goo

豊田市中央図書館の30冊

366.29エン『現場女子』輝く働き方を手に入れた7つの物語

331『ミクロ経済理論』

674『売れるキーワード事典』心をつかむキャッチコピーが書ける アピールしたい内容別に、ほしい言葉が必ず見つかる!

462.03『絶滅危惧種 図鑑レファレンス事典』

369.31『大津波を生き抜く』スマトラ地震津波の体験に学ぶ

333.8『クライシス・キャラバン』紛争地における人道援助の真実

290.93『イタリア』

762.34『モーツァルトとナチス』第三帝国による芸術の歪曲

141.5『ビジュアル3分間シンキング』仕事も人生も整理整頓して考える

021.4『だれでもレイアウトデザインができる本』レイアウト・文字組・配色、センスアップのコツ

007.35『ITプラットフォーム』一目でわかる 市場を制するしくみ 利益を生み出す構想 課題と今後の展望

336.7『公民連携白書』シティ・マネジメント 地域の収入と支出、資産と負債のバランスを考えて行財政を行うべきことは国の違いはない。「シティ・マネジメント」は、日本でも、今後すべての自治体が導入すべき手法である。

302.61『エクアドルを知るための60章』

209『世界史史料11 二〇世紀の世界Ⅱ』第二次世界大戦後 冷戦と開発

404『ドーキンス博士が教える「世界の秘密」』

748『ナショナルジオグラフィック 1,2,3』

146.8『死別の悲しみに向き合う』グリーフケアとは何か

685.8『自転車が街を変える』

147.8『磁場と反転』その人、田池留吉

595.6『朗読ダイエット』 朗読で体芯を鍛える! 脳も活性化! 語学も身に付く! リバウンドなし!

596.23『100語でわかるガストロノミ』グランシェフたちの料理にかける情熱

360『社会問題の社会学』

319.8『入門 人間の安全保障』

382.42『女ノマド、一人砂漠に生きる』恐怖と欠乏からの自由を求めて

791『茶の湯と日本文化』飲食・道具・空間・思想から

813.4『早引き場面別ことわが&四字熟語辞典』

816『ウェブでの<伝わる> 文章の書き方』

007.64『図解でかんたんアルゴリズム』情報処理のかなめとなる考え方が手に取るようにわかる!

913.6『大空のドロテⅢ』

992.1『内乱 パルサリア』
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

日本の土木工事はコンパクトに

根源的に考える

 ひたすらに、自分の夢に向かった。

 まじめにやるのは、個人の分化です。一人で考えることが実証されました。周りからも干渉されません。

 本来はパートナーがやるのと変わりがありません。それは自分の理論のための実証実験のためです。知識と意識はグループで持ってこられるか。そのためには何が必要なのか。

日本の財政再建

 日本の財政再建にしても、どんな国にしていくことがなくて、物価を上げるといっても意味がないです。地域から積みあげていく議論がいります。マスコミは付和雷同的に動いています。その時に、そう言ったというだけです。物価が上がったら、何もしていないのに、自分たちの成果というのでしょうね。

 それらのついても、私のブログに書いていきます。私のすべてのログを残します。だから、クラウドの価格の実態についても、思いついたことをすべて、書き留めます。

国の土木工事

 国の政策で一番、気に入らないのは、土木工事ですね。本当にそんなもので時間とお金を無駄にするのか。問題は中身です。自転車道を作るとか、駐輪場を埋めるとか、生活をコンパクトするとかの工事ならわかるけど、単に道路工事ではどうしよう間内。それも国主体ではダメです。

 宮城は復興工事で潤っているみたいです。新しい社会を作るのではなかったのか。それはあくまでも、意味のない、中央での富の再配分にすぎない。

豊田市図書館のレベル

 先週の豊田市図書館の返却されていないという、二冊の本は、図書館側のミスでした。

 金曜日に行けずに、土曜日の開館に合わせて、新刊書コーナーへ行きました。本は十分になかったけど、そこから無理やり、30冊借りました。自分の苦悩を本にぶつけます。

内なる世界に向かう

 何しろ、早く、未唯宇宙を拡大すると同時に、自分の意見をまとめて、自分の内なる世界をはっきりさせていきたい。それなら、外なる世界がグチャグチャしても、内なる世界を作るのが目的です。

 今まで、パートナーに頼っていた部分を補わないといけない。私の目の前にいる限りは、パートナーです。中野さんのように、別の部署に替わっても、10年間はパートナーでした。パートナーというのは、常にどう考えるかと考えることです。元々、仮想のものです。

人道援助をどこに位置づけるか

 平和に対する戦争、戦争に対する人道援助がなかったので、OCR化して、未唯空間に位置づけます。今回の30冊は自分のジャンルに関係なしに借りたので、こんなものもありました。

モーツアルトとナチ

 元々はナチから始まっていた。ナチといえば、ワーグナーです。モーツアルトもナチの宣伝に巻き込まれていた。「モーツアルトとナチ」で書かれていた。

 オーストリア人だとおもったら、ナチにドイツ人」にされていた。あまりにも影響力が地よかったので、没後150年に巻き込まれた。本として出ることで、存在理由を認めましょう。だから、すべてを知りたいのです。

