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「本質」

『哲学で何をするのか』より 「絶対」の探究--ニーチエ以前の哲学

「本質」という言葉は、通常の日本語では、ものごとの「核心」「真相」といった意味で用いられるが、哲学での使い方はやや異なっている。

哲学の古典的入門書である山本信『哲学の基礎』にはこう書かれている。

「[あるものが]どんなものかを漠然と知ってはいるが、その知り方が本当なのかどうか考えなおすことがある。たとえば「生命」とか「人間」というものについて何となくわかっているつもりだったのを、あらためて問題にするような場合である。そこで期待されている答は、そのものの本来的性質、すなわち「本質」をあらわす定義にほかならない。……[本質は--そのものの存在を成り立たせている「原理」として捉えられる……」。要するに、「それなくしては、そのものがそのものでなくなるところの性質」が「本質」である。

小学生が三角形を作図したとしよう。辺が四本あったり、辺は三本でも曲がりくねっていたりすると、「それは三角形ではない」と言われる。逆に、「三本の線分に囲まれた図形」であることは、目の前の図形が三角形であるための「条件」であり、三角形の「定義」である。

だからこそ、きちんと「三本の線分に囲まれた図形」を描くことは生徒が作図するうえでの「目標」「目的」となる。逆に、「三角形」の本質が「三本の線分に囲まれた図形」だからこそ、生徒はその通りの図形を描こうとする。それゆえ、「三角形」の本質は、生徒がその図形を描くよう努力するにいたった「原因」であり、あるいは古今東西、無数の生徒や技師などによって作図された無数の三角形の「母型」である。

個体にとっての「条件」「定義」「目標」「原因」「母型」としての本質は、各個体がどのように、また、どうして生まれるのかを説明し、また、本質が各個体を可能にする。あるものの「存在をなりたたせている「原理とは本質だと山本が述べたのは、そのためである。

個物と比較すると、本質の特性がさらに明らかになる。

個々の三角形やペットボトルはすべて、いつかどこかで生まれ、やがて消滅する。個体が生成消滅するのは、人間などについても変わらない。

それに対して、「三本の線分に囲まれた図形が三角形である」ことは、「いつでも、どこでも、誰にとっても」あてはまる。それゆえ、本質は普遍的である。普遍的であるものはつねに存在するのだから、本質は、個物・個体・個人のように生成消滅せず、永遠で無時間的である。

個体は多様で無数にあるが、本質は普遍的なので、つねに同一で単一、唯一である。

また、三角形をどんなに精密に作図しようとしてもそれは不可能であるように、現実の個物はつねに不完全である。それに対して、本質について不完全とは言えず、完全である。また、個物は視覚や触覚など五感によって感覚的に知覚しうるが、本質は知覚不可能である。

このような特質をもつ本質のあり方についてはさまざまな立場が可能であり、それをめぐって西洋では、二千年以上にわたって、さまざまな議論が展開された。

まず、本質がどこにあるのか考えてみよう。

本質は完全で永遠で普遍的だが、ひとが生き、暮らしている現実世界にそのようなものを見出すことはできない。太陽や山、動物や人間、道具や石とならんで、それぞれの本質がどこかの路上や博物館などにあるわけはない。こうして、本質は、現実世界とは別の世界、「此岸」ならぬ「彼岸」にあるという考えが生まれる。

たとえばプラトンは、別世界にあるそれを「イデア」、彼岸を「イデア界」とよんだ。しかも、本質は個物が成立するための原理である以上、イデア界こそが真実の世界であり、われわれが生きている現実は、イデア界の「影」でしかない。

イデア界と現実界との関係を物語るのが「洞窟の比喩」だ。プラトン晩年の『国家』には次のように述べられている。「地下にある洞窟にいる人間たちを思い描いてもらおう。人間たちはこの住まいのなかで子どものときからずっと手足も首も縛られたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前方ばかり見ているので頭を後ろへめぐらすことはできない。かれらの上方はるかのところに火が燃えていて、その火がかれらをうしろから照らしている」。

火と人間たちの間には台があり、そこで動物や人間の模型が動かされている。台の後ろには火が燃えていて、その光によって、人間が目にしている壁には、影絵のように動物などの影が映る。人間たちはそれを見て、本物の動物を見ていると思いこんでいる。-われわれは自由に外を歩き、動物などを見て、それが現実界だと思っているが、実際には、暗い洞窟の中で鎖に繋がれた囚人のようなものであり、にもかかわらずそのことに気づいていない、というのがプラトンの真意である。

そのような人間にだれかが近づき、いましめを解いて、後ろにある仕掛けを見せてやる。火の眩しさに人間は目をそらせるが、その者は容赦なく人間を、さらに洞窟の外、太陽の下に連れ出す。そこはもっと眩しいので、人間は、はじめ何も見ることができない。眩しさの苦痛を耐えた者のみが、やがて真実、すなわちイデアを直視する。そのように人間を外界、すなわちイデア界に導く存在が、プラトンによれば哲学者である。
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