンケシェーンの応援ビデオにしても、夜中に考えて、若月たちを呼び集めて、ケータイで映像化した。それをオフィシャルにした。彼女が優れているのは企画力ですね。

自分のための大学の講座を開設

 「大学へ行こう」と言っても、教わる人が居ないから、自分のための大学です。時間を決めて、カリキュラムを決めましょう。連続性のある生活からすると、それは可能ですね。

 1時間半の「講座」の中に、書き起こしの時間を入れ込みましょう。その他に、本を片付ける時間も設定します。土日が中心になります。これらも分類しましょう。

 1時間半の「講座」をステージとしましょう。そうすると、1日が7ステージになります。開始時間は、8時・10時・13時・15時・17時・20時・22時となります。デジタルダイアリーにⅠステージ~Ⅶステージで設定しておきます。

 タブレットで連携できるので、その場に応じて、入力します。キンドルのスケジュールと連動です。モレスキンのスケジュール表は概要だけに留めて、あとはタブレットです。

腕を組んだままの男性

 松屋で隣に座った人間が気持ち悪かった。ずっと、腕組みしていた。あれはどう見ても、トヨタの生技関係でしょう。腕組んだまま、牛とじ丼を食べるかと思ったけど、普通に食べていた。首尾一貫で言ってもらいたい。

未唯宇宙1.3「存在の力」

 最初に持ってくるのは、生まれてきたこと。それを主観的に見ていくことから始まった。生まれた理由とか考えることにつなげた。

 自分の観点を大きく変えたのは、池田晶子さんの「宇宙の旅人」の世界です。今の時点だけでなく、137億年の視点、同時に宇宙の視点で見るようになった。心が軽くなった。そして、偶然が必然であることを確信した。私のために用意されたものに応えよう。

 ベースになるのが、権力のような意思の力ではなく、他者との関係ではなく、存在そのものです。他者が居なくとも、自分の存在はあるのだから、その存在の力から作り出さないと行けない。

 そこで存在の力を作り出した。だけど、世の中は意思の力の世界で生きている。他者との関係で生きている。それが故に、社会構造を存在の力を活かすカタチを見ていくことにした。
未唯宇宙1.4「内なる世界」

 これが今日の分です。内なる世界があって、外なる世界を考える。あるかどうか分からない世界ではなく、確実にある世界から見ていく。内なる世界は私の世界です。私の世界と内なる世界は何が違うのか。主観と客観です。

 考え抜くことから、考えだけに納めるために、私は私の世界を間に入れ込んだ。その上で外なる世界。身体とか他者とか仕事とかが全てその中に入る。どうしても無関心になる。家族もその中に入ってしまうから。発信はするけど、つながりが持てるのは限られます。

もうじき、中野五〇歳

2016年09月07日 | 7.生活
未唯宇宙を毎日一テーマ

 1.3「存在の力」今後、毎日、一テーマを確実にやりましょう。

 未唯宇宙上に、「自由と平等」が三つもあります。多すぎます。

もうじき、中野五〇歳

 もうじき、9月9日です。66年9月9日。丙午。もう、五〇歳なんですね。まだ、技術者としてやっているんでしょう。あのタイミングでの話し合いと異動で人生を分けさせてしまった。その中野も明日で五〇歳か。どんな五〇歳なのか、見てみたい。

誰も見ていないことの良さ

 自分がつまらない人間だと思うことはしません。死んでからも。誰も見てないし、誰からも見られていない。この心地よさを続けていきましょう。

生ちゃんの集中力

 生ちゃんがスラムダンクを語るみたいです。ついこの間まではマンガを読んでいなかったのに。集中力を感じます。忙しくなればなるほど、その間に入れ込む。そして、弱音は吐かない。中野の時に感じた、あの集中力。

生きている感覚に慣れない

 それにしても、この生きているという感覚は慣れないですね。本当にあるのか。そこで、大いなる意思がなぜ、この世界を作ったのかを考えていた。

 人間に工夫するさせるために、こんな中途半端な世界を作ったんでしょう。だから、次元を超えることもできます。次元の概念も渡したのはそのためです。有線の世界は作ったけど、無線は今一です。

