goo

政党なきエリート競争型デモクラシー

『現代日本の政党デモクラシー』より 岐路に立つ日本の政党政治

ツイッター上での渡邊に対する反論のなかで橋下が強調しているのは、メディアのチェック機能のほかに、政治家が任期付きで選挙によって選ばれるという事実である。しばしば変わり、矛盾も多い橋下の発言で一貫していることの一つは、選挙至上主義である。『橋下語録』にも、「選挙が全てじゃないとか言われるが、民主主義の世の中で、じゃあ選挙以外にどうやって物事を決めるのかといえば選挙しかない」という発言が取り上げられている。橋下にとって選挙とは、有権者の票をめぐる政治家の競争の場である。小泉政権が進めた新自由主義的改革に対する支持や学カテストの市町村別の公表にみられるように、あらゆる分野での競争の促進は、橋下の基本的な方針である。地方分権も、住民自治の拡充よりも、自治体を自立させ、競争させることを目的とする。実際、橋下は「競争力は僕の政治哲学だ」と語っている。

しかし、橋下は、選挙で示された民意の尊重を唱える一方で、有権者に対して全幅の信頼を置かない。「世論調査の評価など何かあればすぐに変わる」といった発言からうかがわれるのは、不安定な世論の支持に立脚する自分の権力の脆弱性への冷めた認識とともに、世論を操作の対象として捉える政治的リアリズムである。橋下にとって、民主主義の主役は有権者ではなく、あくまでも政治家なのである。だからといって、それは決してファシズムではない。メディアを意識して発せられる刺激的な言葉を割り引いて考えるならば、橋下の「白紙委任」発言は、菅が目指してきたマニフェストを軸とする市場競争型デモクラシーの否定と、小沢が目標としてきたエリート競争型デモクラシーの肯定を意味するとみるべきであろう。

ただし、二大政党制の実現を追求してきた小沢とは違い、橋下のエリート競争型デモクラシーに特徴的なのは、政党をその不可欠の、少なくともその重要な構成要素として位置づけないことである。政権の座をめぐって競争する主体は、政党ではなく、政治家個人である。やや強い表現を使うならば、政党なきエリート競争型デモクラシーと呼ぶことができるであろう。事実、橋下が理想とするのは、「古い自民党をぶっ壊す」と叫び、長期政権を続けた小泉首相である。橋下は、「小泉元首相みたいなスー・パーマンじゃないと、政権運営はできない。大統領制は天皇制に反するので、憲法を改正して首相公選制を目指すべきだ」と語っている。つまり、首相が与党を否定することでリーダーシップを発揮した小泉政治を制度化するのが、首相公選制なのである。

もっとも、首相公選制が本当に首相の権力を強化するかについては、少なからぬ疑問が残る。行政権と立法権が分離してしまい、仮に参議院を廃止したとしても、首相と衆議院の間に「ねじれ」が生じる、つまり与党が衆議院で少数派にとどまる分割政府となり、かえって首相がリーダーシップを発揮できなくなるおそれがある。それを避けるとすれば、首相が持つ憲法上の権限を強め、事実上の立法権を付与するといった措置が講じられなければならない。こうした難しさもあって、当初、首相公選制の導入を目指した小泉も、最終的に見送らざるを得なかった。首相公選制の導入には、「日本維新の会」が国政においてどこまで伸長できるかという問題に加え、内容面でも大きなハードルが存在している。

とはいえ、政党なきエリート競争型デモクラシーが浮上した原因には、マニフェストを軸とする市場競争型デモクラシーの行き詰りがある。だからこそ、かつて棚上げされた首相公選制が、復活してきたのである。そもそも二〇〇三年にマニフェスト運動が本格的に開始された背景には、小泉が首相公選制の導入を図ったことがあった。小選挙区制の導入を中心とする政治改革が進められたにもかかわらず、二大政党制の担い手たる自民・民主両党は凝集性を欠き、無党派層の増大にみられるように、有権者の政党離れが起きていたのが、その当時の政治状況であった。それから約一〇年後、もう一度、振出しに戻ってしまったのである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 存在と無から... 「本質」 »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。