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SFDCのクラウド

SFDCのクラウド

 アマゾンでのクラウドの使い方と、SFDCのクラウドの使い方を合わせていきます。SFDCのクラウドには制約が多すぎる。クラウドは使った分を払うというのが目的です。役割です。

 作ることではなく、使うことに対してのクラウドです。SFDCのマーク会長に言いたいのは、その部分です。そういうことをやっていると、アマゾンとかグーグルにクラウドを取られます。使うことを主にしないとだめです。

 これは、その先のコミュニティとかコラボレーションに対しても同じです。競争相手はいくらでも出てきます。それをどのように組み立てていくのか。組み立てる技術にお金を使うよりも、使うことでどのようなメリットがあるのかを示すことです。

 ポータルはSFDCにとっては、一大きな最後の賭けでしょう。企業もそれによって、何が変わるのか、変わるまでの距離をどう示すのか。その意味では車と同じかもしれない。使うことによったメリット、それでお金を払う、それがベースになる。

 だから、シェアが成り立ちます。クラウドはシェアです。そのものです。本来、クラウドの方が安いに決まっている。ただし、5年の縛りをしたから、イーブンになるでしょう。

 5年もクラウドを使うことは矛盾している。その中で進化するから、同には成り立ちます。まあ、それぐらいは持つでしょう、次の世界まで。私としては2015年まで持てば、地域のポータルにつながります。

 半年間でSFDCを使えるものにしておきましょう。というか、使うことを目的とした、環境に変えていきましょう。これが私の視点です。そこでの仮設実証を次に生かします。

企業情報システムとの関係

 そのためにも、基幹系、情報系のデータ情報入力部分、つまり、企業情報システムには触らない。データをいかにして、共有しながら、お客様、スタッフ、企業が使っていくのか。そういう情報共有をベースにします。

 この部分は始まったばかりです。ウェブソーシャルそのものの世界です。どんどん変わります。そんなところを企業情報システムでは対応できません。ついていけません。意味がないです。

 前のポータルでは、この5年間で、変えたかったけど、結局変えられなかった。あまりにも、企業情報システムに任せてしまったのが、その原因です。全体の流れをもっと、シンプルにさせないといけない。

 それと企業に縛られた人間とかコスト計算では、変えることはできない。だから、直に半年間、やります。外の世界ですけど。目的は使う方に考え方を変えることです。そうなった時の強みを示すことです。

企業の中の個人がターゲット

 クラウド化する企業で一番変わるのは、企業の中の個人です。企業情報システムでは、仕事でしかできないから、個人は分化することはできない。

 クラウドでいろいろな側面を持たせて、発信させることで、個人の分化はかのうになります。該当の分野に新しいクラウドを対応させていけばいいのです。個人が生きてきます。その意味では、企業の中で生きる個人をターゲットにします。

 それはそんな難しいことではない。クラウドを使い倒すことです。そうすれば、変わっていきます。インターネットで使っている部品を、イントラ上に持ってこれるかは、重要な観点です。ツイッターからチャッターに転用した、SFDCのマーク会長のアイデアは秀逸でした。

 個人でもマーケティングができるようにした、アマゾンの小売システムみたいなものかもしれません。お客様はネットの上にいるのだから、ネットでサービスをしていけば、変わります。デジタル書籍も同じ環境になりつつあります。本という物理的な物が主だったアマゾン自体もキンドルで変わろうとしています。

 その時に、個人としてのネットではなく、いかにコミュニティを作り上げるかです。それならば、力になります。個人のオモチャから、武装化できます。

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生活パターンを変える

まじめに創出する

 こうなったら、司法試験の受験のような体制をとるしかないでしょう。時間を決めて、目標を決めて。

 答えは自分の中にある。司法試験のように、3年も4年も掛けることはできない。後,一年です。


新パソコンで生活パターンを変える

 パソコンで、会社と同じことができるので、生活パターンを変えます。

 終日の夜間は未唯宇宙をやります。土日に本の処理を完璧に終えます。しっかり読み今度、その本が存在していることを示します。

 60歳・70歳のテーマの歴史編にも、これで取り掛かれまい。図書館での作業も考えられます。何をテーマにするかです。ゼロから考えましょう。全体の未唯空間と同時に、サブテーマとして、一年間考えます。

ポータルの進化

 販売店で使うポータルの進化としては、まずは、アイデアボックスみたいなものです。一つのテーマに対して、皆がそれについての意見を真摯に上げていけるようにします。スタバとか経済産業省でのやり方を見習います。なかなか、広がらないけど、個人の資質を上げるのは、ここから入るのが妥当でしょう。

 そこで責任を持って、意見が言える状態を作り出します。今のアピール・アンケートシステムに追加しない。データを上げるかだけでなく、お客様の代表として、スタッフの意見を上げていけるようにします。

 販売店経営者が使っているFacebookは食べたものとか会社イベントの紹介です。いいね!と言わないといけない内容です。あれで何をアピールしているのか。意見を表出できる環境ではない。酒での付き合いみたいな感じです。自分たちにとって、居心地いい世界を作りたいだけでしょう。そんなものは、すぐに疲れますよ。「ソーシャル疲れ」です。

