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ブランドなんか、いらない 消費者か、市民か?

『世界の政治思想50の名著』より

消費者か、市民か?

 クラインが『ブランドなんか、いらない』を書き終えた一ヵ月ほど後、世界貿易機関(WTO)のシアトル会議で、最初の大規模な「反グローバル化」抗議行動が行なわれ、その後、世界各地で同様の活動が続いた。『ブランドなんか、いらない』の十周年記念版の序で、クラインは、反グローバル化というのは誤った名称だと書いている。彼女や他の活動家が反対しているのはグローバル化そのものではなく、国際的な自由貿易協定から地方の水利権の取引まで、あらゆる政治のレペルで、ゲームの規則が限られた企業の利益に合うように歪められてきたという事実だという。WTOやその他の組織は、市場原理を掲げ、政府を軽視して、その影響を可能な限り減らそうとする「新自由主義コンセンサス」の一部だとクラインは考えた。

 二〇〇一年に起きた同時多発テロ事件によって、クラインの活動計画は多少の遅れを余儀なくされた。その情勢の中、資本主義に異議を唱えることは反愛国的と見なされたからだ。資本主義を攻撃することはアメリカを攻撃するようなものだった。自由貿易は愛国者の義務となり、「テロとの戦い」の支援にさえなった。

 一九九〇年代に縮小され、資金不足に陥っていた多くの政府機関(空港、病院、公共交通機関、水道、食品検査)が再び注目を浴び、テロの脅威に対応する能力の不足が明らかになった。倒壊寸前の世界貿易センタービルに突入した消防士たちの英雄的な活躍そのものが、公共部門には確かに果たすべき役割があるという印となった。そして、イラクでの戦争で後方支援を請け負ったハリバートンのような民間企業が、軍部と結託して利益を上げているというニュースが報じられると、今や政府は多数のためではなく、少数の利益のために存在するという疑念が裏づけられる結果になった。

 『ブランドなんか、いらない』に続いて出版された『ショック・ドクトリン』(二〇〇七年、テーマは新自由主義経済が発展途上国に与える影響)や『Rhing Changes Everything(これがすべてを変える)』(二〇一四年、テーマは気候変動対策に対する企業の抵抗)など、クラインの著作はすべて、今の世界秩序を維持している前提に疑問を投げかけるものである。

 人びとが必要とするものよりも、企業の短期的な要求(減税、規制緩和、投資機会の拡大)を優先するとき、私たちは高い代償を払うことになるとクラインは言う。自由放任の市場原理主義が失敗している証拠が山ほどあるにもかかわらずそれにしがみつくのは盲信に近い。それは、ジハードという名の自爆テロを行なう狂信的信者の信念体系と同じように非合理的であるとクラインは考えている。

 『ブランドなんか、いらない』は四部で構成されている。「奪われた公共空間」では、文化や教育へのマーケティングの浸透に注目する。「奪われた選択肢」では、企業にとって都合が悪いために押しつぶされる文化的選択肢について考察する。「奪われた仕事」では、臨時雇い、パート、外部委託の増大を描き出す。「そして反撃は始まった」では、抵抗の具体例と「企業支配」に代わる選択肢を示す。この本は、表面上は「ブランド・ブリー(*訳注 ブランドの力を使って人びとから搾取する大企業)」という新しい権力がテーマであるように見えるが、深いところでは「今、私たちは何者なのか? 消費者か、市民か?」を問いかけている。

 『ブランドなんか、いらない』は、二十八の言語でベストセラーになり、社会的良心を持っていないとベビーブーマー世代から批判されていた世代の政治的関心を高めたとしばしば言われる。しかし実際には、態度を変えたのはベビーブーマーの方だった、とクラインは指摘している。

公共領域の浸食

 『ブランドなんか、いらない』が注目したのは、発展途上国の搾取工場だけではなかった。欧米諸国では、忍び寄る企業支配、つまり、私益による公共領域の乗っ取りが進行しているとクラインは感じ、それが本書のテーマの一つになっている。一つの重要な例は、アメリカの大学がスポーツシューズやソフトドリンクの会社と結んでいるスポンサー契約である。問題なのは、その契約の条項によって、大学がリーボックにせよコカ・コーラにせよ、契約を結んだ企業を「批判する」ことが禁止されている点だった。コカ・コーラとスポンサー契約を結んでいるケント州立大学で、アムネスティのグループがナイジェリア解放運動の人権活動家を講師に招き、コカ・コーラが当時の独裁政権を支援していることに注意を喚起しようとしたことがある。しかし、大学当局は、講演がコカ・コーラを批判するものであることを知ると、そのイベントヘの資金援助を拒否したのである。こうした契約は、「学校の根源的な価値に(中略)影響を与える。(中略)学内の言論の自由や平和的な抗議運動も、影響を受ける」)とクラインは言う。

 彼女はまた、大学の研究室や研究組織に対する企業の支援にも言及している。ある研究結果がスポンサー企業の価値を下げるものであったとき、それを発表しないようにという圧力を大学はかけられる。そういう場合、大学はたいがい研究チームではなく企業の側に立つ。研究内容自体が企業の利益に合うように意図して作られるケースもある(タコ・ベル提供のサービス業スクール、Kマート提供のマーケティング学科、ヤフー!提供のIT研究センターなど)。しかし、公的な大学に期待されているのは私益に影響されない研究である。

 大学が企業のようになったとき、大学は真実と客観的な議論のための公共空間であるという考えは失われる、とクラインは言う。投資した金額に見合う成果を得るために、大学当局に自由な言論を封殺させようとする企業から大学の大半が資金提供を受けるような事態になれば、公共空間は決して実現しない。

実質的な選択肢の消滅

 一九九〇年代の末、世界中に、マイクロソフトの「今日はどこに行きたいですか?」といった広告が爆弾のように投下されていた。本当の問いは、こうだったはずだとクラインは言う。「私たちのこのシナジーの迷路に、どうしたらキミを迷い込ませることができるかなあ?」

 大規模な合併、買収、企業シナジーが意味していたのは、選択肢、双方向性、自由が拡大する時代というのは幻想だということだった。実際には、多数のブランドや製品が一社に所有されていることが多かった。それを可能にしたのは、レーガン政権下で始まった反トラスト法の弱体化だった。

 巨大企業は、莫大な現金の力で中小企業をつぶし、納入業者を搾取し、最小限のコストで製品を作らせる「かぎりない低価格競争」を行なった。その結果、チェーンストアが優勢になり、その背後にいる企業にさらに大きな力を与えた。

 ウォルマートやスターバックスが新しい州や地域に進出するときの戦略は、その地域を一気に店舗網で覆い尽くし、競争相手をすべて追い出してしまうことである。

 中には十分に顧客を獲得できない店舗も発生するが、全体で見れば会社の収益は増加する。この「カニバリゼーション」戦略を実行できるのは資金が豊富な会社だけである。スポーツ用品のナイキタウンやCDショップのヴァージン・メガストアといった新しい大型店には、デパートで他のブランドと競争するのを避ける目的がある。カナダの衣料品小売り企業ルーツは、サマーキャンプまで開いて、自社製品が一つの「規範」や「伝統」の一部であることを印象づけようとしている。ウォルト・ディズニー社がフロリダに建設した街「セレブレーション」には、広場などの公共空間が数多く設けられていて、落書きもないし、浮浪者もいない。しかし、現実世界の学校、図書館、公園などの公共空間にかける予算は、ますます削減されつつある。
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