動物が三匹 1,2,3

 今更のジオグラフィックス、1,2,3.これは面白い本です。すべて、動物が三匹並んでいます。そうすると、表情の違いが分かります。

 返本するときに、交流館の女性に推奨したら、喜んでくれました。ちょっとした、つながりです。

家のパソコンがダメです

 心と同様に、家のパナソニックのパソコンも本当に不安定です。起動するまで、ずっと待っています。

 やはり、セブンでパワーポイントが入っているものを買ってくるしかない。エイトではインスピレーションの稼働保証ができないのと、あの初期画面は嫌いです。そうなると、予算は10万円ですね。

 その前に、バックアップできるものはさせておきます。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

アフガニスタン 活動再開への交渉

『人道的交渉の現場から』より

2004年7月28日、MSFの代表2人が首都カブールで記者会見を開き、MSFはアフガニスタンから撤退すると発表した。MSFのスタッフ5人が6月2日にバドギス州で殺害され、それから2ヵ月近くたってもカブールのアフガニスタン当局は容疑者を逮捕・起訴しようとしなかった。さらに、タリバンのスポークスマンらしき人物が犯行声明を出し、MSFが「米国民のためにスパイ活動をしている」と非難してさらなる攻撃を正当化していた。こうした事態を受けてMSFは、「独立した人道援助活動は、非武装の援助活動従事者が紛争地域に赴いて行うものだが、それがアフガニスタンでは不可能になった」と判断した。

MSFは主にこうした理由で撤退したが、記者会見では、事態がここまで悪化した原因は多国籍軍にもあると付言した。米国主導の有志連合は組織的に人道援助を取り込んで、それを「人心掌握」の手段にしようとしたために、中立・公平という人道援助従事者のイメージが著しく損なわれたと主張した。

記者会見参加者の多く、とくにアフガニスタン史上最悪の状態にあった時期を含む24年間にわたるMSFの活動を覚えている向きは、この決定に驚いた。「撤退せずに(中略)、治安状況に対処する方法はないのか」と質問する者もいた。

数週間後、ブッシュ政権に近い米国人研究者シェリル・ペナード氏は『ウォール・ストリート・ジャーナル』に寄稿して、安直な解決策を示した。

「そこは別世界なのだ。(中略)国境なき医師団が掲げる原則、つまり、苦しんでいる人びとに医療援助を提供する民間の専門家は安全な通行を保証されるなどというのは古き良き時代のことだ。(中略)現実を客観的に判断すれば、国境なき医師団のような組織は、駐留軍の縮小ではなく増強を要求することになる。軍と活動領域を分けるのではなく、協力関係を密にしていく必要がある。そうでなければアフガニスタンだけでなく、21世紀のほとんどの紛争地域から撤退するしかない」

これに対しMSFインターナショナル会長は、「『対テロ戦争』においては、どちらの側につくのか選ぶことを求められる。ベナード氏の言う『客観的な判断』も(中略)この論理の一例にすぎない。私たちはどちらの側にもつくことはしない」と反論した。こうした論争は以前からあったが、ブッシュ政権が2001年9月11日の米国同時多発テロ事件に対する報復として、アフガニスタンで不朽の自由作戦(OEF)を開始し、人道援助NGOにこの闘いへの参加を求めるようになってから激しさを増した。とはいえ、MSFのスタッフが殺害される何カ月も前からMSFは複雑な思いでいた。多国籍軍やアフガニスタン当局から距離をおきたいと思いながらも、事実上の交渉相手は多国籍軍とアフガニスタン当局であったからだ。「国際社会」がカルザイ政権を公に支持して打ち出した再建計画には与しなかったが、タリバン政権の崩壊以後、MSFは反政府武装勢力とは接触せず、反政府勢力が拠点を広げつつあるといわれていた地域を含め、プログラムを大幅に縮小した。アフガニスタンで20年もの活動歴をもつことから、MSFの内部では活動の正当性を得られて当然と感じていたが、それもアフガニスタンで活動する主要な政治、軍事および援助団体の行動計画とますます調和しなくなっている「人道援助への例外」への尊重を担保にするには十分ではなかった。

では、なぜMSFは2009年にアフガニスタンに戻って、カブールだけでなく、多国籍軍、アフガニスタンの治安機関、反政府武装勢力による最も激しい戦闘地域のひとつであるヘルマンド州でもプログラムを再開できたのか。2008年は援助活動従事者にとって最も危険な年であった。そして2009年には民間人と軍の犠牲者が過去最高を記録した。つまり、どんな魔法を使っても「人道的空間」が再び生まれるとは思えない状況にあった。しかしながら、「別世界」はベナード氏が数年前に主張したのとは全く違った意味合いをもつようになっていた。本章で述べるように、紛争のダイナミックな展開とアフガニスタンにおけるさまざまな主体の利益が絡んで、MSFの援助活動の妥当性が再認識され、MSFは内戦に巻き込まれた人びとへの医療提供に関して交渉する新たなチャンスを得た。

