goo

SFDCのクラウド

SFDCのクラウド

 アマゾンでのクラウドの使い方と、SFDCのクラウドの使い方を合わせていきます。SFDCのクラウドには制約が多すぎる。クラウドは使った分を払うというのが目的です。役割です。

 作ることではなく、使うことに対してのクラウドです。SFDCのマーク会長に言いたいのは、その部分です。そういうことをやっていると、アマゾンとかグーグルにクラウドを取られます。使うことを主にしないとだめです。

 これは、その先のコミュニティとかコラボレーションに対しても同じです。競争相手はいくらでも出てきます。それをどのように組み立てていくのか。組み立てる技術にお金を使うよりも、使うことでどのようなメリットがあるのかを示すことです。

 ポータルはSFDCにとっては、一大きな最後の賭けでしょう。企業もそれによって、何が変わるのか、変わるまでの距離をどう示すのか。その意味では車と同じかもしれない。使うことによったメリット、それでお金を払う、それがベースになる。

 だから、シェアが成り立ちます。クラウドはシェアです。そのものです。本来、クラウドの方が安いに決まっている。ただし、5年の縛りをしたから、イーブンになるでしょう。

 5年もクラウドを使うことは矛盾している。その中で進化するから、同には成り立ちます。まあ、それぐらいは持つでしょう、次の世界まで。私としては2015年まで持てば、地域のポータルにつながります。

 半年間でSFDCを使えるものにしておきましょう。というか、使うことを目的とした、環境に変えていきましょう。これが私の視点です。そこでの仮設実証を次に生かします。

企業情報システムとの関係

 そのためにも、基幹系、情報系のデータ情報入力部分、つまり、企業情報システムには触らない。データをいかにして、共有しながら、お客様、スタッフ、企業が使っていくのか。そういう情報共有をベースにします。

 この部分は始まったばかりです。ウェブソーシャルそのものの世界です。どんどん変わります。そんなところを企業情報システムでは対応できません。ついていけません。意味がないです。

 前のポータルでは、この5年間で、変えたかったけど、結局変えられなかった。あまりにも、企業情報システムに任せてしまったのが、その原因です。全体の流れをもっと、シンプルにさせないといけない。

 それと企業に縛られた人間とかコスト計算では、変えることはできない。だから、直に半年間、やります。外の世界ですけど。目的は使う方に考え方を変えることです。そうなった時の強みを示すことです。

企業の中の個人がターゲット

 クラウド化する企業で一番変わるのは、企業の中の個人です。企業情報システムでは、仕事でしかできないから、個人は分化することはできない。

 クラウドでいろいろな側面を持たせて、発信させることで、個人の分化はかのうになります。該当の分野に新しいクラウドを対応させていけばいいのです。個人が生きてきます。その意味では、企業の中で生きる個人をターゲットにします。

 それはそんな難しいことではない。クラウドを使い倒すことです。そうすれば、変わっていきます。インターネットで使っている部品を、イントラ上に持ってこれるかは、重要な観点です。ツイッターからチャッターに転用した、SFDCのマーク会長のアイデアは秀逸でした。

 個人でもマーケティングができるようにした、アマゾンの小売システムみたいなものかもしれません。お客様はネットの上にいるのだから、ネットでサービスをしていけば、変わります。デジタル書籍も同じ環境になりつつあります。本という物理的な物が主だったアマゾン自体もキンドルで変わろうとしています。

 その時に、個人としてのネットではなく、いかにコミュニティを作り上げるかです。それならば、力になります。個人のオモチャから、武装化できます。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

生活パターンを変える

まじめに創出する

 こうなったら、司法試験の受験のような体制をとるしかないでしょう。時間を決めて、目標を決めて。

 答えは自分の中にある。司法試験のように、3年も4年も掛けることはできない。後,一年です。


新パソコンで生活パターンを変える

 パソコンで、会社と同じことができるので、生活パターンを変えます。

 終日の夜間は未唯宇宙をやります。土日に本の処理を完璧に終えます。しっかり読み今度、その本が存在していることを示します。

 60歳・70歳のテーマの歴史編にも、これで取り掛かれまい。図書館での作業も考えられます。何をテーマにするかです。ゼロから考えましょう。全体の未唯空間と同時に、サブテーマとして、一年間考えます。

ポータルの進化

 販売店で使うポータルの進化としては、まずは、アイデアボックスみたいなものです。一つのテーマに対して、皆がそれについての意見を真摯に上げていけるようにします。スタバとか経済産業省でのやり方を見習います。なかなか、広がらないけど、個人の資質を上げるのは、ここから入るのが妥当でしょう。

 そこで責任を持って、意見が言える状態を作り出します。今のアピール・アンケートシステムに追加しない。データを上げるかだけでなく、お客様の代表として、スタッフの意見を上げていけるようにします。

 販売店経営者が使っているFacebookは食べたものとか会社イベントの紹介です。いいね!と言わないといけない内容です。あれで何をアピールしているのか。意見を表出できる環境ではない。酒での付き合いみたいな感じです。自分たちにとって、居心地いい世界を作りたいだけでしょう。そんなものは、すぐに疲れますよ。「ソーシャル疲れ」です。