アマゾンのペソス

 アマゾンのペソスが元アップルの技術者に電子書籍リーダーの開発を依頼した。その時の誘い文句は例によって、「世界を変えるため」。

 電子書籍の始まりもアラン・ケイのダイナブックです。最初に重いありきです。

 アマゾンで本を買う時に、近くの図書館にあるかどうかわかる。そこに対して、予約が掛けられる。そんな世界を私は望みます。本というものは、もっと立体的なものです。

キンドルの位置づけ

 パソコンの前で、ケータイの前でやるよりも、こういうところで寝ながらやった方がいい。ただし、まとめるにはエクスるは必要です。今回のパソコンはバックアップにします。

 机のまわりにパソコンみたいのが5台あります。本当に難しい。とりあえず、2台をまとめて、新しい1台に変えました。

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「本質」

『哲学で何をするのか』より 「絶対」の探究--ニーチエ以前の哲学

「本質」という言葉は、通常の日本語では、ものごとの「核心」「真相」といった意味で用いられるが、哲学での使い方はやや異なっている。

哲学の古典的入門書である山本信『哲学の基礎』にはこう書かれている。

「[あるものが]どんなものかを漠然と知ってはいるが、その知り方が本当なのかどうか考えなおすことがある。たとえば「生命」とか「人間」というものについて何となくわかっているつもりだったのを、あらためて問題にするような場合である。そこで期待されている答は、そのものの本来的性質、すなわち「本質」をあらわす定義にほかならない。……[本質は--そのものの存在を成り立たせている「原理」として捉えられる……」。要するに、「それなくしては、そのものがそのものでなくなるところの性質」が「本質」である。

小学生が三角形を作図したとしよう。辺が四本あったり、辺は三本でも曲がりくねっていたりすると、「それは三角形ではない」と言われる。逆に、「三本の線分に囲まれた図形」であることは、目の前の図形が三角形であるための「条件」であり、三角形の「定義」である。

だからこそ、きちんと「三本の線分に囲まれた図形」を描くことは生徒が作図するうえでの「目標」「目的」となる。逆に、「三角形」の本質が「三本の線分に囲まれた図形」だからこそ、生徒はその通りの図形を描こうとする。それゆえ、「三角形」の本質は、生徒がその図形を描くよう努力するにいたった「原因」であり、あるいは古今東西、無数の生徒や技師などによって作図された無数の三角形の「母型」である。

個体にとっての「条件」「定義」「目標」「原因」「母型」としての本質は、各個体がどのように、また、どうして生まれるのかを説明し、また、本質が各個体を可能にする。あるものの「存在をなりたたせている「原理とは本質だと山本が述べたのは、そのためである。

個物と比較すると、本質の特性がさらに明らかになる。

個々の三角形やペットボトルはすべて、いつかどこかで生まれ、やがて消滅する。個体が生成消滅するのは、人間などについても変わらない。

それに対して、「三本の線分に囲まれた図形が三角形である」ことは、「いつでも、どこでも、誰にとっても」あてはまる。それゆえ、本質は普遍的である。普遍的であるものはつねに存在するのだから、本質は、個物・個体・個人のように生成消滅せず、永遠で無時間的である。

個体は多様で無数にあるが、本質は普遍的なので、つねに同一で単一、唯一である。

また、三角形をどんなに精密に作図しようとしてもそれは不可能であるように、現実の個物はつねに不完全である。それに対して、本質について不完全とは言えず、完全である。また、個物は視覚や触覚など五感によって感覚的に知覚しうるが、本質は知覚不可能である。

このような特質をもつ本質のあり方についてはさまざまな立場が可能であり、それをめぐって西洋では、二千年以上にわたって、さまざまな議論が展開された。

まず、本質がどこにあるのか考えてみよう。

本質は完全で永遠で普遍的だが、ひとが生き、暮らしている現実世界にそのようなものを見出すことはできない。太陽や山、動物や人間、道具や石とならんで、それぞれの本質がどこかの路上や博物館などにあるわけはない。こうして、本質は、現実世界とは別の世界、「此岸」ならぬ「彼岸」にあるという考えが生まれる。

たとえばプラトンは、別世界にあるそれを「イデア」、彼岸を「イデア界」とよんだ。しかも、本質は個物が成立するための原理である以上、イデア界こそが真実の世界であり、われわれが生きている現実は、イデア界の「影」でしかない。

イデア界と現実界との関係を物語るのが「洞窟の比喩」だ。プラトン晩年の『国家』には次のように述べられている。「地下にある洞窟にいる人間たちを思い描いてもらおう。人間たちはこの住まいのなかで子どものときからずっと手足も首も縛られたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前方ばかり見ているので頭を後ろへめぐらすことはできない。かれらの上方はるかのところに火が燃えていて、その火がかれらをうしろから照らしている」。