 人の心を見るモノが小説しかない。もっと、実感的に見えるものがあるはずです。人間のコミュニケーションで何かをしようとするならば。

私の方向は合っている

 東富士の時代から、なんやかんや言っても、私の方向は合っていますね。皆が前を見ていなかったから、全体を考え、先を見ることを私の仕事にした。その役割を果たした。それを聞くかどうかは私の問題ではない。

コンテンツをバラバラにしよう

2016年09月06日 | 5.その他
コンテンツをバラバラにしよう

 著作権をなくすことでできること。多様な編集ができます。テレビコンテンツをデジタル化して、色々な趣旨で色々な観点で言葉をつけていく。乃木坂46時間テレビの内のハイライトをつなげていく。ある観点で見ていく。それによって、コンテンツが意味を持って、影響を与えられる。

 24時間TVでは、コンテンツの垂れ流しになっている。CMが邪魔をしている。著作なんて言うものでもないのに著作権に縛られている。だから、つまらなくなっている。ドラマも視聴率という数字だけで終わっている。名場面は見る人によって異なるのに、余分なものばかりです。

 全体に対しての著作権はあってもいいけど、個別に対してはフリーにする。本というものには権利があるかもしれないが、場面に対しては、いくらでも加工がききます。

未唯宇宙から始まる世界

 私の未唯宇宙はそれらの集合体です。著作権会費のために誤字脱字が存在する。原本と異なる。そこでの「原本」はほとんどが、コピペから成り立っているから、大きな顔をしてもらいたくない。未唯宇宙のようなことをより多くの人が行ない、より多くの人が関心を持てば、コンテンツが歩き出す。

多様な意味を見つける

 今は本という中にすべて閉じ込められている。その監視の元に居てはダメです。色々な観点で、多様な意味を見つけないと。

 哲学もそうです。ウィトゲンシュタインも「公式の」解釈だけでなく、色々な風に使っていく。それは言葉という、キーワードとかキャッチフレーズというカタチで広がっていく。それを更に立体化する。重要なのはそこから答えを出すこと。

 本の良さは対比できることです。図書館ならば、同じ棚に並んでいる。本そのものだと手間が掛ります。余分な観点も一杯あります。作者の趣旨もマルチで変わっていくから、それを一つのものとしてみるのではなく、その時点で見ていく。人間でもそうです。

プッシュからプルへの移行

 そうなってくると、テレビのようなプッシュ型がいかに力がないことが分かってきます。関心に合わせて、テレビでその部分だけを出すわけには行きません。

 その典型が11時間のミュージック番組です。ベビメタルの出演が5分なら、その5分しか意味がない。今までは録画して、その文をサーチして見ていたが、今は、ベビメタルファンによって切り取られ、ネット配信されます。リクエストも可能です。また、視聴回数がキーになります。

視聴回数が視聴率に変わる

 欅坂のサイレントマジョリティが1000万回を超えたとか、ベビメタルのギミチョコが5000万回を超えたとかです。視聴の判断基準になります。つまり、マーケティングそのものが変わる。

 全体としてのコンテンツは図書館と同じように本棚です。つまり飾りです。

OCR化した8冊

2016年09月06日 | 6.本
『地域創生成功の方程式』

 6次産業化政策の登場

 全体最適・価値共創の思考

 青森市

 富山市

『学びと育ちを支える学校図書館』

 『図書館戦争』

  「記憶を還元する」--図書館--

  『図書館戦争』

  「こんな世の中あり得ねえだろ」

 〈図書館は成長する有機体である〉(第五法則)

  「部分」と「全体」、そして「成長する有機体」

  学校図書館も「成長する有機体」である

  最後に--ランガナタンについて--

『生きるユダヤ教』

 序

  ユダヤ教・ユダヤ人のイメージ

  身近なユダヤ

  ユダヤ教について学ぶ意義

  カタチにならないものの強さ

 なぜ、ユダヤ教を学ぶのか

  教育の力、強靭な思考力

  ユダヤ教徒・ユダヤ人迫害を自分のこととして考える

  改宗は新たな問題の始まり

『映画は社会学する』

 消費社会論

  「消費社会」を生きる

   「生き方」を買う:『下妻物語』

   「私自身のカラダ」を買う:『ヘルタースケルター』

   消費の女性的モデル

  ボードリヤールの「消費社会」論

   「消費社会」の出現と消費社会論の系譜

   記号論とは

   ボードリヤールの記号消費

  消費社会のもたらす疎外と孤立

   資本主義の帰結としての消費社会

   消費社会における人間の疎外:「スクラップ集団」

   孤立する消費者たち:『スワロウテイル』

   消費社会を生きる「強さ」?

