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オーストリアの頭上に振り下ろされた鈎十字

『オーストリアの歴史』より

そして〈アーリア化〉(Arisierung)が始まった…

 ナチス体制はオーストリアにおける住宅建設も促進した。しかし住宅難は、--とりわけウィーンでは--ユダヤ人の住宅およそ7万戸を強制接収(Enteignung)してのみ、ようやく一定程度解消されたにすぎなかった。住み慣れた住宅から強制的に追い出された人々の運命に対して多くの人はまったく気に留めることもなかった。

 1945年以降、〈アーリア化された〉(ユダヤ人の財産を没収してドイツ人の所有に移すこと=訳者注)財産の返還問題が生じた。以前のユダヤ人所有者-むろんそれは彼らがナチズムの地獄を生き延び、元々自分たちが所有していた住宅の返還要求の声を上げることができた限りの話であるが--と新所有者、諸政党との三者の間で深刻な相克が生じた。ユダヤ人は強権による返還を要求し、新所有者は場合に応じての--たいていは雀の涙ほどの--弁済金支払いを主張し、政党は選挙の得票の行方について戦々恐々としていた。総じて、この問題はきわめて特殊な、限定的な問題としてのみ扱われた。2000年になってようやく、強制接収された住宅の賠償問題を解決するための新しい措置が緒に就くことになった。

 戦争終結後、国家社会主義者たちが、いかなる手段を用いてこのような〈成果〉(アーリア化)を達成し、またどのような目論見を背後に隠していたかについて問い糾されることはめったになかった。彼らは、宣伝機関(Propagandamaschiner)を有効にかつ効果的に活用し、将来はもっといいことがあるぞ、と口約束していたのであった。多くの人々はこんにちなお、弁済金の不払いは敗戦にこそその根本理由を帰すべきである、としている。

このようなナチスの政策の理由は?

 ●総力戦的な軍備のため:オーストリアを〈併合〉した直後から、オーストリアの全産業はただちにナチス体制の戦争準備に組み入れられた。繊維産業のほとんどはより多量の制服の生産のみに奉仕させられることになった。重工業は軍需品の生産に切り替えさせられた。国内の自動車専用道路(Autobahn)は、この時期--ほとんどの人がマイカーを持つことができなかった時代であるがぺとして武器輸送にのみ供されることになった。新たな産業が成立した。たとえばヘルマン・ゲーリング帝国工業会社(今日の、VOEST)や、リンツの窒素工業、ランスホーフェンのアルミニウムエ業会社などがそれである。

 ●人種差別:ユダヤ人に対しては、はじめは隔離(Ausgrenzung)と追放(Vertreibung)が、後には絶滅(Vernichtung)措置が強行された。-そしてこれらもまた、新たな職場と住居を生み出したのであった……。

 ●強制労働(強制収容所内だけではなOのため:帝国勤労奉仕隊への召集が余剰労働力を吸収した。それにとどまらず、国防軍はそれが追求する侵略政策のためにさらに次第に数多くの兵士を必要とし、そのため早くも1939年末には実質的な労働力不足が生じ、女性たちが家庭の竃を守る代わりに(軍需)工場のベルトコンベア--の脇に立つ労働へとかり出された。しかし女性を労働現場に駆り立てることは--皮肉なことに--ナチズムのイデオロギーには反していたのだが。

抵抗--自由を求めての奉仕

 <ナチズムのために働かぬ者は、ナチズムに反逆する者だ〉というのが国家社会主義者の根本原則であった。ナチズムに対する拒否的な態度はすべて反逆罪に値するとみなされたのであった。そのため〈国家の害獣〉や〈防衛力を破壊する者〉に対する独裁権力者の対応は過酷を極めた。それは秘密警察(Gcheime Staatspolizei= Gestapo)の監獄への〈予防拘禁〉(Schutzhaft)や、強制収容所(Konzentrationslager)への収監から処刑にまで至るものまであった。それでもなお、ヒトラーのナチズムに占領された国々のすべてで侵略者に対する抵抗運動が起こった。これらの国々では、ナチスの占領軍は完全な敵とみなされた。ナチス占領軍への協力者は当然のごとく周囲から孤立し排撃された。

 女性たちも、オーストリアの対ナチス抵抗運動に加わったことはしばしば忘れられている。少女や大人の女性もまた--たった一人で、あるいは彼女らの父親や兄弟や夫たちを手伝いながら--ナチス体制や戦争と戦ったのであった。

 しかし、ひとたびナチスに捕まれば、女性も男性と同じように、<情け容赦もなく絶滅させる〉ための法廷に引きずり出された。たとえば、ザルツブルクのお針子ロスル・ホフマン(Rosl Hoffmann)に下された死刑判決はまた他の多くの人々に下されたものと同じであった。

 オーストリア市民が、ナチズムの明白な敵対者であると宣告された者に対してどのような対応を見せたかは、インフィアトゥラー村のフランツ・イェーガーシュテッター(Franz Jagerstatter、1907―1943)の逸話が示している。 1938年4月10日の国民投票の際、彼イェーガーシュテッターは村民の中でただ一人〈反対〉票を投じ、そのため彼は直ちに村八分の身へと追いやられたのであった。

 やがてこの役割は彼の親族に委託された。処刑されたフランツ・イェーガーシュテッターの妻は語っている:
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