アマゾンのペソス

 アマゾンのペソスが元アップルの技術者に電子書籍リーダーの開発を依頼した。その時の誘い文句は例によって、「世界を変えるため」。

 電子書籍の始まりもアラン・ケイのダイナブックです。最初に重いありきです。

 アマゾンで本を買う時に、近くの図書館にあるかどうかわかる。そこに対して、予約が掛けられる。そんな世界を私は望みます。本というものは、もっと立体的なものです。

キンドルの位置づけ

 パソコンの前で、ケータイの前でやるよりも、こういうところで寝ながらやった方がいい。ただし、まとめるにはエクスるは必要です。今回のパソコンはバックアップにします。

 机のまわりにパソコンみたいのが5台あります。本当に難しい。とりあえず、2台をまとめて、新しい1台に変えました。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「本質」

『哲学で何をするのか』より 「絶対」の探究--ニーチエ以前の哲学

「本質」という言葉は、通常の日本語では、ものごとの「核心」「真相」といった意味で用いられるが、哲学での使い方はやや異なっている。

哲学の古典的入門書である山本信『哲学の基礎』にはこう書かれている。

「[あるものが]どんなものかを漠然と知ってはいるが、その知り方が本当なのかどうか考えなおすことがある。たとえば「生命」とか「人間」というものについて何となくわかっているつもりだったのを、あらためて問題にするような場合である。そこで期待されている答は、そのものの本来的性質、すなわち「本質」をあらわす定義にほかならない。……[本質は--そのものの存在を成り立たせている「原理」として捉えられる……」。要するに、「それなくしては、そのものがそのものでなくなるところの性質」が「本質」である。

小学生が三角形を作図したとしよう。辺が四本あったり、辺は三本でも曲がりくねっていたりすると、「それは三角形ではない」と言われる。逆に、「三本の線分に囲まれた図形」であることは、目の前の図形が三角形であるための「条件」であり、三角形の「定義」である。

だからこそ、きちんと「三本の線分に囲まれた図形」を描くことは生徒が作図するうえでの「目標」「目的」となる。逆に、「三角形」の本質が「三本の線分に囲まれた図形」だからこそ、生徒はその通りの図形を描こうとする。それゆえ、「三角形」の本質は、生徒がその図形を描くよう努力するにいたった「原因」であり、あるいは古今東西、無数の生徒や技師などによって作図された無数の三角形の「母型」である。

個体にとっての「条件」「定義」「目標」「原因」「母型」としての本質は、各個体がどのように、また、どうして生まれるのかを説明し、また、本質が各個体を可能にする。あるものの「存在をなりたたせている「原理とは本質だと山本が述べたのは、そのためである。

個物と比較すると、本質の特性がさらに明らかになる。

個々の三角形やペットボトルはすべて、いつかどこかで生まれ、やがて消滅する。個体が生成消滅するのは、人間などについても変わらない。

それに対して、「三本の線分に囲まれた図形が三角形である」ことは、「いつでも、どこでも、誰にとっても」あてはまる。それゆえ、本質は普遍的である。普遍的であるものはつねに存在するのだから、本質は、個物・個体・個人のように生成消滅せず、永遠で無時間的である。

個体は多様で無数にあるが、本質は普遍的なので、つねに同一で単一、唯一である。

また、三角形をどんなに精密に作図しようとしてもそれは不可能であるように、現実の個物はつねに不完全である。それに対して、本質について不完全とは言えず、完全である。また、個物は視覚や触覚など五感によって感覚的に知覚しうるが、本質は知覚不可能である。

このような特質をもつ本質のあり方についてはさまざまな立場が可能であり、それをめぐって西洋では、二千年以上にわたって、さまざまな議論が展開された。

まず、本質がどこにあるのか考えてみよう。

本質は完全で永遠で普遍的だが、ひとが生き、暮らしている現実世界にそのようなものを見出すことはできない。太陽や山、動物や人間、道具や石とならんで、それぞれの本質がどこかの路上や博物館などにあるわけはない。こうして、本質は、現実世界とは別の世界、「此岸」ならぬ「彼岸」にあるという考えが生まれる。

たとえばプラトンは、別世界にあるそれを「イデア」、彼岸を「イデア界」とよんだ。しかも、本質は個物が成立するための原理である以上、イデア界こそが真実の世界であり、われわれが生きている現実は、イデア界の「影」でしかない。

イデア界と現実界との関係を物語るのが「洞窟の比喩」だ。プラトン晩年の『国家』には次のように述べられている。「地下にある洞窟にいる人間たちを思い描いてもらおう。人間たちはこの住まいのなかで子どものときからずっと手足も首も縛られたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前方ばかり見ているので頭を後ろへめぐらすことはできない。かれらの上方はるかのところに火が燃えていて、その火がかれらをうしろから照らしている」。

