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新しい姿勢 どの世代も前の世代より数が多く

『紙の約束』より

高齢者人口は政府の負債に影響を及ぼすだけではない。こうした人口の変動を、労働する能力と、負債を引き受ける意思に照らして考えてみてほしい。大まかにいえば、引退者は三つの収入源に依存している。公的年金、自身の貯蓄、雇用による年金だ。雇用者が引退すれば、こうした資金源が重要な収入の成長を生み出すことはなくなる。高齢者が望めることといえば、せいぜいインフレについていく程度だろう。

それなのに高齢者はどうして、負債を引き受けたり、与えられたりできるのだろう? 債権者にしてみれば、引退した人間のキャッシュフローが、元本と利子を返済できるほど改善するという信頼は持てないはずだ。高齢者が今より大きな家を持とうとすることは考えにくい。むしろ通常は、子供たちが家を出ていったときに、小さな家に買い換えようとする(キャッシュフローを生み出すために、自宅を担保にして借金をしようとする高齢者もいるだろう)。

投資のライフサイクル理論とは、人間が貯蓄する額は、年齢によって異なるというものだ。若い頃にはあまり蓄えず、多く借りる。中年になると、ほとんどを蓄えにまわす。そして引退すると、蓄えを吐き出していく。この理論に従うなら、一九九〇~二〇〇〇年代の貯蓄率にはひとつの波がやってくるはずだった。ベビーブーマーたちが四五~五五歳の年齢幅に入ってくる時期だったからだ。

しかし奇妙なことに、アメリカのベビーブーマーたちはまったく逆のことをした。一九九〇~二〇一〇年まで、歴史的な基準から見て、貯蓄率はきわめて低かった。これは将来の災いのもとになると警告する識者もいたが、自由市場主義の経済学者たちは、この貯蓄率の数字は低く見積もられている、ベビーブーマーたちが住宅や株で得たキャピタルーゲインが反映されていない、と反論した。こうした経済学者たちの意見は、この現象の裏にある動機付けに関しては正しかった。ベビーブーマーたちは、自分の持つ資産の価値が上がるにつれ、もう収入の一部を貯蓄にまわす必要はないと思い込んだ。しかしキャピタルダインは永遠ではなく、実際にエクイティの利益は二〇〇〇~○二年から、不動産の利益は二〇〇七~○九年から下がりはじめた。

経済全体への影響でいえば、収入が貯蓄にまわされるのは、将来の成長を刺激する投資のための基金ができるという意味で重要だ。キャピタルダインとは将来の成長が早い段階で認められることである。住宅や株の価格が上がるのは、多くの人々が給料や利益が将来的に増えると期待しているからだ。しかしこのキャピタルゲイン自体は、そうした給料や利益の増加を生み出すようなことは何もしない。二〇〇七年には、五五歳以上のアメリカ人で、一〇万ドル以上の貯蓄がある人々は全体の半分にも満たなかった。昔ながらの「二〇倍の法則」(望ましい収入を得るにはその二〇倍の元手が必要になる)を用いれば、これは年金に直すと年間五〇〇〇ドルにも満たないことになる。

高齢煮が必要なものには、さらに別の意味合いもある。なんとか貯蓄に頼って暮らしていこうとすれば、自分の資産、とりわけ家を売ることになる。これはよくある成り行きだ。しかし過去には、売る側の世代は買う側の世代より少数だった。だから過去の高齢者は、買ったときよりも高い価格で資産を売ることができたのだ。これは現在の高齢者にとってはもちろん、大きな失望となるだろう。しかし住宅ローンを借りている就業年齢の人々にとっても、これは問題となる。資産価値がマイナスになってしまう人々が増えるだろう。そして投資としての住宅(セカンドホームとして、あるいは貸家として)への需要は、確実に低下するだろう。

長期的には、住宅の価値はGDPに一致して上昇すると考えられるだろう。好況の時期には速いペースで高騰する。したがって住宅価格は、上の世代の資産売却による二重の打撃に直面する。GDP成長がゆるやかになると、住宅価格の上昇率も自然と鈍りはじめる。そして住宅の平均価値は少なくとも、GDPとの昔ながらの関係にもどっていく。高齢者層が引退後のための資金手当てをするためだ。