 監視社会

  監視カメラの世界と個人データ管理の世界

   監視カメラの世界:『ゴールデンスランバー』『踊る大捜査線』

   データと監視:『プラチナデータ』

   管理社会としての監視社会:『サイコパス』

  監視社会についての論点

   身体の消失

   情報化

   プライバシーと自由

   管理機構としての監視システム

  監視社会の現在と抵抗の可能性

   監視社会における主体

   快楽としての監視:『テラスハウス』

   監視社会に抵抗する可能性

『ナチスのキッチン』

 台所からみたナチズム

  もっとも保守な習慣

  女性動員の空間

  身体は総統のもの!

  武器としての調理用スプーン

  ラジオによる台所の統制

 「主婦のヒエラルキー」の形成--母親学校、更生施設、そして占領地へ

  母親学校

  マイスター主婦

  更生用住宅--ハスフーデ

  ポーランドのドイツ人主婦たち

 無駄なくせ闘争

  台所の敵と戦え

  闘争の十ヵ条

   「無駄なくせ闘争」は民族の価値ある財産を救う。食糧の自由に貢献する。

   勤勉な主婦であれば、食べものをけっして無駄にしない。

   いつも、旬のもの、ドイツの土地で収穫したものを買え。

   手塩にかけて育てられた農作物を購入する人は、それを適価で購入することによって、質の高いドイツの農業生産に貢献するのだ。

   必要以上に作物が生産され、台所、地下貯蔵庫、食料倉庫において食べものを傷みから守ることができる場合にかぎり、買いだめをせよ。

   汝が買いだめしたものを、宿敵たち、つまり汚れ、暑さ、霜、害虫から、日夜防御せよ。

   出現したすべての有害生物と即座に、そして精力的に戦え。なぜなら、その有害生物から百万の破壊者が産まれるからだ。

   愛は食事によって表現できる。そのために、食事は丹誠込めて、十分な理解をもったうえで、調理せよ。

   良き主婦は。食材の残りを目的に応じて再利用する。それによって家參に費やされる夕金を蓄えよ。

   無駄なくせ闘争は、ドイツ民族が作った収穫物への感謝なのだ。

  実践的主婦

  「お金持ち」ではない主婦の「闘争」

 残飯で豚を育てる--食糧生産援助事業

  豚のエサの回収

  残飯を運ぶ労働者と役人

 食の公共化の帰結

  栄養学に支配される「囚人」と「国民」

  空間に埋め込まれる主婦たち

『図書館ノート』

 沖縄の高校生が『図書館戦争』を読んだら

 『23分間の奇跡』と図書館

 沖縄の高校生が『図書館戦争』を読んだら・二〇一五

 葬儀に茶色い靴 四〇年間、誰も使わなかった百科事典

『真説 毛沢東 下』

 朝鮮戦争を始めた理由 一九四九~五〇年 ★毛沢東五五~五六歳

 朝鮮戦争をしゃぶりつくす 一九五〇~五三年 ★毛沢東五六~五九歳

 大躍進--国民の半数が死のうとも 一九五八~六一年 ★毛沢東六四~六七歳

『禅と掃除』

 掃除とは、自分の心を洗い、磨くこと

 清らかが空間に身を置くと、自然と心も整うようになる

  部屋の乱れは心の乱れ

  掃除とは、己の心を磨くこと

  心を整えるには、まず所作を整える

  靴をきちんと揃えるということ

  トイレ掃除で心を洗う

  何かを得るよりも手放すことを考える

  「見立て」の心でものの命を使い切る

  ほんとうの「もったいない」を知る

  あるべきところに、あるべきように

  掃除を通して足るを知る

 掃除がもたらす大きな気づきと、よい縁、そして生きている実感

  掃除の効用としての「ひらめき」「決断」

  朝の掃除でその日一日によい縁を結ぶ

  掃除で体を使えば、自分の命を実感できる

  朝の空気を味わい、四季の移ろいを感じる

  無心になれる時間と場所を持つ