火と人間たちの間には台があり、そこで動物や人間の模型が動かされている。台の後ろには火が燃えていて、その光によって、人間が目にしている壁には、影絵のように動物などの影が映る。人間たちはそれを見て、本物の動物を見ていると思いこんでいる。-われわれは自由に外を歩き、動物などを見て、それが現実界だと思っているが、実際には、暗い洞窟の中で鎖に繋がれた囚人のようなものであり、にもかかわらずそのことに気づいていない、というのがプラトンの真意である。

そのような人間にだれかが近づき、いましめを解いて、後ろにある仕掛けを見せてやる。火の眩しさに人間は目をそらせるが、その者は容赦なく人間を、さらに洞窟の外、太陽の下に連れ出す。そこはもっと眩しいので、人間は、はじめ何も見ることができない。眩しさの苦痛を耐えた者のみが、やがて真実、すなわちイデアを直視する。そのように人間を外界、すなわちイデア界に導く存在が、プラトンによれば哲学者である。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

政党なきエリート競争型デモクラシー

『現代日本の政党デモクラシー』より 岐路に立つ日本の政党政治

ツイッター上での渡邊に対する反論のなかで橋下が強調しているのは、メディアのチェック機能のほかに、政治家が任期付きで選挙によって選ばれるという事実である。しばしば変わり、矛盾も多い橋下の発言で一貫していることの一つは、選挙至上主義である。『橋下語録』にも、「選挙が全てじゃないとか言われるが、民主主義の世の中で、じゃあ選挙以外にどうやって物事を決めるのかといえば選挙しかない」という発言が取り上げられている。橋下にとって選挙とは、有権者の票をめぐる政治家の競争の場である。小泉政権が進めた新自由主義的改革に対する支持や学カテストの市町村別の公表にみられるように、あらゆる分野での競争の促進は、橋下の基本的な方針である。地方分権も、住民自治の拡充よりも、自治体を自立させ、競争させることを目的とする。実際、橋下は「競争力は僕の政治哲学だ」と語っている。

しかし、橋下は、選挙で示された民意の尊重を唱える一方で、有権者に対して全幅の信頼を置かない。「世論調査の評価など何かあればすぐに変わる」といった発言からうかがわれるのは、不安定な世論の支持に立脚する自分の権力の脆弱性への冷めた認識とともに、世論を操作の対象として捉える政治的リアリズムである。橋下にとって、民主主義の主役は有権者ではなく、あくまでも政治家なのである。だからといって、それは決してファシズムではない。メディアを意識して発せられる刺激的な言葉を割り引いて考えるならば、橋下の「白紙委任」発言は、菅が目指してきたマニフェストを軸とする市場競争型デモクラシーの否定と、小沢が目標としてきたエリート競争型デモクラシーの肯定を意味するとみるべきであろう。

ただし、二大政党制の実現を追求してきた小沢とは違い、橋下のエリート競争型デモクラシーに特徴的なのは、政党をその不可欠の、少なくともその重要な構成要素として位置づけないことである。政権の座をめぐって競争する主体は、政党ではなく、政治家個人である。やや強い表現を使うならば、政党なきエリート競争型デモクラシーと呼ぶことができるであろう。事実、橋下が理想とするのは、「古い自民党をぶっ壊す」と叫び、長期政権を続けた小泉首相である。橋下は、「小泉元首相みたいなスー・パーマンじゃないと、政権運営はできない。大統領制は天皇制に反するので、憲法を改正して首相公選制を目指すべきだ」と語っている。つまり、首相が与党を否定することでリーダーシップを発揮した小泉政治を制度化するのが、首相公選制なのである。

もっとも、首相公選制が本当に首相の権力を強化するかについては、少なからぬ疑問が残る。行政権と立法権が分離してしまい、仮に参議院を廃止したとしても、首相と衆議院の間に「ねじれ」が生じる、つまり与党が衆議院で少数派にとどまる分割政府となり、かえって首相がリーダーシップを発揮できなくなるおそれがある。それを避けるとすれば、首相が持つ憲法上の権限を強め、事実上の立法権を付与するといった措置が講じられなければならない。こうした難しさもあって、当初、首相公選制の導入を目指した小泉も、最終的に見送らざるを得なかった。首相公選制の導入には、「日本維新の会」が国政においてどこまで伸長できるかという問題に加え、内容面でも大きなハードルが存在している。

とはいえ、政党なきエリート競争型デモクラシーが浮上した原因には、マニフェストを軸とする市場競争型デモクラシーの行き詰りがある。だからこそ、かつて棚上げされた首相公選制が、復活してきたのである。そもそも二〇〇三年にマニフェスト運動が本格的に開始された背景には、小泉が首相公選制の導入を図ったことがあった。小選挙区制の導入を中心とする政治改革が進められたにもかかわらず、二大政党制の担い手たる自民・民主両党は凝集性を欠き、無党派層の増大にみられるように、有権者の政党離れが起きていたのが、その当時の政治状況であった。それから約一〇年後、もう一度、振出しに戻ってしまったのである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

