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本は身ゼニを切って買うべし

『乱読のセレンディピティ』より もっともおもしろい読書法

本は買って読むべきである。

もらった本はありかたくない。ためになることが少ない。反発することが多い。どこのだれが書いたかはっきりしない本から著者自身も考えていなかったような啓示を受けることがある。本は身ゼニを切って買うべし。そういう本からわれわれは思いがけないものをめぐまれる。

このごろは図書館が整備されているから、買わなくても借り出して読むことができる。昔は考えられなかったことで、社会として誇ってよいことである。

便利になったと喜んでいる人が多いが、少し、考えが足りないように思われる。

図書館の本はタダで読める、というのがすばらしいというのは常識的で、タダほど高いものはない。自分の目で選んで、自分のカネで買ってきた本は、自分にとって、タダで借り出してきた本より、ずっと重い意味をもっている。図書館の好みで入れた本をタダで借りてくるのは自己責任の度合が少ない。もちろん、図書館の本でも感動できる、自分のためにもなる。しかし、自分の目で選んで買ってきて、読んでみて、しまった、と思うことの方が重い読書をしたことになる。

本を選ぶのが、意外に大きな意味をもっている。人からもらった本がダメなのは、その選択ができないからであり、図書館の本を読むのがおもしろくないのも、いくらか他力本願的なところがあるからである。

あふれるほどの本の中から、何を求めて読むか。それを決めるのがたいへんな知的活動になる。いい加減に本を買ってくれば、失敗の方が多いのは当然である。

賢い読者は、その失敗から学ぶことができる。しかし賢い人は用心深いから、失敗をおそれて、しかるべき案内を求める。

これほど本が多くなったら、良書より悪書の方が多いと思わなくてはならない。悪書にひっかかるのを怖れていれば、本など読めるものではない。雑書、俗書、不良本などだって、おもしろいものはあるだろう。おもしろくなければ捨てればいい。

読者はきわめつきの良書、古典のみを読むべきだというのは窮屈である。そういう価値ある本をもとめて苦労するのは愚かだ。

よさそうだと思ったのが、案外食わせものだった、ということだってあるが、それでも心ある読者ならなにかしらを得ることはできる。

読者が本の家来になるのではなく、年下の友人であるという自己規定をすると、たとえつまらぬ本でも、なにがしかの発見は可能になる。

いろいろな点で、読者は著作者より劣っていることが多いけれども、著者はつねに一方的に号令をかけ、命令するような権威者と考えるのは宗教的読書で読者にとって得るところは少ないと考えてよい。

多くの本を読んでいれば、繰り返し読みたくなる本にめぐり会うかもしれない。しかし、それは例外的だと考えた方がよい。実際に何度も繰り返して読む本が五冊か七冊もあればりっぱである。

本は読み捨てでかまわない。

本に執着するのは知的ではない。ノートをとるのも、一般に考えられているほどの価値はない。

本を読んだら、忘れるにまかせる。大事なことをノートしておこう、というのは欲張りである。心に刻まれないことをいくら記録しておいても何の足しにもならない。

占物は心の糧である。

いくら栄養が高いといって、同じものばかり食べていれば失調を来たし、メタボリック症候群になる。過食は病気の引き金になり、ストレスを高める。ストレスがいろいろな病気の原因になることを、おそまきながらこのごろ医学も気がつき始めたらしい。

本についても、過食は有害である。知的メタボリックになる読書があり得る。同じ本を何回も読むなどということは、考えただけでも不健康である。

偏食も過食と同じくらいよろしくない。勉強だといって専門の本を読みすぎると知的病人になりがちである。専門バカはそのひとつである。

健康な読者をのぞむならば、昔の貧しい時代の考えを修正、あるいは、変更させなくてはならないだろう。
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イノベーションは、知識と知識の掛け合わせ

『センスは知識からはじまる』より 「センス」とは「知識」からはじまる

イノべーションは、ゼロベースで何かをつくることではありません。

『アイデアの接着剤』(朝日新聞出版)でも書きましたが、「1から2をつくる」「AにBを掛け合わせてCにする」そういった意味合いの言葉だと思います。

世の中にすでにあるAというものと、自分が見たことのあるBをくっつけて、Cというものを生み出す。これを高い打率でできれば優秀なクリエイターになれるはずです。どんな人であっても、ゼロからいきなりCがひらめくことは非常に稀です。

Aを知悉していれば、Aダッシュを生み出すことが可能です。Aに対する知識とBに対する知識が、「思いがけないこの二つを掛け合わせたらどうなるだろう」という発想を引き出し、Cを創造します。意外な掛け合わせを生むには、より多くのD、E、F……という知識を蓄えていくことも大切です。

「あっと驚かないけれど、新しいもの」とは実はAダッシュであり、いきなりXまで飛んでしまうと、市場ではまったく求められないということもあり得ます。

「あっ!」より「へぇー」にヒットは潜んでいる。僕はそう感じるのです。

ワープロと固定電話を使っていた人にとって、携帯電話やパソコンは「へぇー」でした。しかし江戸時代の人にスマートフォンを渡した場合、「あっ!」と思うでしょうか?おそらく「あっ!」ではなく「え?」という反応であり、結局のところ欲しがりはしないのではないでしょうか。

「どこがいいの? 何でもできるったって、この中から小判が出てくるわけじゃねえんだよな? じゃあ、いらねえよ」と言われそうです。

仮に僕が「この電話で、いつでもどこでも遠くの人と話せるよ。使い方はまず……」と説明を始めたら、江戸時代の人には、「いや、狼煙があるからいらねえよ。だいたい、いつも持ち歩いてなきゃいけねえなんて、いやだ」と拒絶されるかもしれません。

あっと驚く心の裏には、恐怖も潜んでいます。

たとえば「明日、火星に連れていってあげるよ」と言われたとき、「行きたい! 行きます!」と即答する人が何人いるでしょう?

これが数カ月後であれば、「行きたい」と答える人はたくさんいると思いますが、明日となると話は別です。スケジュールが空いていても、一瞬ためらいを感じる人は多いのではないでしょうか。

ほんとうに安仝なのか、もうちょっと確認したい。食事は宇宙食だろうけれど、どんなものなのか? トイレは? アメニティは? ケネディ宇宙センターから出発なら、英語が流暢じゃないとまずいのか?

新しいものを疑う気持ち、どんな感じかを事前に確かめてから行動したいという気持ちは、原始時代、危険と隣り合わせに生きていた人間の本能に根ざしていると僕は思います。また、確かめたい本能がなければ、「食ベログ」や「トリップアドバイザー」といったロコミサイトがこれほど人気を集めるわけもありません。

新しいものに接した時、過去のものや過去の知識に照らし合わせて考えるのが自然だということです。

僕たちはまた、未来と過去が引っ張り合いをしている世界に存在しています。人が未来に引っ張られる進化だけの生き物であれば、骨董好きな人などいないし、一定のサイクルで、古いファッションがリバイバルで流行することもないでしょう。古いものに慈しみをもち、古いものに対して「美しい」と思う感情が、未来へ、新しいものへと進もうとする力に拮抗して、バランスを取っているのだと僕はとらえています。

このバランスを加味した上で企画を考えないと、あまりにも先進的で攻撃的な、誰もついてこられない独りよがりの企画になってしまいます。

エンジンと電気モーターの力によりガソリン代の軽減とエコを実現したハイブリッドカー。既存の照明器具で使えるのに寿命は遥かに長いLED電球。メール、チャッ卜、SNS、電話などが一体化した機能を備えながら、はるかに手軽なLINE……。

みんなが「へぇー」と思うものは、ある程度知っているものの延長線上にありながら、画期的に異なっているもの。「ありそうでなかったもの」です。

従来の考え方を遠ざけ、独創性ばかりにこだわりすぎると、文字通り「独りよがりのクリエイティブ」になってしまいます。ものをつくる人間は、新しさを追い求めながら、過去へのリスペクトも忘れないことが大切なのではないでしょうか。過去から学ぶ際には、何を手がかりにするかを見極めることが肝要です。

新たなアウトプットの見本やヒントとなるのは何か?

それを知る糸口となるのが、知識に他ならないと僕は感じているのです。豊富な知識があるということは、センスを磨くためのよき師をたくさん持っているようなものです。たった一人の師ではなく、より多くの、しかも優れた師に学んだほうが、力が仲びていくことはいうまでもないでしょう。
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岡崎図書館の10冊

336.2『難題解決の達人たち』即効策はなぜ効かないのか

914.6『「自由」のすきま』

366.2『ライフスタイルからみたキャリア・デザイン』

159.7『60代からの「恥ずかしくない」生き方』この年代での評価で、「人生のすべて」が決まる!

332.6『社会自由主義国家』ブラジルの「第三の道」

162『図説 世界を変えた50の宗教』

130.2『図説 世界を変えた50の哲学』

336.4『研修開発入門』会社で「教える」、競争優位を「つくる」

230.5『海賊と商人の地中海』マルタ騎士団とギリシア商人の近世海洋史

209.7『第一次世界大戦』現代の起点 1 世界戦争
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電子化の目的はシェア社会

電子化の目的はシェア社会

 本を有する世界から変わりました。電子化というのは、多分、シェアです。モノにしないことです。本はコンセプトです。OCR化しながら、それを求めてきた。思いをどう伝えるのか。自分が人類を代表して得た知恵をどう展開するのか。

 そこにおいて、シェアを先掛けている図書館の意味が分かってくる。電子図書館です。輪読にしても、キンドルならいくらでもコピーできます。同時に知を得ることができます。趣味で本を読む時代は終わるかもしれない。何かを得るために、本を読むことになる。

 その意味では、モノと心が分かれるような二元論的な世界。

フラクタル

 フラクタルは部分と全体が同じ形状を持つ。スケールを変えても同じ構造を繰り返して、現れる。自己相似性。フラクタルは語句の意味分析にも適用される。

アナロジー

 アナロジーにおいては、根源領域から目標領域へのマッピングがなされる。このマッピングの特性によって、同じと見なす、同値と見なすのがトポロジー。

行政のコンパクトシティ

 行政の支出の抑制としてのコンパクトシティ。そんなものは行政がしなければいいでしょう。道路や下水道のインフラ、市バスの運行、警察のパトロール、ゴミの回収をいかに市民としてやっていくのか。自分たちのコミュニティでやっていくのか。

 青森市の場合は、市民の居住範囲が全域に拡がることにより、除雪範囲が拡がり、支出が増加するのを防ぐために、コンパクトシティを目指した。高層ビルを駅前に作ったけど、市民は集まらず、経営は行き詰っている。

 行政という機関が存在するのは、全体の利益となる事業を行うため。公平に不公平なことをするのが、行政の役割。国の役割は、地域の活性化がなされやすくする制度設計。

 関係する全員が自らの欲望に従って、本気でやり抜き、相乗効果となって、地域をよくする仕組み、そんな制度設計が国に期待されている。これは間違っています。その結果は、モノがあふれるだけです。循環がおかしくなるだけです。国とか資本主義とか、大きな枠組みを考えることです。

循環する社会

 市民を入れた形で考えていかないといけない。自分の金儲けという狭い世界で考えていては、循環しない。無限を前提とするのではなく、コンパクトな有限の世界での循環です。モノを売ればいいという世界ではない。いかにリピートしながら、お互い様の世界をどう生きていくかです。

 そういう意味では、また、存在の力に戻ります。

モーターサイクル

 中途半端な速度で、中途半端に幅がある、あの軽車両には、専用の道路網が必要です。

電気と水素

 蓄電はどうも水素みたいです。電力から水素ガスにしていく。それをガス供給していく。水素をメタンにすれば、ガスです。水素からメタンガスを作る技術は20世紀の初頭に遡る。だから、天然ガスで走る自動車に応用することは問題ない。これは、天然ガスではなく、人工ガスなんでしょう。つまり、電気からガスにして、ガスから電気にする。

 エネルギー連鎖からすると、水素自動車の方が電気自動車は補完になります。本当に水素がそこまで安全にできるか。

 そんなにしてまで、クルマを動かさないといけないのか? 今の生活を守るためというけど、根本を見直したうえでの方法です。自然が何万年掛けて作った、石油という蓄電装置に比べると、量が少ないです。

 それを百年余りで消費する方が問題です。それをこんな短期間に、偶々、生まれてきた人間だけで使う方が問題です。
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