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ユダヤ教というカタチにならないものの強さ

『生きるユダヤ教』より ⇒ 国民国家の後は「国境のない世界」。その時にユダヤ教から学ぶものが多い。コミュニティ型のムスリムと共に。

ユダヤ教について学ぶ意義

 要するに、日本におけるユダヤ教の認知は断片的であり、偏りがある。日々のニュースの中で、特にイスラエルとアラブ諸国との対立として報道される中東問題のニュースの中で、そして、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害問題を通して、「ユダヤ人」という言葉をしばしば耳にする。しかし、その実ユダヤ人がどんな人々なのか、彼らが、なぜ「ユダヤ人」という括りにされるのか、そして、彼らが何をどのように信じているのかの理解は進んでいない。また、どちらかというと、上記のような日本でのマスーメディアで挙げられる「ユダヤ人」像は、「かわいそう」であり、中東問題でスポットを浴びる際のユダヤ人の国家としてのイスラエルは、「ひどい」というイメージを喚起する。いずれにせよ、マイナスイメージが先行する。同時に、いつの間にか、ユダヤ企業の製品は日本の中に浸透している。冒頭のショア(ホロコースト)フェアのように、市場の関心は絶えず移り行く。かわいそうなユダヤ教のイメージを残して立ち消えとなる。「ショア」という用語も定着しそうな頃にはフェアも終わってしまう。

 本書は、このような断片的な日本のユダヤ教理解に対して、ユダヤ教を紹介しながら、ユダヤ教の歴史と教えの中から、我々の日常の糧になるものを紹介しようとする書である。特に、古今の具体的なユダヤ教徒・ユダヤ人の生きた足跡を通して、また同時代の、あるいはその後のユダヤ教が彼らをどのように解釈したかを通して、ユダヤ教を理解することを目的とする。

 そもそも、ユダヤ人は空白の二千年間どこにいたのだろうか。紀元七〇年、それまでのユダヤ教の中心であったエルサレム第二神殿が時のローマ帝国によって滅ぼされ、ユダヤ人の自治国家は滅亡した。以来、一九四八年、紆余曲折を経てイスラエル国家が誕生するまで、ユダヤ人やユダヤ教を中心とする国家は存在しなかった。その間ユダヤ人は、中東、ヨーロッパのイスラーム圏やキリスト教圏の諸国に寄生しながら、生き延びてきたのである。さらに、アメリカ新大陸に多数移住した。同時に、南米、インド、中国、オーストラリアにまでも居住圏を拡大した。イスラエルとて、ユダヤ人だけの国家ではない。また、今なお、イスラエルにいるユダヤ人よりもイスラエル外にいるユダヤ人の方が、人数は多い。このように世界中に拡散する過程で、二千年の歴史の中で消滅し、伝説の宗教と化してしまっても何ら不思議はなかった。実際、そのような危機にも何度も直面してきた。しかし、そのたびに、ユダヤ教は逞しく立ち上がり、生き続けてきたのである。

 そのユダヤ人を支えたユダヤ教の教えや発想の仕方から、我々は多くのことを学ぶことができる。とかく、閉塞感の漂う世の中にある今の時代、閉塞的状況を生き延びてきたユダヤ人の軌跡、数々のピンチから立ち上がってきたその姿から、私たちもこの世知辛い世界を生きる力、ヒントを学ぶことができるのではないだろうか。ユダヤ教が大事にしていることは何か。それは、社会の中で、今この世の中で生きていくことである。だからこそ、ユダヤ教徒は二千年の時を超えて、今なお生き続けているのである。生きることを中心において生き続けてきた、そしてさらに生き続けていく宗教である。その軌跡、生き方、考え方から大いに学ぶことができるのではないだろうか。

カタチにならないものの強さ

 著者ら自身、ユダヤ教の信者でもない。それなのにユダヤ教文献世界に惹きつけられてきたのはなぜか。著者らは特に、ラビ・ユダヤ教文献を専門とする。彼らの書物には実に無駄が多い。本質から外れたような紆余曲折的な議論の応酬であったりする。あるいは、聖書の実に細かい部分に拘泥していたりする。しかし、そのような無駄な議論の中に、何気なくきらりと輝く一言が紛れていたりする。ユダヤ教には文献しかなかった。聖書とそこに書かれた言葉しか残すことのできなかったユダヤ教にとって、言葉は神からの贈り物だ。だからこそ、拘わるのだ。そして一字一句に拘わり、いわゆる本質や中心や主題からずれたところまでにも神の意図を探ろうとする。