存在と無から始まった

未唯へ

 一方的な愛がないと、生きていけない。だから、バレンタインデーでポットを買います。

ポータルでつながるをつなげる

 つながるまでつなげましょう。そのための第8章です。つながるの先には市民グループがあります。そして、2015年からのサファイア革命です。

 くれぐれも、私がやるのではない。考えるのが私です。そして関係者に全体の一部を持ち帰る。全体の構想を述べることはしない。そこまで、分かる人間はこの会社にはいない。

存在と無から始まった

 未唯空間にしても未唯宇宙にしても、存在と無から始まっています。ということは、哲学をベースにするしかない。そこから、次の社会はどうするのか、会社をどう生かしていくのか、地域の活性化はどうしていくのか、歴史はどう変わるのか。

 そんなところまで来ています、ベースは哲学です。もう一つあるのは、形態変化を求めるための数学のトポロジーです。この二つをベースにしたものは、今まではなかった。

 数学の形態を歴史にどのように適用するのか。トポロジーはインターネット理論とか、文章学にも使われています。歴史的なことでいえば、カタストフィーの理論なんでしょう。それを私でまとめていこうというのだから、無謀ですけど、内なる世界なら、何でもできます。

 内なる世界には、私しかいないのだから、そこでまとめられます。そのために、どういう形になっているかのサンプルを求めます。内と外をつなぐパートナーがいなくなったから、自分で大胆に行動しましょう。外の世界で失敗しても、私にとっては成功です。

 周りの環境がうまくいくような、そんな無駄なこと、調整することはしません。直に答えを見つけていきます。何が問題なのか。何がこの会社の悪さなのか。それをその部署にぶつけて、自分たちで考えてもらう。やれなければ、それまでのことです。

 どんな歪になっても、私からすると、答えは出せます。本来やりたかった、アピールを作り込んで、表に出します。

ポータルのアピール・アンケートの進化

 表で数字を集めるだけではしょうがない。集めた結果をどうアピールするかです。それでディスカッションしないといけない。


急遽、パソコンを買ってきた

 1時間以上も起動しないので、10万円持って、エイデンへ。10万円のセブンのパソコンを買ってきた。会社と同様の富士通製のUltrabookです。何がウルトラかわからないけど。

 インスピレーション、OCRソフトを入れ込むのと、データ移行に手間取って、6時間ぐらいかかりました。23時半に、すべての作業を終えました。疲れました。

 初期起動、インターネット環境はまともになりました。インスピレーションは外付けだから、起動はよくない。OCRはCPU速度が上がったのと、ディスクに余裕が出たので、かなり良くなった。


岡崎市図書館の10冊

 岡崎市図書館で10冊、借りました。ほとんどが1月の本です。タイミングが良かったみたいです。1月が出たけど、他の人が借りる前なのでしょう。先週は新刊書コーナーが空っぽだったから、その反作用ですね。

 329.3『人道的交渉の現場から』国境なき医師団の葛藤と選択

 992.1『内乱 パルサリア』

 130.2『哲学するのになぜ哲学史を学ぶのか』

 611.7『世界の最先端を行く台湾のレジャー農業』

 913.6『清冽の炎』

 369.2『もう限界!!介護で仕事を辞めないために読む本』大丈夫!! 仕事を辞めなくても介護を続けられる

 312.1『現代日本の政党デモクラシー』

 100『哲学で何をするのか』文化と私の「現実」から

 364.1『福祉社会学の想像力』現代社会学ライブラリー10

 188.5『空海と日本思想』
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

カントを理解することとは、カントを越えゆくことをいう

『哲学するのになぜ哲学史を学ぶのか』より ヴィンデルバントの問題史

「われわれみな、一九世紀において哲学するものは、カントの学徒である」。ひとまず話をドイツに限れば、フィヒテ、シエリング、ヘーゲルと続くいわゆるドイツ観念論の諸家はもとより、彼らとは異なる行き方をとったフリース、ヘルバルト、ショーペン等も含めて、世紀前半の哲学者たちがカントの哲学に多大な影響を蒙っていることはよく知られるとおりである。これらドイツ古典哲学の展開の後、世紀中葉には実証科学・歴史主義の進展に伴って反形而上学的な風潮が高まりをみせ、やがて六〇年代になるとツエラー、ヘルムホルツ、リープマン等の一九世紀生まれの諸家が、形而上学と実証主義をともに越えゆこうとする意図をもって口々にカントへの「回帰」を語るようににご。-『プレルーディエン』序文のヴィンデルバントの言葉は、このように出発と回帰という二重の意味でカントに規定されていた時代の講壇哲学の流れに棹差し、それを新たな進路に向けて押し出そうとするものであったといえる。