以下は、緊急介入や資源の速やかな配備を伴う人道援助活動ではあまりみられないやり方だが、MSFがアフガニスタンで活動を再開するために、あらゆる勢力、あらゆるレベルの交渉担当者を見きわめて指揮系統に沿って交渉する努力を延々と続けるという進行中のプロセスの記録である。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

自転車のグランド・デザイン

『自転車が街を変える』より これからの自転車社会

自転車道や自転車レーンの設置をはじめとする自転車走行空間の整備、シェア・サイクルの導入など、日本各地で今、自転車利用に対する多種多様な取り組みが行われている。そういった情報を断続的にでもキャッチアップしていると、相変わらず日本は「社会実験」という名の断片的なプロジェクトばかりが目につき、国家レベルで「自転車をどう活用していくか」というフレームワークがまったく見当たらないことに気付かされる。

ごく短い区間にだけ自転車レーンを設置し、「以前と比べて走りやすくなりましたか?」というアンケートをとったら、大半の人は「走りやすくなった」と好意的な回答を書き込むに違いない。きれいに整備された専用の自転車空間は、その部分だけなら優れている。否定的な意見が来ても「実験」なら文句は少ないし、実施側も「期間が過ぎたら終了しますから」と逃げが打てる。

しかし、一部の区間に自転車道なり自転車レーンなりを敷設しても、見向きもされない。自分の走行経路が歩道だったり車道だったり、はたまた自転車レーンだったりすれば、道路状況も違うし走り方も変えなくてはいけない。そんな面倒なことをさせられるくらいなら、車道を一直線、もしくは歩道を……という選択が自転車利用者のきわめて合理的な考え方である。

言うまでもなく、自転車は目的地に到達するための交通手段のひとつだ。自転車に乗ることそのものを趣味とする人が昨今急増していることは承知しているが、通学や買い物のための「足」として使い回す人が多数派であることに変わりはない。移動手段をサポートするハードウェアは、ある程度長い距離でネットワークを形成していなければ意味がない。鉄道でもバスでも、目的地まで、もしくはその近くまで乗っていけるから利用される。移動ルートのごく一部に線路や路線があるだけでは、誰も乗ろうとしない。自転車道や自転車レーンも同じである。

社会実験というなら、もっと長く、さらに広いエリアに自転車道を設けなければ、正確なデータは得られない。加えて言うなら、「実験」であれこれ議論する時間と予算があるのであれば、それをスキップして、自転車道をどんどん設置しなくてはいけない段階に来ているのではないか。その上で、三年、五年といった長い単位で利用者や住民の意見を集約し、次のステップに活かす。ネットワークという水平軸、時間という垂直軸、どちらもより大きく取らなくてはならない。

個人的には、社会実験という段階はもう過ぎていると思っている。小規模な実験を散発的に実施するよりも、主要道路すべての左端を自転車レーンとして塗装すべきであろう。自分の周りのあちこちに青色(青でなくてもよいが)のレーンが見えれば、「今度からここを走るのだな」という認識が自転車利用者にも生まれてくる。せっかく立派なレーンがあっても誰も使っていない現状だと、「自転車レーンを走ろう」という教育的なメッセージの波及効果も期待できない。

日本では、ドライバーの歩行者優先意識はかなり高い。右左折時、横断歩道上に歩行者がいれば、きちんとその前で停止する。歩行者のほうが車の通り過ぎるのを待つのが常識という国も少なくない中で、日本のドライバーの優先度意識は高い評価を与えられてよいと思う。であれば、現在のクルマと歩行者の立ち位置の間に自転車を挿入して、歩行者、自転車、クルマと優先度が高い順に並べることはさほど難しくないはずだ。

「自転車は車両」といっても、クルマと同列であるわけではない。自転車はクルマほどスピーディーに動けないし、パワーもない。だから、異質な者どうしが「ダイバーシティ」を認め合い、同じスペースを「シェア」できるかどうか、いや、シェアしていかなくてはならないという意識が必要だ。

茨城大学の金利昭准教授は、電動アシスト自転車や電動原付自転車など、従来はなかった乗り物の出現を受けて、道路を「低速帯」「中速帯」「高速帯」の三つに区分すべしと提案している。低速帯は時速五キロ程度までの歩行者や車椅子を、中速帯は時速一〇~二〇キロ程度までの自転車と電動原付を、高速帯はそれ以上のスピードが出せるクルマを想定。自由な動きを求められる低速帯ではマナーを重視し、通過機能が第一の高速帯では厳格な法律の適用を求めている。

自転車はこの「中速帯」に位置することになるわけだが、たしかに、クルマと同等のルールを課されるのは当然といえども、気になるお店が見えたのでちょっとペダルを止めてみた、ということまで禁止されるのではたまったものではない。金氏の言うように、「安全第一」であっても、第二や第三の目的がなければ、自転車に乗ることから得られるはずの社会のルールや市民としての自覚も削がれてしまう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )