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チュニジア 予測されざるものの前兆

『チュニジア近現代史』より 尊厳・自由・正義のための革命

二〇〇四年および二〇〇九年の大統領選挙、議会選挙のいずれも、その結果は一九八九年に戻るパターンを本質的に何の逸脱もなく忠実に再現し、政治的風景を有意に変更するわずかな期待ももたせなかった。弱く分裂した野党は、それがルーティン化していたように、歴史的にネオ=ドゥストゥール党とその後継者のみが達成したこと--国民の重要部分を活気づけ、現状の変化を一致して求めさせるのに動員すること--を実現しえなかった。市民社会組織は、注意深く作られた見せかけにもかかわらず、ほとんどが当局の許した限定的範囲を超えて少しでも効果的に機能する能力をもたず、UGTTのような最大の、もっともよく組織されもっとも強固なものだけが、それも相当な慎重さと用心深さによってのみ、政権の行為に挑戦する現実的可能性をいくらかでももっていた。実際、国家の声高な批判者は、ますます規則的に厳しく恣意的な報復を受けるようになり、それは個人的監視や、当局が不満に思う行動が抑制されない場合の仲間や家族への脅迫から、約一三万人(チュニジア人のおよそ八〇人に一人)を数えるまでに膨らんだ国家保安機関の要員が割り当てる、いっそう深刻な司法的懲罰----逮捕・拘留・拷問の水準に至りうる身体的・精神的虐待--に及んだ。

その要員は、ベン・アリを鼓舞した中東の保安機関ムハッバラトと負けず劣らず国民から心より厭われていたが、彼は警官としての訓練および経歴に常にふさわしく、権力を握って以来チュニジアでの彼らの人数を三倍にしたのだった。彼らは国内の反政府派に注意を集中したが、同じ範暗に属すると知っている、あるいは疑っている国際的ジャーナリストをいじめることに何の良心の呵責も覚えず、たとえば二〇〇五年のUNESCO主催「情報社会世界サミット」の際に起きた事件がある。それがチュニスで開催されることは、地元の政府批判者と国際社会の事情通のメンバー--グローバルな相互接続性を推進しようとするこの会合が、その国民にインターネットの無制限利用を日常的に禁じ、「国境なき記者団」に「インターネットの敵」と呼ばれ、『フォーブズ・マガジン』にインターネットに関して世界でもっとも抑圧的な三カ国の一つと見なされた国で行われようとしていることを理解していた--をともにいらだたせた。たぶん驚くべきごとではないが、「国境なき記者団」に参加しているオブザーバーは、会合を取材するために入国するのを拒否された。代表団が集まって、ベン・アリ政府の偽善と、異論に対してますます自動的に抑圧で応える傾向に注意を向けようとし、デモ隊が街頭に繰り出した。当局は、国際メディアが記録しようとしたまさにそのこと〔抑圧〕をして、抗議者に得点を与えた。新千年紀の初期のチュニジアは、これらや同様の権威主義的態度をとったがゆえに、現代の政治理論家の一部が「非自由主義的民主主義」あるいは「自由化された独裁政治」と呼び始めたものの好例だった。

経済戦線では、チュニジアを長く特徴づけた入念な国家計画は変わらず続いていた。野心的な五ヵ年計画が、経済の全体目標を構成諸部門の特定目的とともに定め、それらは少なくとも紙の上ではしばしば達成された。二〇〇三-七年の計画は、製造業部門、とりわけ輸出所得の重要な鍵となる繊維産業を強化することに集中した。二〇〇七-一一年の計画は六・一%の年間成長率を要求し、それは二〇〇八年のグローバルな金融危機の結果が同国でも感じられるようになるまでは達成されていた。政権は、国際通貨基金や世界銀行その他のグローバルな金融機関の勧告をずっと以前から日常的に取り入れてきたが、それらに勇気づけられて経済的繁栄により政治的不満を緩和する戦略に従おうと、これらの年月を通じ最善を尽くした。しかし、二〇〇八年の劇的な下降以前にさえ、幅広い層の経済的諸階級や社会的背景、国内諸地域から何百万人ものチュニジア人が、最近の発展や傾向を認識し、ある者は本能的に、他の者は個人的経験から、表向き好景気の経済は危険な欠陥を隠しているし、政治的領域ではすべて政府が描こうと望むようではないことを理解し始めていた。

新千年紀の初期に、猛威を振るった消費主義が生活費を押し上げ、インフレ率を当初の緩やかな二・七%から二〇一〇年末の感心できない四・五%へ上昇させ始め、急増する個人負債は世帯当たりで平均二〇〇〇ドル相当以上にさえなった。ほぼこの同期間に、公式統計は一人当たり所得が三七・六%増え、貧困生活を送るチュニジア人は人口の四・二%から三・八%に減ったことを示したが、こうした数字を注意深く検討すると、同国の状況を可能な限り最大限好ましい風に見せようと意図した細工がうかがわれる。たとえば、貧困を定義するのに用いられた基準は敷居を非現実的なほど低く(一人一日当たり四〇〇ディナール)、米ドルでは一人一日当たり一ドル未満に設定した。事実として、より現実的な尺度によってさえ貧困生活を送っていたチュニジア人の比率は、石油に基づく経済の諸国を除きこの地域に住む他のいかなる国民より小さかっか。その結果、統計操作の価値が下がっただけでなく、データの吟味によって政府は信用できないという証拠が現れたのだ。同様に、大いに褒めちぎられた中間階級の成長を厳密に分析すると解釈上の問題が顕わになったが、そのうちもっとも目立つのは、政府の基準では安定的な中産階級とされる人たちのかなり多く、実に半分もが、より正確に言えば「漂流する中間附級」、すなわち所得か職の安定、あるいはその両方が常に貧困への転落の縁でぐらついている層をなしていたことだ。チュニジアにあれほど深く関与していた国際金融諸機関が、同国のデータの報告や解釈における深刻な問題を警告するこうした赤旗を、どうして見のがしえたのかは、「皇帝の新しいお召し物」の精神、すなわち地域の模範生徒がカンニングをしているとか、仕事の不当な解釈をそうと知りながら提出しているとかを暴露しないよう、チュニジアの状況をあまり注意深く調べないことにしたのを反映していたかも知れない。「それら[諸機関]が、バラ色の国の姿を描いているが、表層の下で進展している不均衡・不平等・そしてゆがみをごまかしている、選ばれたマクロ経済指標に依存していた』ために、それらは、現場の現実を見る限り、既存の環境の劇的変化がなければいつか実現するという希望をほとんどもてない、自己成就的予言を行ったのだ。

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