そこでまず問題は、なぜ、どのような意味で「カント」だったのか、である。

折しも一八八一年は『純粋理性批判』出版百周年にあたり、各地でその百年祭が催されたが、これにあたってヴィンデルバントも「イマヌエル・カント」と題する講演を行っている。「ドイツ文化の最も生き生きとしていた時代」との一世紀の隔たりを強く意識しつつ、ここでヴィンデルバントは古代ギリシアと近代ドイツの文化・哲学の比較対照によって論を進めてゆくが、そのみるところ、まず「ギリシア哲学は単純な、自己完結した民族文化の産物であり、その文化の諸々の動向をそれ自体として身につけている」。そして、このことに応じて、それに依拠する哲学はすべて「人間の知とともに、ある完結した、余すところなく現実を再現している世界像が獲得されるという前提のもとに生き、そのもとに刻苦精励している」。その典型がアリストテレス主義であるが、そこでは「世界の考察において人間が宇宙の中心点とも、その運命が世界の運命とも見倣されるように、人間の諸関係の概念的描出が素朴に世界認識とも見倣されている」。これに対して、しかし、「概してわれわれは研磨・磨耗された全体文化のもとに生きて」おり、[全地球の幾千もの泉から知がわれわれに流れ集い、もはや、一人の頭脳には統一されることはなく、もはや単一の全体式にもたらされることもな」い。それゆえ、「つとに何よりわれわれは、自分たちが世界の生の中心点に腰を据えているのではなく、どこか辺鄙な片隅で慎ましい生存を繰り広げているというイメージに馴染まなければならない」。

しかるにこのとき、「カントの思想の歩みは、先立つ哲学すべてがそれで以って仕事に取り組んでいた概念装置に対してまったく新しいものとして現れる」。実に、彼の思想は「文化の諸活動の変化した関係にはじめてまったく適切な表現を与え」、そうして「われわれの精神の状態全体を大まかに打ち出し」た。曰く、「一方に『現実』が、他方に表象があり、そして表象はそれがもし認識たるべきならば、現実の模写であるーこれがカント以前の哲学の基本前提であ」った。人間の心をこのようにいわば「世界の鏡」とみなす旧説(・通説)に対して、しかし、「カント哲学はあらゆる形而上学を除去することで、諸対象がわれわれにとって表象結合の一定の諸規則以上のものではないと主張札い」。すなわち、「問題はただ、諸表象のざわめきのなかで何らかの結合が、妥当すべき、それもすべての人にとって妥当すべき規則にしたがって完成されるということである」。それゆえ、「哲学は規範的思考の規則を自覚することで、その他の学が自らの個別的「対象」に絶えず行使している活動を基礎づけることに従事する」。--要するに、「哲学はもはや世界の模写であるべきではなく、その課題は、あらゆる思考にはじめて価値と妥当を付与する諸々の規範を意識へもたらすことである」、と。

たしかに、ここでの旧来の模写説のカントによる転換、反形而上学の立場からの諸学の認識論的基礎づけといった主張そのものは、いずれも教科書で馴染みの、それだけに今日では古めかしく感じられるものには違いない(--あるいは、いまやそれ以前のものとなっているかもしれない)。しかし、そう感じるほどにわれわれがそこから隔たっているかは自ら別の問題である。そのことを見届けるためにも、さらに立ち入って、ヴィンデルバントがどのように「カントを越えゆ」こうとしたのかを確認しておく必要がある。

体系的著作を残さなかったヴィンデルバントにとって、「批判的方法か発生的方法か」は自身の思想の方向性を示した最重要論文のひとつであるが、そこでカントについていうのは、「彼自身が時代の問題の考察様式に馴染んでいたことで、自ら『起源』と『基礎づけ』の間に打ち立てた根本的区別を放念している」ということである。そもそも、「われわれの仝熟慮を支配する統一的傾向が、個物が普遍に対してあるところの依属性を理解しようとすることであると定式化さ心び」とすれば、それに応じて「怜やこの普遍的な「公理」は、そのようなものとして、定義上論理的な--帰納や演鐸による--証明が不可能であるから、その「妥当」の明証性を示すには次の二通りの方法のいずれかによる他ない。すなわち、諸公理を「人間の表象、感情および意志決定の発展のなかで形成され、妥当にまで至った事実的把握様式」において取り扱い(「発生的方法」)、心的な諸作用の「現実的過程においてこれら諸公理が事実妥当するものとして承認される」という「事実的妥当」を示すか、あるいは、それらを「『思考は真なる目的を、意志は善なる目的を、感情は美を捉える目的を、普遍妥当的に承認される仕方で達成しようとする』との前提の下に妥当すべき規範」として扱い(「批判的方法」)、「もし何らか目的が実現されるものとすれば、公理の妥当は無条件に承認されなければならない」という「目的論的必然性」を示すかのいずれかを選択しなければならない。翻ってみれば、カントは「アプリオリな総合判断」ということで三つの『批判』書においてこの妥当問題を把握しながらも、その取り組みにおいて必ずしも十分慎重ではなかった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

内乱 カエサル対ポンペイウス

『内乱』より

「内乱にもましておぞましい戦、正義の名を冠された犯罪」という特異なテーマの提示のあと、皇帝ネロヘの助力を請う呼びかけがあり、内乱の抽象的、あるいは間接的、あるいは直接的な原因が挙げられる。中でも、「同輩を許容せぬ」権力に焦点が当てられ、過去の英雄ポンペイウス、昇竜の勢いのカエサルという両雄のあり方が、前者は「樫の古木」、後者は「雷電」の比喩で示される。