清らかが空間に身を置くと、自然と心も整うようになる

2016年09月06日 | 7.生活
『禅と掃除』より 掃除とは、自分の心を洗い、磨くこと ⇒ 身体は「外なる世界」。だから、部屋も家も「外なる世界」です

部屋の乱れは心の乱れ

 「禅と掃除」にまつわる一番大事なことからお話ししましょう。

 あるとき、若い男性の方とお話をする機会がありました。仕事や人間関係などで悩みを抱え、「坐禅でも始めたら、少しは心の迷いも晴れるでしょうか」とおっしやいます。

 私は、アパート暮らしというその若い方にお尋ねしました。

  「あなたのお部屋はきれいに片づいていますか」

 すると、そんなことが自分の人生の問題といったいなんの関係があるのか、と思ったのでしょう。怪訂そうな顔で、こう返されました。

  「めったに掃除はしないので散らかっています。でも一人ですから、誰に迷惑をかけるわけでもないし、別にたいして困ることもありません。どうせ寝に帰るだけですし」

 それを聞いて、ああ、この方は大変な考え違いをされているな、と思いました。

 部屋には、そこに住む人の心の状態がそのまま現われます。日頃から掃除を欠かさず、きれいに片づいた部屋で暮らす人は、心もきちんと整い、自分のやりたいこと、やるべきこともよくわかっています。ですから余計な不安や悩み事などに煩わされることも少ない。

 きれいに整えられた空間では、心もすっきりと整えられ、クリアになるのです。

 ところが、衣類や雑誌や生活雑貨などが散らかり放題で足の踏み場もないような部屋に住んでいる人は、やるべきこともよくわからなかったり、集中力を欠いたり、気ばかり焦っていらいらしたり、あれこれ思い悩んで欝々とした感情にとらわれたりしがちです。

 乱雑な空間では、心も落ち着かず、迷いや妄想、執着心などが生じやすいからです。それはごみの数だけ、ものが散らかっている分だけ、心が雑念に支配され乱れた状態です。

 部屋の乱れは、心の乱れの証なのです。

 私はその若い方に申し上げました。

  「部屋が乱雑なのはあなたの心が乱れているからで、誰にも迷惑をかけていないどころか、あなた自身が雑念にとらわれ大変な迷惑を被っているのです。坐禅を始めるのはとてもよいことですが、その前に部屋をきれいに片づけて、心を整えてみてはどうですか」

 この方に限らず、世の中には、部屋がどんなに散らかっていようが、自分は平気だ、かまわない、という人がいます。掃除をしたほうがいいのはわかっているのですが、面倒だからそのままほったらかしにしている、という人も少なくないでしょう。

 ひょっとしたら、この本を手に取ってくださったあなた自身がそうかもしれません。

 しかし、それはほんとうは、とても怖いことなのです。

 部屋が散らかり放題でも平気なのは、汚れた状態がもはや当たり前で、汚れに対する感覚がすっかり麻挿してしまっている証拠だからです。それはそのままあなたの心の乱れの深刻さを示しています。そのことにぜひとも気づいていただきたいと思います。

 人間というのは、元来がものぐさにできています。ですから、ちょっと油断をするとすぐに楽なほうへ楽なほうへと流されてしまう。面倒なことはしたくないし、なるべく避けて通ろうとします。住まいの掃除などは最たるもので、放っておけば、すぐさま塵や埃がたまり、あちこちにものが散らかってしまいます。人は易きに流れやすいのです。

 これに歯止めをかけるには、まず身の回りを整え、自分の生活を律することです。お釈迦さまもおっしやっています。「心は乱れやすい。だから律する必要がある」と。

 幸い人はきれいに整えられた空間に身を置くと自らを律する気持ちが強くなります。それまでなら「面倒だから、ま、いいか」と後回しにしていたような些細な汚れであっても気づけばその場ですぐにさっとひと拭きできるようになる。心が整ってくるからです。

