『自転車が街を変える』より これからの自転車社会
自転車道や自転車レーンの設置をはじめとする自転車走行空間の整備、シェア・サイクルの導入など、日本各地で今、自転車利用に対する多種多様な取り組みが行われている。そういった情報を断続的にでもキャッチアップしていると、相変わらず日本は「社会実験」という名の断片的なプロジェクトばかりが目につき、国家レベルで「自転車をどう活用していくか」というフレームワークがまったく見当たらないことに気付かされる。
ごく短い区間にだけ自転車レーンを設置し、「以前と比べて走りやすくなりましたか?」というアンケートをとったら、大半の人は「走りやすくなった」と好意的な回答を書き込むに違いない。きれいに整備された専用の自転車空間は、その部分だけなら優れている。否定的な意見が来ても「実験」なら文句は少ないし、実施側も「期間が過ぎたら終了しますから」と逃げが打てる。
しかし、一部の区間に自転車道なり自転車レーンなりを敷設しても、見向きもされない。自分の走行経路が歩道だったり車道だったり、はたまた自転車レーンだったりすれば、道路状況も違うし走り方も変えなくてはいけない。そんな面倒なことをさせられるくらいなら、車道を一直線、もしくは歩道を……という選択が自転車利用者のきわめて合理的な考え方である。
言うまでもなく、自転車は目的地に到達するための交通手段のひとつだ。自転車に乗ることそのものを趣味とする人が昨今急増していることは承知しているが、通学や買い物のための「足」として使い回す人が多数派であることに変わりはない。移動手段をサポートするハードウェアは、ある程度長い距離でネットワークを形成していなければ意味がない。鉄道でもバスでも、目的地まで、もしくはその近くまで乗っていけるから利用される。移動ルートのごく一部に線路や路線があるだけでは、誰も乗ろうとしない。自転車道や自転車レーンも同じである。
社会実験というなら、もっと長く、さらに広いエリアに自転車道を設けなければ、正確なデータは得られない。加えて言うなら、「実験」であれこれ議論する時間と予算があるのであれば、それをスキップして、自転車道をどんどん設置しなくてはいけない段階に来ているのではないか。その上で、三年、五年といった長い単位で利用者や住民の意見を集約し、次のステップに活かす。ネットワークという水平軸、時間という垂直軸、どちらもより大きく取らなくてはならない。
個人的には、社会実験という段階はもう過ぎていると思っている。小規模な実験を散発的に実施するよりも、主要道路すべての左端を自転車レーンとして塗装すべきであろう。自分の周りのあちこちに青色(青でなくてもよいが)のレーンが見えれば、「今度からここを走るのだな」という認識が自転車利用者にも生まれてくる。せっかく立派なレーンがあっても誰も使っていない現状だと、「自転車レーンを走ろう」という教育的なメッセージの波及効果も期待できない。
日本では、ドライバーの歩行者優先意識はかなり高い。右左折時、横断歩道上に歩行者がいれば、きちんとその前で停止する。歩行者のほうが車の通り過ぎるのを待つのが常識という国も少なくない中で、日本のドライバーの優先度意識は高い評価を与えられてよいと思う。であれば、現在のクルマと歩行者の立ち位置の間に自転車を挿入して、歩行者、自転車、クルマと優先度が高い順に並べることはさほど難しくないはずだ。
「自転車は車両」といっても、クルマと同列であるわけではない。自転車はクルマほどスピーディーに動けないし、パワーもない。だから、異質な者どうしが「ダイバーシティ」を認め合い、同じスペースを「シェア」できるかどうか、いや、シェアしていかなくてはならないという意識が必要だ。
茨城大学の金利昭准教授は、電動アシスト自転車や電動原付自転車など、従来はなかった乗り物の出現を受けて、道路を「低速帯」「中速帯」「高速帯」の三つに区分すべしと提案している。低速帯は時速五キロ程度までの歩行者や車椅子を、中速帯は時速一〇~二〇キロ程度までの自転車と電動原付を、高速帯はそれ以上のスピードが出せるクルマを想定。自由な動きを求められる低速帯ではマナーを重視し、通過機能が第一の高速帯では厳格な法律の適用を求めている。
自転車はこの「中速帯」に位置することになるわけだが、たしかに、クルマと同等のルールを課されるのは当然といえども、気になるお店が見えたのでちょっとペダルを止めてみた、ということまで禁止されるのではたまったものではない。金氏の言うように、「安全第一」であっても、第二や第三の目的がなければ、自転車に乗ることから得られるはずの社会のルールや市民としての自覚も削がれてしまう。
自転車道や自転車レーンの設置をはじめとする自転車走行空間の整備、シェア・サイクルの導入など、日本各地で今、自転車利用に対する多種多様な取り組みが行われている。そういった情報を断続的にでもキャッチアップしていると、相変わらず日本は「社会実験」という名の断片的なプロジェクトばかりが目につき、国家レベルで「自転車をどう活用していくか」というフレームワークがまったく見当たらないことに気付かされる。
ごく短い区間にだけ自転車レーンを設置し、「以前と比べて走りやすくなりましたか?」というアンケートをとったら、大半の人は「走りやすくなった」と好意的な回答を書き込むに違いない。きれいに整備された専用の自転車空間は、その部分だけなら優れている。否定的な意見が来ても「実験」なら文句は少ないし、実施側も「期間が過ぎたら終了しますから」と逃げが打てる。
しかし、一部の区間に自転車道なり自転車レーンなりを敷設しても、見向きもされない。自分の走行経路が歩道だったり車道だったり、はたまた自転車レーンだったりすれば、道路状況も違うし走り方も変えなくてはいけない。そんな面倒なことをさせられるくらいなら、車道を一直線、もしくは歩道を……という選択が自転車利用者のきわめて合理的な考え方である。
言うまでもなく、自転車は目的地に到達するための交通手段のひとつだ。自転車に乗ることそのものを趣味とする人が昨今急増していることは承知しているが、通学や買い物のための「足」として使い回す人が多数派であることに変わりはない。移動手段をサポートするハードウェアは、ある程度長い距離でネットワークを形成していなければ意味がない。鉄道でもバスでも、目的地まで、もしくはその近くまで乗っていけるから利用される。移動ルートのごく一部に線路や路線があるだけでは、誰も乗ろうとしない。自転車道や自転車レーンも同じである。
社会実験というなら、もっと長く、さらに広いエリアに自転車道を設けなければ、正確なデータは得られない。加えて言うなら、「実験」であれこれ議論する時間と予算があるのであれば、それをスキップして、自転車道をどんどん設置しなくてはいけない段階に来ているのではないか。その上で、三年、五年といった長い単位で利用者や住民の意見を集約し、次のステップに活かす。ネットワークという水平軸、時間という垂直軸、どちらもより大きく取らなくてはならない。
個人的には、社会実験という段階はもう過ぎていると思っている。小規模な実験を散発的に実施するよりも、主要道路すべての左端を自転車レーンとして塗装すべきであろう。自分の周りのあちこちに青色(青でなくてもよいが)のレーンが見えれば、「今度からここを走るのだな」という認識が自転車利用者にも生まれてくる。せっかく立派なレーンがあっても誰も使っていない現状だと、「自転車レーンを走ろう」という教育的なメッセージの波及効果も期待できない。
日本では、ドライバーの歩行者優先意識はかなり高い。右左折時、横断歩道上に歩行者がいれば、きちんとその前で停止する。歩行者のほうが車の通り過ぎるのを待つのが常識という国も少なくない中で、日本のドライバーの優先度意識は高い評価を与えられてよいと思う。であれば、現在のクルマと歩行者の立ち位置の間に自転車を挿入して、歩行者、自転車、クルマと優先度が高い順に並べることはさほど難しくないはずだ。
「自転車は車両」といっても、クルマと同列であるわけではない。自転車はクルマほどスピーディーに動けないし、パワーもない。だから、異質な者どうしが「ダイバーシティ」を認め合い、同じスペースを「シェア」できるかどうか、いや、シェアしていかなくてはならないという意識が必要だ。
茨城大学の金利昭准教授は、電動アシスト自転車や電動原付自転車など、従来はなかった乗り物の出現を受けて、道路を「低速帯」「中速帯」「高速帯」の三つに区分すべしと提案している。低速帯は時速五キロ程度までの歩行者や車椅子を、中速帯は時速一〇~二〇キロ程度までの自転車と電動原付を、高速帯はそれ以上のスピードが出せるクルマを想定。自由な動きを求められる低速帯ではマナーを重視し、通過機能が第一の高速帯では厳格な法律の適用を求めている。
自転車はこの「中速帯」に位置することになるわけだが、たしかに、クルマと同等のルールを課されるのは当然といえども、気になるお店が見えたのでちょっとペダルを止めてみた、ということまで禁止されるのではたまったものではない。金氏の言うように、「安全第一」であっても、第二や第三の目的がなければ、自転車に乗ることから得られるはずの社会のルールや市民としての自覚も削がれてしまう。