警告、制止するローマの幻影を振り切ってルビコンを渡り、アリミニウムに侵攻したカエサルに、ローマを逐われた「舌を金で売る」蛮勇クリオが合流し、内乱を喉けると、カエサルは決意をいっそう固め、兵士に向かってその決意を述べ、兵士を鼓舞する演説を行う。兵らは疑惺、逡巡するが、百人隊長ラエリウスが忠誠と、ローマの破壊をも辞さぬ覚悟を語って煽ると、全員歓呼して鬨の声を上げる。カエサルはガリア全土に展開する部隊を呼び寄せる(兵らがあとにしたガリアの部族の長いカタログが続く)。

ローマはカエサル進軍の風説で恐怖、混乱に陥り、民衆はもとより、当のポンペイウスをはじめ、高官、元老院議員の大半が挙って早々とローマを脱出する。追い打ちをかけるように予兆や怪異、変事が生じ、占い師アッルンスが呼ばれて内臓占いをするが、「大過が襲う」という曖昧な占いしかしない。しかしフィグルスが星占いをして、「兵乱の狂気」、武勇の美名を与えられた「犯罪」と「君主」の到来を予言し、さらに、アポロンにがり影かれた寡婦が内乱の成り行き(主な出来事)を見通し、暗示する予言を語って都を驚動させる。

ローマの不安と混乱の続き。母親らも、出征する男たちも嘆きの声を上げる中、老父が、マリウスとスッラによって争われ、報復、粛清の荒れ狂った凄惨な過去の出来事を語り、今時の内乱がそれをも越える惨禍をもたらすことを予言する。

内乱に心を痛める義父カトーのもとを、ブルートゥスが訪れ、身の処し方を訊ねる。今はどちらにも付かず、決着が付いたあとに勝者の敵となるとする彼に、カトーは、挑手傍観することの非を言い、祖国と自由のためにポンベイウスに与して参戦する決意を披渥する。そこへ、夫ホルテンシウスの遺骨を骨壷に納めたマルキアが戻り、カトーに復縁を願って叶えられ、形ばかりの再婚の儀か行われる。

都落ちしたポンベイウスは、カプアを拠点にして陣を構えるが(イタリアの地形、地勢の描写と、川のカタログが挟まれる)、民衆や諸都市の支持が区々分かれる中、破竹の勢いのカエサル軍は各地でポンペイウス軍を撃破。コルフィニウムに拠ったドミティウスも撃破され、兵に裏切られてカエサルに引き渡されたものの、宥恕される。ポンペイウスは決戦を目論み、兵を鼓舞激励する演説を行うが、まだ見ぬカエサルにすでに敗れている兵らの怯えを感知し、ブルンディシウムヘの退却を余儀なくされ、息子グナエウスと二人の執政官に、世界を巡って諸都市や諸民族、諸王の瞬起を促し、新兵を徴募するよう指令する。

一方、追撃するカエサルはブルンディシウムに迫り、筏を組んだ堤で港を封鎖。しかしポンペイウスの艦隊は、軽微な損害を被っただけでこれを突破、戦線を国外に散らそうと、ギリシアのエペイロスを目指して脱出する。

海原を逃れ行くポンペイウスに、前妻ユリア(カエサルの娘)の亡霊が現われ、どこまでも付き纏い、悩ませることを告げるが、ポンペイウスは、強いて否んで、エペイロスに上陸する。

一方、カエサルは、民心を掴もうと、穀物調達を指示したうえで、平和を装い、ローマに入城するが、歓呼して迎える民衆の姿はない。身を挺してサトゥルヌス神殿の国庫の略奪を阻止しようとする護民官メテッルスを影がにもかけず、カエサルは国庫を略奪する。以下、挙兵し、徴募されて、全世界から参集したポンペイウス方の大軍勢の長いカタログが続く。

ローマを発ったカエサルは、スペインのポンペイウス軍掃討に向けて西進するが、途次、大義を守って自派に与せず、寵城して抵抗するマッシリア攻めを敢行する(自らは攻城軍を残してスペインヘ)。ドルイドの聖林を伐採し、長大な土手を築いての攻城戦であったが、難渋し、夜間に出撃したマッシリア兵に火を放たれて土手は崩壊、陸戦の望みを絶たれたため、カエサル軍は海戦に命運を賭し、ブルートゥス(カエサル方の司令官)の指揮する艦隊とマッシリアの艦隊との間で海戦が繰り広げられる(闇雲に放たれた槍を受けて瀕死となった若者アルゴスと、息子に先立とうと自刃、投身自殺する父親のエピソードも含め、「種々、数多の衝撃的な死の光景」が、海戦の様とともに描写される)。海戦はカエサル方の一方的な勝利に終わる。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

豊田市中央図書館の30冊

366.29エン『現場女子』輝く働き方を手に入れた7つの物語

331『ミクロ経済理論』

674『売れるキーワード事典』心をつかむキャッチコピーが書ける アピールしたい内容別に、ほしい言葉が必ず見つかる!