 掃除は、心を整え、律するための大事な大事な最初の一歩なのです。

掃除とは、己の心を磨くこと

 禅には人が美しく丁寧に生きるための知恵がたくさん用意されています。

 たとえば、「一掃除二信心」という禅の言葉があります。これは、最初にやるべきは掃除であり、信心は掃除が済んでからのこと。塵や埃をきれいに払い、丁寧に拭き清め、空間をきちんと清浄に整えてこそ、心、が整い、信心も生まれる、という意味です。

 信心をするには清らかな空間が必要であり、そうした清浄な空間に身を置かないと心も整わない、美しくならない、というのが禅の基本的な考え方なわけです。

 このため修行僧のいる禅寺では、掃除を坐禅と同じくらい大切な修行ととらえ、徹底してこれを行ないます。一日三回(朝食前、午前中、昼食後)、本堂や諸堂の隅々まで雑巾がけをするほか、風が強く、埃が舞う日などはさらにI、二回拭き掃除をします。また、境内の掃き掃除もお天気を見計らいながら随時行ないます。

 これだけ念入りに掃除をしていますから、塵や埃はほとんどつきません。境内も本堂もほんとうにきれいです。それこそ廊下などは鏡のようにピカピカで顔が映るほどです。

 それでも修行僧たちは、日々何度も行なう掃除を欠かしません。なぜでしょうか。

 掃除というのは、汚れをとるのが目的ではなく、心を磨くために行なうものだからです。

 このため禅寺の修行僧は、掃除についてこう教えられます。

  「己を磨くつもりで床を磨きなさい」

 人はみな純粋無垢な心を持って生まれてきます。赤ちゃんの心はまっさらで一点の曇りもありません。誰もが「仏性」(仏様になれる可能性)を持って生を受けるのです。

 ところが成長するにつれて人の心には、さまざまな塵や埃がたまるようになり、だんだん仏性が曇っていきます。欲、怒り、執着、嫉妬、偏見などは最たるもので、これらは放っておけば、垢のようにこびりついて、心にまといつきかき乱す煩悩、雑念となります。

 それに振り回され、もがき、苦しむのは、ほかの誰でもない自分自身です。であるからこそ、心に塵や埃がつかないようにいつもきれいに磨いておく必要があるのです。

 坐禅が「静の修行」なら、掃除は「動の修行」です。掃除をするときは、ただ掃除をすることだけに集中します。掃くときは掃くことだけに、拭くときは拭くことだけに、目の前にあるいまこの瞬間に没頭する。禅の修行の根本です。そうやって仏性を磨き出す。

 汚れを一つ落とす、ごみを一つ片づける。そのたびに、一つ、また二つと、心が軽くなり、気持ちがすっきりします。心の曇りが取れ、整っていくのです。

 みなさんがお家で掃除をする場合、最初のうちは「面倒くさい」という思いが勝ちすぎて、なかなか掃除をすることに集中できないかもしれません。

 たとえば、掃除のしにくい部屋の隅を「面倒だから」とやらなかったり、やり残した場所があったことに気がついても、「いいや、今度で」とそのままにしてしまったり。散らかり放題の部屋にお住まいなら、心の乱れも大きいですから、なおのことそ

 そんなときは、自分の弱さを嘆いたり、克服しようと無理して立ち向かうのではなく、むしろいまこの瞬間に意識を集中して、それまで以上に、ただひたすら丁寧に掃除をすることです。雑念を抱えたままでは、掃除はいつまでたっても面倒くさい苦役のままです。

 大事なことは、ただ無心になって目の前の作業に集中すること。無念無想で体を動かし続けることです。そうすれば、自ずと心は整うようになり、たとえ掃除のやり残しがあったとしても、躊躇することなく、すぐに片づけることができるようになるはずです。

 そうやってきれいに整えた部屋を見るのは、ほんとうに気持ちがいいものです。

 その清々しさこそが、自分の心が磨かれた証なのです。

監視社会についての論点

2016年09月05日 | 3.社会
『映画は社会学する』より 監視社会

身体の消失

 ライアンが現代の監視社会の重要な特徴として指摘しているのが、監視の対象としての身体の消失である。注意しておきたいのは、ライアンのいう「身体の消失」は、監視システムの技術的発展のなかで、監視の対象が身体からデータヘと移行したという意味ではないということだ。