 そして、考えてみれば、神殿というものを失くして以来、ユダヤ教に残されてきたのはこの本、言葉たちだけである。ラビ・ユダヤ教は、口伝トーラーというシステムを全面に押し出してきて以来、こうした解釈の伝統を全て口伝できるように記憶に叩き込むことにした。そして、世代から世代へと伝えることにした。記憶されたものは、なんのカタチにもならない。しかし、カタチにならないからこそ、他者はそれを破壊することができなかったのではないか。政治的には支配を受けながらも、カタチにはならないからこそ、壊されることはなかったのではないか。そして、そのカタチにならないものを生み出すのが強靭な思考力であり、想像力であり、創造力である。そのカタチにならないものの力強さをユダヤ教文献の中に感じるからこそ、著者らは魅惑され続けてきたように思う。実際には、およそ宗教書らしからぬ、ありがたくもない、枝葉末節の字句に拘泥した議論が展開する。しかし、このような議論の集積が、カタチになるものを持てなかったユダヤ教が生き延びるエネルギーになったのである。

 こうした文献を読み込んでいくと、本質的なこと、役に立つこと、中心的なことと、そうではないこと--非本質的なこと、無用なこと、周縁的なことーなどという線引きが曖昧になってくる。何か重要で何か重要でないか、など我々には計り知れないものがあるのではないか。何か無駄で何か無駄でないかなど決められることではない。いや、無駄なものなど実はないのではないか、という気がしてくる。

 とかく、役に立つもの、カタチになるもの、効率的なもの、結果が出るものをよしとする昨今、カタチにならないもの、無駄なものは、切り捨てられてしまう。しかし、ユダヤ教が生き延びてきた軌跡から、無駄に見えるものが生み出す力強さを我々は学びとることができるのではないのだろうか。それをエネルギーに変えるのがユダヤ教の人間力ではないだろうか。

 著者らの足掛け十年にわたるイスラエル留学を通して体験した限られた世界ではあるが、二千年にわたって伝承されてきた文献の中に、苦難の歴史を潜り抜けてきた民の生きる知恵や珠玉の言葉、思いがけない考え方、発想に、心動かされ、勇気づけられてきたのである。ユダヤ教の中で、その文献の中で、人間が逞しく生きていく姿の中に、時空を超えて教えられる姿があるのではないだろうか。ユダヤ教を通して生きていくための「人間学」を目指したいと思う。

 このような性格上、本書の主張には必ずしも科学的、学術的ではない部分もあるかもしれない。ユダヤ教徒、ユダヤ人の辿ってきた軌跡の意義を評価する場合には、歴史的事実をさらに深読みすることで、その事実が果たした心理的、精神的意義が導き出される場合がある。それは、かならずしも科学的データで裏付けできない場合もある。しかし、生き方を学ぶという目的においては、それも必要なのではないだろうか。

 本書の構成であるが、第一章では、ユダヤ教とその歴史を概論する。第二章では、ユダヤ教のエッセンスであるシェマァ・イスラエルという日々ユダヤ教徒が口にする重要な祈りを考察する。第三章では、ユダヤ教徒の実生活を概観する。第四章は、ユダヤ教の代表的な人物伝であり、具体的な人物像の生き様、生涯の軌跡を通してユダヤ教の諸相を知る。第五書では、書物の民と称されるユダヤ教の様々なテクストを分析する。第六章では、ユダヤ教の中でもピユートという独特のテクストに焦点を当て、これまでの章で扱われてきたテーマや人物に関連するピユートを読んでみる。

 最近、ユダヤ教の概説書は確かに出版されてはいるが、実際のユダヤ教徒の生き様、そして、ユダヤ教の根幹にある様々なテクストを、ある程度の分量で読める書はなかったのではないだろうか。また、ユダヤ教の典礼詩ピユートについての解説書は日本では皆無である。ピユートは聖典や聖典解釈のユダヤ教におさまりきらないユダヤ教の生き生きとした姿を伝える文学ジャンルである。本書は、ユダヤ教徒の生きた様を通して、そして、今に生きるテクストを通して、ピユートに見られる生き生きとしたユダヤ教の姿を通して、生きる力を学ぶために執筆された書である。
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