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政治体の必要性とその定義について

ホッブズ 『法の原理』より 政治体の必要性とその定義について

一 人間は相互にその安全が確保されるまでは、〔自然の諸〕法が存在していてもなお戦争状態にあるということ  二 戦時下にある自然法は、名誉以外になんの力も持っていないということ  三 多数者が一致してまとまらなければ安全は確保されないということ  四 多数者を一致させるには、かれらすべてが畏怖するような権力がなければ維持しえないということ  五 人間ではなく理性を欠く動物たちのあいだでも一致して集合している理由  六 一致を保持するためには連合が必要であるということ  七 連合体が作られる方法  八 政治体の定義  九 団体の定義  一〇 主権者と臣民の定義  一一 二種類の政治体、家父長制とコモンウェルス

一 第一二章第六節〔原文の一六節は誤り〕において、人びとは、その行動から受け取る報酬や処罰にかんする考えによって、「かれらの」意志をこれらの行動に向かわせまた決定させていることを示してきました。したがいまして、すべての人間が平等かつ自分自身の裁判官であることが許されている状態にあっては、各人が相互に有する〔他人への〕恐怖心は平等であり、各人は、自分自身の手腕と力量に〔安全への〕希望を託しております。そこで、だれかが自然的情念によって、自然法を侵害しようと駆り立てられたばあいには、その他の人はだれであろうと、そのことを予想して先手を打つ以外に自分自身を防衛する手段はないのであります。このような理由から、自分自身の眼から見て善と思われることをなす各人の権利を、(人は平和への志向を持っていながらも)自身の保存にとって欠くことのできない手段として、かれの手もとに保有し続けるのです。したがいまして、お互いが自然法を守るという保証が人びとのあいだでできるまでは、人びとは依然として戦争状態にありますから、自分自身の安全と便益のためになることをなすのはなんら不法なことではありません。そして、こうした安全と便益は相互に援助し合うことにありますが、それによってまたお互いに〔相手に〕恐怖心を抱くことにもなるのです。

二 武器のなかにては法は沈黙する、ということわざ風のいい方があります〔キケロー「友人ミローヘ」四の一〇〕。〔戦時下にあっても〕各人が生きていること、また各人が幸福であることが、行動の原則であります。戦時下では、人びとは、相互に法を遵守すべきであるとはほとんどいわれません。しかし、戦時においても自然法は、現在の残酷な感情を満足させてはいけないと命じます。そんなことをしても将来なんの益にもならないということが、良心においては生きているからです。残酷な情念は戦争をする精神のあり方であって、好戦欲を示すものであり、自然法に反するからであります。わたくしたちの知るところでは、古代においては、略奪は生命のやり取りでありましたが、にもかかわらず、略奪する人びとの多くは、かれらが侵略した人びとの生命を奪うようなことはなく、その人びとの生命を保存するために必要なものは残していたのであります。たとえば、すべての家畜や資産は持ち去りましたが、牛や耕作道具のようなものは取り去りませんでした。略奪でもしなければ生命を維持することが保障されないようなばあい、略奪そのものは自然法の許すところでした。しかし、同じ自然法も残虐な行為は禁じました。なぜならば、恐怖以外のなにものも人の生命を奪うことを正当化しえないからであります。そして、恐怖〔を人に与えること〕は、自分自身の弱さの意識を暴露する不名誉な行動以外のなにものでもありませんから。勇気や雅量という情念においてすぐれた人物は、残虐な行為を差しひかえていたのであります。その限りでは、戦争において、それに違反することが法を侵害するようなことはありませんが、その違反が不名誉であるような法は存在したのであります。したがいまして、ひとことでいえば、戦争における行動の唯一の法は名誉〔を守ること〕であり、戦争をする権利は慎慮である、ということであります。

三 そして、平和を確保するには相互間で恐怖心を持つことが必要であり、防衛のためには相互援助が必要であるならば、わたくしたちは、人びとがお互いにたいして容易に企てることができないほどの防衛と相互間での〔攻撃への〕恐怖心を惹き起すためには、どれほど大きな援助が必要かを考察すべきであります。まず第一に、二、三の人びとが相互に援助し合うだけでは、ほとんどなんの〔平和の〕保障にもならないことは明らかであります。事実、他方の側がひとりかふたり優位であれば攻撃を仕掛けるに十分な勇気を与えることになるからであります。したがいまして、人びとがお互いに支援を受けて十分な保障をえるには、その数は、敵が持ちうるわずかな数的な差を確実で実際的な優位にしないだけの大きさでなければなりません。

四 また相互防衛のためにいかに多くの人びとが集合したとしても、かれらすべてがその行動を同一目的に向けていなければ効果はありません。こうした同一目的への方向づけこそが、第一二章第七節で同意と呼ばれたものであります。かなり多くの数の人びとが結ぶ同意(もしくは一致)--現に起っている侵略への恐怖とか、現に征服し、そこでの戦利品をえる希望が存続する限り続く行為による--があっても、名誉を求めお互いに優越しようとする本性と、相手の大多数の人びとの多様な判断と情念によって、相互の人びとのあいだになんらか共通の恐怖心が生まれなければ、敵にたいして相互に助け合おうという同意からだけでは、かれら自身のあいだに平和状態を持続することは不可能であります。

五 しかし、これとは反対のばあいがあります。それは非理性的であるにもかかわらず、平和と利益とを防衛するためこれ以上のことは考えられないほどに、共通の利益のためによい秩序と統治のもとで継続的に生活していて、みずからのあいだで騒乱や戦争を免れているある生き物たちについての経験をあげることができます。その経験とは、蜜蜂のような小さな動物にみられるもので、したがいまして蜜蜂は政治的動物のひとつに数えることができます。では、一致することが利益になることを予見できる人間が、なぜ〔小さな〕動物たちと同じように、強制されなくとも継続的に一致することができないのか。それには、次のように答えることができましょう。すなわち、〔まず〕他の動物たちのあいだにおいては、人間のあいだにおけるようには、かれら自身の種の優越を求める問題も、名誉や相互の知恵〔の優越〕を認め合うことをめぐっての争い--そこから、相互のあいだに嫉妬や憎悪、騒乱や戦争が生じます--もありません。第二に、これらの動物たちは、それぞれが、自分たちすべてに共通する平和と食物の確保を求めます。しかし人間は--あらゆる人に顕著にみられますが--、争いの火種となる〔人を〕支配したり、〔人に〕優越しようとしたり、私的富を求めたりするのであります。第三に、これらの動物は理性を持ちませんので、統治にかんする欠陥を見つけたしたり、見つけだしたと考えたりするのに十分な学習をしていないので、その統治に満足しているのであります。しかし、人間の多くは、自分自身が他の人びとよりも賢明であると考え、誤っていればそれを変えようとする者がつねに存在し、それぞれの人が異なった方向に変えようとして戦いを起すのであります。第四に、それらの動物は言葉を持たず、お互いをそそのかして徒党を作ることができません。
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