 近代社会は、そもそも、人びとの社会生活におけるコミュニケーションの範囲を、身体の直接的な現前を前提として展開するものから、交通や通信メディアの発達によって、身体的に知覚可能な範囲を超えて大きく拡大させた社会である。近代社会におけるコミュニケーションが身体的現前を前提としなくなったからこそ、身体の直接的監視はじゅうぶんに機能しない。したがって、近代社会における監視は、技術的発展に合わせてその対象を身体からデータヘと移行させたというよりも、データを対象としない限り監視の意味を成さないのだ。ライアンの考える「監視」は、社会のなかにまず存在していて、その対象が情報技術の発展とともに身体からデータヘと移行していくものではない。むしろ、その逆で、社会的コミュニケーションが身体を前提としなくなってきたからこそ、ライアンの考える「監視」が出現したのだ。

 その点、現在の監視社会の象徴でもある監視カメラは、対象の身体をカメラの視野に収める点で身体を対象としており、ライアンの指摘と矛盾しているように見える。しかし、監視カメラの映像のみでは、監視はじゅうぶんに機能しない。映像のみで捉えられたからこそ、『ゴールデンスランバー』では青柳の偽物の姿を青柳本人の姿と思い込ませることが可能だった。また、『プラチナデータ』において、監視カメラに捉えられた人物の映像から顔貌や歩容が抽出され、それがDNA捜査システムのデータベースと照合されて神楽として特定されたのだった。

 ライアンの考える「監視」は、コミュニケーションが、社会の近代化によって、身体の直接的現前を前提としなくなったことで現れる「監視」であることは強調しておきたい。

情報化

 そして、ライアンの考える「監視」は、「身体の消失」という前提が設定されることで、情報化を必然的にともなう。監視の情報化は身体の消失と表裏一体なのだ。

 社会の流動性が高まっている現代社会においては、コミュニケーションの範囲が身体の直接的な現前を前提としなくなった。だからこそ、監視は身体を対象としなくなる。それでは何か監視の対象かというと、「個人から抽出した断片的な事実」である。つまり、氏名・住所・生年月日・電話番号といった個人情報、クレジットカード番号やその利用記録、ネット・ショッピングの購入履歴、ウェブ・サイトのアクセス記録など、それぞれ断片化されたデータであり、それらが監視の目的別に収集・分析され利用されている。したがって、監視社会において、ひとりの個人は、データの束として把握される。

 しかし、個人が断片化したデータやそれらの束として把握されるからこそ、データの記録・保存・管理・処理を、コンピュータに代表される情報技術に委ね、効率性の高い監視が可能になるのである。情報技術に支えられたデータの監視によってもたらされるのが、M.ポスターが「超パノプティコン」とよぶ状況である。「パノプティコン」とは,常時監視されている(かもしれない)状況に閉じ込めて囚人を規律訓練する監禁装置である。M.フーコーは、パノプティコンによる監禁を、規律を内面化する近代的主体の生成の問題として論じた。監視の情報化によって登場した超パノプティコンは、一方で、パノプティコンの監視可能性を徹底するが、他方で監視される主体に対してパノプティコンとは対照的な帰結をもたらすとライアンは指摘する。「パノプティコンは、自分の内的生を改善しようとする主体を産出する。対照的に、超パノプティコンは、対象を構成する。つまり、アイデンティティの分散した個人、これらのアイデンティティがコンピュータによってどのように解釈されるのか気付かずにいる個人を」。

 つまり、断片的なデータとその情報処理としての監視は、監視する側だけでなく、監視される側にとっても、個人を断片的データの束として出来させてしまうのだ。近年のライアンは、こうした監視の情報化の結果、断片的データによって個人が格付けされ「社会的振り分け」が行われることの問題を強調している。

プライバシーと自由

 監視がすみずみまで行き届いている監視社会は、プライバシーを失った社会である。『踊る大捜査線』の監視カメラ・システムが「極秘裏の試験運用」だったのは、「プライバシー問題」に配慮してのことだった。『サイコパス』の世界は、街中に設置されたセンサーによって、人びとのサイコパスが常にチェックされており、異常が検出されるとそれを排除するための対応が即座にとられるようになっていた。個人の精神状態の常時監視など、プライバシー侵害の究極のかたちであろう。