現在のような低金利の時代が続けば、高齢者の生活はきびしくなっていく。すでに引退していて、資産のかなりの割合を預金の形で持っているとしたら、収入はもう低下しているだろう。だが引退を迎えようとする人たちにも、暮らしはやはり苦しいものになる。引退のために必要な収入を生み出せる元本を積み立てなくてはならない。金利が五パーセントなら、二〇万ドルの元本から一万ドルの収入を得られるが、金利が二パーセントなら収入は四〇〇〇ドルにしかならない。引退を迎えようとする人が一万ドルの収入を目論んでいるなら、貯蓄はそれよりはるかに多くの五〇万ドルが必要になる。これは大変な負担だ。

さらにまずいのは、それだけの元本をつくろうとする試みも、低金利のせいで困難になるということだ。引退を迎えようとする人は、収入の一部を貯蓄しなくてはならない。貯蓄による収益は仕事の報酬と比べて少ないからだ。したがって利子の低さは、逆に貯蓄を促す方向に働く--すばらしいパラドクスだ。ちなみに、引退者が自分の力で貯めるのでも企業の制度を通じて貯めるのでも、なんらちがいはない。同じ原則が当てはまる。

要するに、政府がこれまでに蓄積した負債の利子や、高齢者福祉の社会的費用を支払っていると、成長は鈍り、納税者の負担は大きくなっていくということだ。まさしく親の因果が子に報いているのだ。政府が負債を負えば、若い世代はそれからずっと、上の世代の負債を返済していかなくてはならない。しかし過去三〇〇年との重要なちがいは、これまではどの世代も前の世代より数が多くなっていたことだ。先進国の高齢化は、それがもはや当てはまらないことを示している。ポンジー・スキームのカモが尽きようとしているのだ。
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提言報道の正体

『Yの悲劇』より

魚住 読売は「提言の読売」を謳っています。読売のウェブサイトの「紙面紹介」では「提言の読売」について、「国の岐路に進むべき方向を指し示す提言報道。読売新聞が確立した新しい報道の形」と説明し、その具体例として二〇〇四年に掲載した読売新聞社による憲法改正試案を紹介しています。読売では一九九四年から改憲の提言や試案を発表していますが、改憲の世論喚起のために旗を振ることは、公正な報道を使命とするはずの新聞の倫理に反する暴挙であると、各方面から厳しく批判されました。試案は渡邊さんの〝私案〟だという批判もありますね。

また、渡邊さんが社説でよく主張するのは、税制問題についてです。例えば、相続税が高すぎるとか、所得税の累進税率が異様に高いとか主張してきました。その効果もあって、この二十上二十年で相続税や累進税率がどんどん低くなっていくし、それに比例して拡差はどんどん大きくなってきた。私は渡遵さんがそのオピニオンリーダーとして果たした役割は大きいし、それは厳しく批判されるべきだと思うんです。

清武 消費税の問題がその典型ですが、社論は大蔵省(現・財務省)に引きずられるところが非常に多かったように思います。読売ではよく、勉強会を開いていました。各部のデスククラスまで呼んで、大きな会議室で開くんです。講師として招かれるのは、官僚やその出身者が多かったですよ。

魚住 それは、渡邊さんが主宰する勉強会なんですか。

清武 主導ではあったんでしょうね。社論を統一するために、あるいは提言報道をするために、いろんな人を呼ぶわけです。

経済部の人間だって所詮、専門家にはかないませんから、こういう席ではひたすらご意見拝聴ですよ。そして官僚寄りの識者のオピニオンを掲載し、それに迎合する形で社論が統一されていくんです。

橋本行革の際、大蔵省を財務省にするかどうか、大蔵省を二つに割るかどうかで、ものすごくもめましたよね。あのとき、渡遭さんの説は完全に大蔵省寄りでしたよ。大蔵省の代弁者みたいな感じでした。

やはり、新聞社は批判者であるべきです。だって、不良債権問題にしてもそうですが、金融界挙げて大がかりな債権飛ばしが行われているという実態について、それは税務当局が調べ、新聞社もそれに気づくところまで行っていたんだけれど、その追及を封印してしまった。それによって、不良債権の処理と責任の究明が大きく遅れましたよね。

魚住 改憲問題でも、識者のオピニオンを載せ、社説を載せ、紙面を改憲一色にするということをやってきましたね。

清武 そうですね。その場合、勉強会といっても、改憲に批判的な人も含めて呼ぶということはないし、批判的なオピニオンが載ることもありません。そこが問題だと思うんですよ。

魚住 渡邁社論の特徴は、煎じ詰めれば大蔵省の言い分ですよね。消費税だってそうだし、累進税率を下げることもそうだし、大蔵省がやりたいことを渡邊さんのところにご注進して、渡邊社論として展開していくという構造ですね。