火と人間たちの間には台があり、そこで動物や人間の模型が動かされている。台の後ろには火が燃えていて、その光によって、人間が目にしている壁には、影絵のように動物などの影が映る。人間たちはそれを見て、本物の動物を見ていると思いこんでいる。-われわれは自由に外を歩き、動物などを見て、それが現実界だと思っているが、実際には、暗い洞窟の中で鎖に繋がれた囚人のようなものであり、にもかかわらずそのことに気づいていない、というのがプラトンの真意である。

そのような人間にだれかが近づき、いましめを解いて、後ろにある仕掛けを見せてやる。火の眩しさに人間は目をそらせるが、その者は容赦なく人間を、さらに洞窟の外、太陽の下に連れ出す。そこはもっと眩しいので、人間は、はじめ何も見ることができない。眩しさの苦痛を耐えた者のみが、やがて真実、すなわちイデアを直視する。そのように人間を外界、すなわちイデア界に導く存在が、プラトンによれば哲学者である。
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政党なきエリート競争型デモクラシー

『現代日本の政党デモクラシー』より 岐路に立つ日本の政党政治

ツイッター上での渡邊に対する反論のなかで橋下が強調しているのは、メディアのチェック機能のほかに、政治家が任期付きで選挙によって選ばれるという事実である。しばしば変わり、矛盾も多い橋下の発言で一貫していることの一つは、選挙至上主義である。『橋下語録』にも、「選挙が全てじゃないとか言われるが、民主主義の世の中で、じゃあ選挙以外にどうやって物事を決めるのかといえば選挙しかない」という発言が取り上げられている。橋下にとって選挙とは、有権者の票をめぐる政治家の競争の場である。小泉政権が進めた新自由主義的改革に対する支持や学カテストの市町村別の公表にみられるように、あらゆる分野での競争の促進は、橋下の基本的な方針である。地方分権も、住民自治の拡充よりも、自治体を自立させ、競争させることを目的とする。実際、橋下は「競争力は僕の政治哲学だ」と語っている。

しかし、橋下は、選挙で示された民意の尊重を唱える一方で、有権者に対して全幅の信頼を置かない。「世論調査の評価など何かあればすぐに変わる」といった発言からうかがわれるのは、不安定な世論の支持に立脚する自分の権力の脆弱性への冷めた認識とともに、世論を操作の対象として捉える政治的リアリズムである。橋下にとって、民主主義の主役は有権者ではなく、あくまでも政治家なのである。だからといって、それは決してファシズムではない。メディアを意識して発せられる刺激的な言葉を割り引いて考えるならば、橋下の「白紙委任」発言は、菅が目指してきたマニフェストを軸とする市場競争型デモクラシーの否定と、小沢が目標としてきたエリート競争型デモクラシーの肯定を意味するとみるべきであろう。

ただし、二大政党制の実現を追求してきた小沢とは違い、橋下のエリート競争型デモクラシーに特徴的なのは、政党をその不可欠の、少なくともその重要な構成要素として位置づけないことである。政権の座をめぐって競争する主体は、政党ではなく、政治家個人である。やや強い表現を使うならば、政党なきエリート競争型デモクラシーと呼ぶことができるであろう。事実、橋下が理想とするのは、「古い自民党をぶっ壊す」と叫び、長期政権を続けた小泉首相である。橋下は、「小泉元首相みたいなスー・パーマンじゃないと、政権運営はできない。大統領制は天皇制に反するので、憲法を改正して首相公選制を目指すべきだ」と語っている。つまり、首相が与党を否定することでリーダーシップを発揮した小泉政治を制度化するのが、首相公選制なのである。

もっとも、首相公選制が本当に首相の権力を強化するかについては、少なからぬ疑問が残る。行政権と立法権が分離してしまい、仮に参議院を廃止したとしても、首相と衆議院の間に「ねじれ」が生じる、つまり与党が衆議院で少数派にとどまる分割政府となり、かえって首相がリーダーシップを発揮できなくなるおそれがある。それを避けるとすれば、首相が持つ憲法上の権限を強め、事実上の立法権を付与するといった措置が講じられなければならない。こうした難しさもあって、当初、首相公選制の導入を目指した小泉も、最終的に見送らざるを得なかった。首相公選制の導入には、「日本維新の会」が国政においてどこまで伸長できるかという問題に加え、内容面でも大きなハードルが存在している。

とはいえ、政党なきエリート競争型デモクラシーが浮上した原因には、マニフェストを軸とする市場競争型デモクラシーの行き詰りがある。だからこそ、かつて棚上げされた首相公選制が、復活してきたのである。そもそも二〇〇三年にマニフェスト運動が本格的に開始された背景には、小泉が首相公選制の導入を図ったことがあった。小選挙区制の導入を中心とする政治改革が進められたにもかかわらず、二大政党制の担い手たる自民・民主両党は凝集性を欠き、無党派層の増大にみられるように、有権者の政党離れが起きていたのが、その当時の政治状況であった。それから約一〇年後、もう一度、振出しに戻ってしまったのである。
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