 もちろんこれは虚構のSF的世界の話である。しかし、意識することなく情報技術の恩恵を受けている(ユビキタス化した)現在の情報環境について考えてみると、移動体端末のGPSや、クレジットカードの利用記録、ネットワークのアクセス記録など、私たちは日常生活のなかで個人情報を常に発信している。そうした情報が、追跡可能な状況におかれているかぎり、上記のSF的状況とは程度問題でしかない。

 たしかに現代の監視の技術は私たちのプライバシーを侵害している。しかし、それは私たちにとって「不自由」であろうか。たとえば、プライバシーが侵害されているからといって、私たちはGPS機能搭載の携帯電話を手放すだろうか。おそらく私たちはそうしない。それが私たちの日常生活のなかに浸透していて、それを手放すことの方が逆に「不自由」を招くからだ。プライバシーを侵害する技術が、私たちにより自由な生活をもたらしているのだ。『サイコパス』の世界でも、人びとが精神状態の常時監視を許容するのは、それによって平穏で安心な社会で暮らせるからだ。

 監視社会では、基本的に人びとが自由に振る舞うことは許容されている。しかし、その行動が常に監視されており、社会秩序を脅かす行動だと判断されれば、即座に排除される。この監視と排除によって社会秩序が維持されている。私たちの自由は、監視する側が許容する範囲での「自由」である。それは、監視する側から「自由」を与えてもらうために 自分たちのプライバシーを自発的に放棄しているということでもある。

管理機構としての監視システム

 『サイコパス』の世界が描いていたように、監視社会の究極の目的は、「常に見張ること」そのものではなく、「常に見張ること」によって「社会をコントロールすること」である。したがって,「常に見張ること」がどのようなしくみで「社会をコントロールしているのか」を理解する必要がある。つまり、管理社会における「管理機構が、「監視すること」とどのように関係しているのかを捉えなければならない。ここは、G.ドゥルーズに倣い、管理社会とフーコーの規律社会との違いから確認しておきたい。

 フーコーの描く規律社会の要点は、パノプティコンに逸脱者を閉じ込めてルールを内面化させるという、監禁による規律訓練である。ルールの内面化によって、人びとは、監禁装置の外でも、ルールから逸脱せずに振る舞う。かれらは、自発的にルールを遵守するようにつくりあげられる(主体化される)のだ。

 しかし、近代化の進行とともに社会の流動性が高まるにつれ、ルールの内面化は、社会をコントロールする有効性を失っていく。流動性の高い社会においては、ルールを内面化してしまうと、その変更(新たなルールの再内面化)には大きなコストをともなうため、変化に対応しながら社会をコントロールするのは難しいからだ。

 そこで、社会の変化に柔軟に対応するため、人びとには自由に行動することが許容される。しかし、この自由は無制限の自由ではない。無制限に自由な行動によって、万人が万人に対して闘争する自然状態に陥らないためにも、この自由は一定の範囲内にコントロールされなければならない。コントロールする側は、人びとの行動をチェックし、許容範囲を逸脱した行動を見つけるとそれを速やかに排除する。こうして人びとの自由な行動を一定範囲内に収めるのが「管理社会」であり、それを実現するしくみが「管理機構」である。

 憲法学者のL.レッシングは、人間の行動を制約・誘導する手段として、法、社会的規範、市場と並んで重要なのが、ネット空間や社会空間の構造「アーキテクチャ」だと指摘する。人間の行動が一定の範囲内に収まるように設計された環境(客の長時間滞在を制限し、回転率を上げるために飲食店が椅子を硬くするなど)がアーキテクチャだが、これがドゥルーズのいう「管理機構」に重なるのは明らかだろう。

 『踊る大捜査線』では、犯罪監視システムに常時監視されることによって「みんな隠れて何もできなくなる」と語られていた(監視システム・オペレーター小池茂〔小泉孝太郎〕のセリフ)。その意味では、人びとを「見張り続ける」さまざまな監視装置を張り巡らせた現代社会の環境こそ、行動を逐一チェックすることで人びとの行動を一定の範囲内に制限・誘導するアーキテクチャ=管理機構である。社会は監視システムによってコントロールされる。人びとを「最大多数の最大幸福」へ導くために社会全域を常時監視している『サイコパス』のシビュラは、典型的なアーキテクチャ=管理機構である。