渡邊さんは、「オレが一番いろいろ情報を持っているし、オレが一番頭がいいんだ。オレの言っていることは間違いないんだ。その間違いないことに対して、反対は許さないんだ、出ていけ」という論理なんですね。

清武 そうそう。異論を口にして論説委員たちの前で怒鳴られた人もいます。すると沈黙か迎合者しか残らない。

魚住 普通だったら、自分はこう思う。自分はこれが絶対正しいと思う。だけど、ほかの違う意見がある。では、両論併記で、その違う意見も意見として取り上げようではないかということになるはずでしょう。いわゆる寛容さがまったくないんですね、あの人には。

それでいて、「現代の日本のどこに言論抑圧権力があるんだ」なんて言うで

清武 それは、あなた自身だろうって。

魚住 そうそう。それは要するに、さきほど私が言った「戦前と戦後では違うんだ」論なんですよ。戦前は言論を抑圧されていたけど、戦後は表現の自由ってもんか保障されているんだ。だから、そんな、さもどこかに言論の抑圧権力があるかのように発言する左翼たちはけしからん、出ていけということになるんです。

清武 紙面が渡邊社論一色に染まるとともに、読売グループの構成も変わっていきます。二〇〇二年には読売グループの持ち株会社をつくり、体制を整備して関連会社のすみずみにまで渡涜さんの意思が通るようになりました。

魚住 読売新聞グループを再編成し、持ち株会社「読売新聞グループ本社」(渡邊恒雄社長)の下、読売新聞東京本社、読売新聞大阪本社、読売新聞西部本社、中央公論新社、読売巨人軍の五つの本社を配する体制になった。みな、同じ釜の飯を食べるようになったのでしょう。

清武 そう、それで渡邊さんの支配体制が完成したわけです。
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予言者の運命

予言者の運命

 だから、チェムスキーも予言者です。私も同じですけど。そして、予言どおりになっていく、どんどん悪い方に向かっていく。予言者は沈黙に入る。言っても意味がない。内なる世界で十分なのです。

 だけど、あるポイントを超えたときに、予言者が言っていることの意味が皆に一気にわかる。そこでどう動くかで、一応、予言者は生存している。自分のミッションがそうです。予言してきたことが、一つ一つ、現実になっているのに、当事者には分からない。

 社会は変わるはずがないと思っている、会社は変わるはずがないと思っている。むしろ、変えたくないと思っている。あるところで、社会は動き出します。会社は上位者が動き出し、下位者が同調します。

 それでも、彼らは変わらない。矛盾がさらに増すだけです。そこで、予言者は圧迫される。余分なことを言うな! だけど、予言者が予言者である限りは、リリースされます。偶然に機会を狙って、それを皆に見せます。

 今回も、実現するのが目的ではなく、こうなっているから、こうしないといけないということを見せるだけです。それを上位者が理解して、進んできた方向を変えていければ、それで十分です。

 社会を変えるとか、会社を変えるというのは、多分、その程度なんでしょうね。クリティカルポイントまで持って行って、変えられるか、落ちるのか。

 この会社がそこまで来ているかどうかわからない。売れているかを判断基準にしています。その先がどうなるかの政策も立てられないのです。

 民主主義も同じだけど、皆が考えて、自分の幸せと皆の幸せを感がることそのものです。共和制と比べると、皆が考えてどうするのかを決めるのは難しい。

ルールだけでなく、コミュニティで革命を起こす

 エジプト革命にしても、革命はできたけど、そのあと、幸せにはなってはいない。ロシア革命も同じです。決して、幸せにはなることはできなかった。独裁制になってしまった。そのままでも、同じ結果かもしれないけど。

 エジプトの場合は、軍部の力が大きすぎる。決して、ムスリム同胞団が支配している訳ではない。一般民衆がコミュニティを核にして、国を作り上げるところまで来ていない。

 SNSから、グループはできない。グループからSNSはできるけど。だから、コミュニティをいかに強くできるか、そこで個人の分化と組織の分化をできるかの、正当なアプローチが必要です。

 ツールだけで、どうしようもないことは分かっています。民衆の意識があれば、ツールでまとめれば、革命は起こせます。デモが革命で起こるかどうか。当事者だけは革命が起こります。個人が分化します。中国で再革命は起こるのか。それは、組織の分化で決ってきます。