462.03『絶滅危惧種 図鑑レファレンス事典』

369.31『大津波を生き抜く』スマトラ地震津波の体験に学ぶ

333.8『クライシス・キャラバン』紛争地における人道援助の真実

290.93『イタリア』

762.34『モーツァルトとナチス』第三帝国による芸術の歪曲

141.5『ビジュアル3分間シンキング』仕事も人生も整理整頓して考える

021.4『だれでもレイアウトデザインができる本』レイアウト・文字組・配色、センスアップのコツ

007.35『ITプラットフォーム』一目でわかる 市場を制するしくみ 利益を生み出す構想 課題と今後の展望

336.7『公民連携白書』シティ・マネジメント 地域の収入と支出、資産と負債のバランスを考えて行財政を行うべきことは国の違いはない。「シティ・マネジメント」は、日本でも、今後すべての自治体が導入すべき手法である。

302.61『エクアドルを知るための60章』

209『世界史史料11 二〇世紀の世界Ⅱ』第二次世界大戦後 冷戦と開発

404『ドーキンス博士が教える「世界の秘密」』

748『ナショナルジオグラフィック 1,2,3』

146.8『死別の悲しみに向き合う』グリーフケアとは何か

685.8『自転車が街を変える』

147.8『磁場と反転』その人、田池留吉

595.6『朗読ダイエット』 朗読で体芯を鍛える! 脳も活性化! 語学も身に付く! リバウンドなし!

596.23『100語でわかるガストロノミ』グランシェフたちの料理にかける情熱

360『社会問題の社会学』

319.8『入門 人間の安全保障』

382.42『女ノマド、一人砂漠に生きる』恐怖と欠乏からの自由を求めて

791『茶の湯と日本文化』飲食・道具・空間・思想から

813.4『早引き場面別ことわが&四字熟語辞典』

816『ウェブでの<伝わる> 文章の書き方』

007.64『図解でかんたんアルゴリズム』情報処理のかなめとなる考え方が手に取るようにわかる!

913.6『大空のドロテⅢ』

992.1『内乱 パルサリア』
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

日本の土木工事はコンパクトに

根源的に考える

 ひたすらに、自分の夢に向かった。

 まじめにやるのは、個人の分化です。一人で考えることが実証されました。周りからも干渉されません。

 本来はパートナーがやるのと変わりがありません。それは自分の理論のための実証実験のためです。知識と意識はグループで持ってこられるか。そのためには何が必要なのか。

日本の財政再建

 日本の財政再建にしても、どんな国にしていくことがなくて、物価を上げるといっても意味がないです。地域から積みあげていく議論がいります。マスコミは付和雷同的に動いています。その時に、そう言ったというだけです。物価が上がったら、何もしていないのに、自分たちの成果というのでしょうね。

 それらのついても、私のブログに書いていきます。私のすべてのログを残します。だから、クラウドの価格の実態についても、思いついたことをすべて、書き留めます。

国の土木工事

 国の政策で一番、気に入らないのは、土木工事ですね。本当にそんなもので時間とお金を無駄にするのか。問題は中身です。自転車道を作るとか、駐輪場を埋めるとか、生活をコンパクトするとかの工事ならわかるけど、単に道路工事ではどうしよう間内。それも国主体ではダメです。

 宮城は復興工事で潤っているみたいです。新しい社会を作るのではなかったのか。それはあくまでも、意味のない、中央での富の再配分にすぎない。

豊田市図書館のレベル

 先週の豊田市図書館の返却されていないという、二冊の本は、図書館側のミスでした。

 金曜日に行けずに、土曜日の開館に合わせて、新刊書コーナーへ行きました。本は十分になかったけど、そこから無理やり、30冊借りました。自分の苦悩を本にぶつけます。

内なる世界に向かう

 何しろ、早く、未唯宇宙を拡大すると同時に、自分の意見をまとめて、自分の内なる世界をはっきりさせていきたい。それなら、外なる世界がグチャグチャしても、内なる世界を作るのが目的です。

 今まで、パートナーに頼っていた部分を補わないといけない。私の目の前にいる限りは、パートナーです。中野さんのように、別の部署に替わっても、10年間はパートナーでした。パートナーというのは、常にどう考えるかと考えることです。元々、仮想のものです。

人道援助をどこに位置づけるか

 平和に対する戦争、戦争に対する人道援助がなかったので、OCR化して、未唯空間に位置づけます。今回の30冊は自分のジャンルに関係なしに借りたので、こんなものもありました。

モーツアルトとナチ

 元々はナチから始まっていた。ナチといえば、ワーグナーです。モーツアルトもナチの宣伝に巻き込まれていた。「モーツアルトとナチ」で書かれていた。

 オーストリア人だとおもったら、ナチにドイツ人」にされていた。あまりにも影響力が地よかったので、没後150年に巻き込まれた。本として出ることで、存在理由を認めましょう。だから、すべてを知りたいのです。

動物が三匹 1,2,3

 今更のジオグラフィックス、1,2,3.これは面白い本です。すべて、動物が三匹並んでいます。そうすると、表情の違いが分かります。

 返本するときに、交流館の女性に推奨したら、喜んでくれました。ちょっとした、つながりです。

家のパソコンがダメです

 心と同様に、家のパナソニックのパソコンも本当に不安定です。起動するまで、ずっと待っています。

 やはり、セブンでパワーポイントが入っているものを買ってくるしかない。エイトではインスピレーションの稼働保証ができないのと、あの初期画面は嫌いです。そうなると、予算は10万円ですね。

 その前に、バックアップできるものはさせておきます。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

アフガニスタン 活動再開への交渉

『人道的交渉の現場から』より

2004年7月28日、MSFの代表2人が首都カブールで記者会見を開き、MSFはアフガニスタンから撤退すると発表した。MSFのスタッフ5人が6月2日にバドギス州で殺害され、それから2ヵ月近くたってもカブールのアフガニスタン当局は容疑者を逮捕・起訴しようとしなかった。さらに、タリバンのスポークスマンらしき人物が犯行声明を出し、MSFが「米国民のためにスパイ活動をしている」と非難してさらなる攻撃を正当化していた。こうした事態を受けてMSFは、「独立した人道援助活動は、非武装の援助活動従事者が紛争地域に赴いて行うものだが、それがアフガニスタンでは不可能になった」と判断した。

MSFは主にこうした理由で撤退したが、記者会見では、事態がここまで悪化した原因は多国籍軍にもあると付言した。米国主導の有志連合は組織的に人道援助を取り込んで、それを「人心掌握」の手段にしようとしたために、中立・公平という人道援助従事者のイメージが著しく損なわれたと主張した。

記者会見参加者の多く、とくにアフガニスタン史上最悪の状態にあった時期を含む24年間にわたるMSFの活動を覚えている向きは、この決定に驚いた。「撤退せずに(中略)、治安状況に対処する方法はないのか」と質問する者もいた。

数週間後、ブッシュ政権に近い米国人研究者シェリル・ペナード氏は『ウォール・ストリート・ジャーナル』に寄稿して、安直な解決策を示した。

「そこは別世界なのだ。(中略)国境なき医師団が掲げる原則、つまり、苦しんでいる人びとに医療援助を提供する民間の専門家は安全な通行を保証されるなどというのは古き良き時代のことだ。(中略)現実を客観的に判断すれば、国境なき医師団のような組織は、駐留軍の縮小ではなく増強を要求することになる。軍と活動領域を分けるのではなく、協力関係を密にしていく必要がある。そうでなければアフガニスタンだけでなく、21世紀のほとんどの紛争地域から撤退するしかない」

これに対しMSFインターナショナル会長は、「『対テロ戦争』においては、どちらの側につくのか選ぶことを求められる。ベナード氏の言う『客観的な判断』も(中略)この論理の一例にすぎない。私たちはどちらの側にもつくことはしない」と反論した。こうした論争は以前からあったが、ブッシュ政権が2001年9月11日の米国同時多発テロ事件に対する報復として、アフガニスタンで不朽の自由作戦(OEF)を開始し、人道援助NGOにこの闘いへの参加を求めるようになってから激しさを増した。とはいえ、MSFのスタッフが殺害される何カ月も前からMSFは複雑な思いでいた。多国籍軍やアフガニスタン当局から距離をおきたいと思いながらも、事実上の交渉相手は多国籍軍とアフガニスタン当局であったからだ。「国際社会」がカルザイ政権を公に支持して打ち出した再建計画には与しなかったが、タリバン政権の崩壊以後、MSFは反政府武装勢力とは接触せず、反政府勢力が拠点を広げつつあるといわれていた地域を含め、プログラムを大幅に縮小した。アフガニスタンで20年もの活動歴をもつことから、MSFの内部では活動の正当性を得られて当然と感じていたが、それもアフガニスタンで活動する主要な政治、軍事および援助団体の行動計画とますます調和しなくなっている「人道援助への例外」への尊重を担保にするには十分ではなかった。

では、なぜMSFは2009年にアフガニスタンに戻って、カブールだけでなく、多国籍軍、アフガニスタンの治安機関、反政府武装勢力による最も激しい戦闘地域のひとつであるヘルマンド州でもプログラムを再開できたのか。2008年は援助活動従事者にとって最も危険な年であった。そして2009年には民間人と軍の犠牲者が過去最高を記録した。つまり、どんな魔法を使っても「人道的空間」が再び生まれるとは思えない状況にあった。しかしながら、「別世界」はベナード氏が数年前に主張したのとは全く違った意味合いをもつようになっていた。本章で述べるように、紛争のダイナミックな展開とアフガニスタンにおけるさまざまな主体の利益が絡んで、MSFの援助活動の妥当性が再認識され、MSFは内戦に巻き込まれた人びとへの医療提供に関して交渉する新たなチャンスを得た。

以下は、緊急介入や資源の速やかな配備を伴う人道援助活動ではあまりみられないやり方だが、MSFがアフガニスタンで活動を再開するために、あらゆる勢力、あらゆるレベルの交渉担当者を見きわめて指揮系統に沿って交渉する努力を延々と続けるという進行中のプロセスの記録である。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ 次ページ »