 分化したものをいかに安定的に多様化していくのか。そのためのプロセスが重要です。スタッフが意見を言うようになった時に、どのように収集していくのか。スタッフ中心とは言わないけど、ループの出発点をスタッフにするのが目的です。

 その状況から、企画が意見を聞いて、まとめていくのか。そのイメージを早く作らないといけない。

スタッフが分化する理由

 そこで重要なのは、スタッフが分化する理由です。お客様の方を向いていれば、売るということだけでは済まないでしょう。サービスとかマーケティングそのものの定義を変えていかないといけない。

 売ることではなく、使うことを考える時には、もっと多様な手段を使わないと。そのためには、想像力を働かせるかです。売るのは簡単だけど、使うためには、クルマだけではなく、道路も関係するし、政策も関係するし、お客様の人生観も関係します。

 当然、政治形態も、民主主義も関係する。それらをどのように積み上げて、同調者を作っていくかです。今までは、エネルギーを安価に生み出すことを考えていたけど、使うことを減らしていけばいいんです。
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内なる世界で十分だが

知識と意識のコミュニティ

 目的は作ることではない。知識と意識のコミュニティのイメージつくりです。

デジタル・アーカイブ

 デジタル・アーカイブというところも一つに込められています。

内なる世界で十分ではないか

 内なる世界は論理からできている。全てを支配しているから、回していくしかない。

 モーゼの十戒にしても、内なる世界で作ってきたものを表に出してきたのでしょう。チェムスキーにしても、すべて、言っていることが実現するわけではない。個人の制約ではなくて。

 個人の制約よりも、組織の制約の方がはるかにでかい。個人で自由であることが重要です。個人の制約がそのまま、制約できるものではない。それは確かです。

 組織で考えたよりもはるかにいい案ができます。自分の中で回すからです。会社で決めるからと言っても、では、関係者はどれだけいるのか、考えている人はどれだけいるのか。バラバラのものを循環で考えていける関係者がどれだけいるのか。自分が淡えた自分の枠で考えている振りをしているだけです。

どういう循環にしていくか

 SFDCから見たときに、どういう循環にするのか。そういう力を使わないと無理です。

 以前、この会社にインタープリターがいるかどうか聞いた時に、GMから「いない」と明確に答えた。名古屋は現場から離れすぎています。あまり、現場に近づいてもダメです。経営者もそうですが、自分たちのことしか考えない。

 そこから、どのように考えて、全体を考えて、循環を見ていくのか。社会でもそうだが、そこが一番難しいところです。

 民主主義も一旦、落としてしまうと、そこは民主主義です。皆が幸せになるために作ったにもかかわらず、それを機構にしてしまうと、老朽化します。固定化して、それを自分たちの自工程とする。そこだけをやることになる。それをつなげるだけ、人間は賢くない。

 本来、工程化した時には、相手に対して、発火する概念が必要だが、それは全体の構成認識があって、初めて成り立ちます。トポロジーで言うところの枠があって、それがチェーンでつながるためには、それぞれがある位相を持たないといけない。

 だけど、そこに居る人は自分の勝手な位相だけで動きます。だから、つながるはずはないし、全体として、一つの目的を持つことはありえない。うまくいっている会社というのは、その部分が少しマシになっている程度でしょう。それをつなげる人が必要だということです。

皆の思いを実現する

 今やっていることをすぐに変えることはできません。その人はそれを自分のお仕事として、やっているから。

 ずーと、やってきて、皆のために、自分の思いをどうやっていくのか、最初に考えたことがいかに正当性を持つのか。私にとっては、皆の思いを実現しようすることは自分では当たり前だったけど、周りを見るとなんと少ないことか。

 それでも、組織は回っている、回っているつもりでいる。ほとんどは生活のためという名のもとの偽善です。欺瞞です。

 今回の件も、正当な意見を言っていくしかないでしょう。いかにして、全体を回すのか、それぞれのところがいかにして、幸せになれるようにしていくのか。それを核にして、周りを変えていく。本部・店舗の循環を元にして、お客様とメーカーに対して、その循環を拡大していく。それぞれのところで回っているものをいかにして、位相を合わせるかです。

著者の思い

 本を見ていると、著者の思いがいかに正しいのか、そして、いかに伝わらないのか、という気がします。

 チェムスキーにしても、ずっと、正当なことを言っている。だけど、アメリカ社会は変わらない。相変わらず、核を持ち、戦争をしています。自分が引けば済むことなのに、余分な干渉をしています。その上で疲弊していくのでしょう。その通りになっているのに、それを信用しない。
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