goo

地産地消の次世代型ESCO

『「幸せリーグ」の挑戦』より 幸福実感向上を目指す基礎自治体連合「幸せリーグ」とは

「地産地消の次世代型ESCO」の原理は、地産地消であり、理念は公益資本主義にある。福沢諭吉は、独立自尊という言葉を残したが、経済的に自立化できる事業を、「地産地消の次世代型ESCO」が可能にする。ここで一つの事例を示そう。もし、ある自治体が、街路灯を全部LEDに変換したいが、国など外部からの補助金がないと実現できない状態であったとする。

「地産地消の次世代型ESCO」は省エネモデルを第一段階として、京都府の省エネ対策の一つに採択された。京都での地産地消の次世代型ESCOとは、京都府庁を含むあらゆる府の管轄施設をLEDなどの省エネ機器と置き換えるものである。

実例として「商店街」を取り上げよう。商店街のアーケードの「照明をLED化」し、その結果、削減できた電気代の一部を使って、観光案内多言語サイトを提供するための「フリーWiFi用のアンテナ」の設置を可能にした。外国人観光客が増加するとともに防犯対策として「防犯カメラ」の設置費用も削減分か原資となっている。このパッケージは、あらゆる自治体で活用できる理想的な実用モデルだ。

また、地元住民が蓄えた民間資金を活用する仕組みとして、「顔の見える金融」としての地方債や預金を創設発行するなどの諸制度を自治体が整備できると、目的を持った資金が循環し、そのすべての当事者が「三方よし!」で直接的間接的便益を享受できる。

まずは、「地産地消の次世代型ESCO」を、各自治体で解決したいエネルギーや環境の問題に最適に活用できるように設計する。これを公益資本主義による地産地消循環モデルと位置付け、地域全体に普及するのだ。国とは関係なく進められる自由度の高い地方事業の糊代を大きくできるので、「地産地消の次世代型ESCO」は非常に有効である。地方の活力を取り戻すために、幸せリーグ社中の自治体で活用していただければ日本の地方は確実に元気になる。

最後に、公益資本主義とは何かを簡単に示しておきたい。

公益資本主義とは、英米型の株主資本主義(この発展系の究極の形を金融資本主義と呼ぶ)や、中国型の国家資本主義と対極をなす「新しい資本主義」である。

平成二〇(二〇〇八)年に米国であった実際の例を示そう。不況で喘ぐアメリカン航空は、従業員に対して、三四〇億円の給与削減を受け入れてもらわないと会社はつぶれると迫った。倒産したら路頭に迷うので従業員はこれを受け入れた。その結果として経営陣は二〇〇億円のボーナスをもらったという事実がある。多くの日本人は、従業員が給与削減したのだから経営陣はもっと大きな割合で報酬の削減を受け入れ、痛みを分かち合うべきだと思うであろう。しかし、株主資本主義の解釈は異なる。会社は株主のものだと主張する株主資本主義者にとっては、従業員給与は負債である。負債の削減を実行してくれた経営陣に対してボーナスを払うのは当然だと考えるのだ。社外取締役もコーポレートガバナンスに違反しているとは指摘をしない。一方、中国型国家資本主義は、計画経済の名を借りた帝国主義である。

株主資本主義は、短期的に企業価値を増大することをもって目的とする。企業価値とは時価総額のことである。時価総額は株価を上げれば増えるので、株価を短期に上げるためには、時間のかかる研究開発や製造業モデルは推奨されない。したがって、すぐに儲けたい彼らにとって、ヘッジファンドなどの投機金融モデルが最適事業となる。しかし投機金融モデルは、ゼロサムゲームであり、繰り返すほどに貧富の格差が広がり、社会は疲弊する。この点は中国も同じである。

世界人口は、今後、現在の七〇億人から二〇五〇年には一〇〇億人となる。人口増は主として途上国がもたらし、二〇五〇年には世界の八五パーセントの人口は途上国が占める。途上国を放置した場合、これらの国々は、英米型や中国型の経済発展を遂げ、格差の大きな社会となり、他の要因と合併して政治経済的に非常に不安定な時代になる可能性が高い。そこで、「新しい資本主義」ともいえる公益資本主義を活用し、中間層の分厚い安定した地球社会を作りたい。

日本だけでなく、世界の地域経済の自立化と、平和と安定に寄与することに、公益資本主義の考え方は役立つものと断言し、筆をおきたい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

歴史と人生について

『氷川清話』より 歴史と人生について

歴史とは何か

 おれはいつもつらつら思うのだ。およそ世の中に歴史というものほどむずかしいことはない。

 元来、人間の知恵は未来のことまで見透かすことができないから、過去のことを書いた歴史というものにかんがみて、将来をも推測しようというのだが、しかるところ、この肝心の歴史が容易に信用せられないとは、実に困ったしだいではないか。見なさい。幕府が倒れてからわずかに三十年しか経たないのに、この幕末の歴史をすら完全に伝えるものが一人もないではないか。それは当時の有りさまを目撃した古老もまだ生きているだろう。しかしながら、そういう先生は、たいてい当時にあってでさえ、局面の内外表裏が理解できなかった連中だ。それがどうして三十年の後からそのころの事情を書き伝えることができようか。いわんやこれが今から十年も二十年もたって、その古老までが死んでしまった日には、どんな誤りを後世に伝えるかもしれない。歴史というものは、実にむずかしいものさ。

島国の人間に余裕なし

 なにしろ人間は、身体が壮健でなくてはいけない。精神の勇ましいのと、根気の強いのとは、天下の仕事をする上にどうしてもなくてはならないものだ。そして身体が弱ければ、この精神とこの根気とを有することができない。つまりこの二つのものは大丈夫の身体でなければ宿らないのだ。

 ところが日本人は五十になると、もうじきに隠居だとか何だとかいって、世の中を逃げ去る考えを起こすが、どうもあれでは仕方がないではないか。

 しかし島国の人間は、どこも同じことで、とにかくその日のことよりほかは目につかなくって、五年十年さきはまるで暗やみ同様だ。それもひっきょう、度量が狭くって、思慮に余裕がないからのことだよ。

 もしこの余裕というものさえあったなら、たとえ五十になっても、六十になっても、まだまだ鈴々血気の若武者であるから、このおもしろい世の中を逃げるなどというような、途方もない考えなどはけっしてできないものだ。

 それであるから、昔の武士は、身体を鍛えることには、よほど骨を折ったものだよ。弓馬槍剣、さては柔術などといって、いろいろの武芸を修業して鍛えたものだから、そこでおれのように年は取っても身体が衰えず、精神も根気もなかなか今の人たちの及ぶところではないのだ。

 もっとも昔の武士は、こんなに身体を鍛えることには、ずいぶん骨を折ったが、しかし学問はその割りにはしなかったよ。それだから、今の人のように、小理屈をいうものはいなかったけれども、その代わり、一旦国家に緩急があるときは、命を君のご馬前にささげることは平生ちゃんと承知していたよ。いわゆる「君辱しめらるれば、臣死す」という教えが、深く頭の中に染みこんでいたから、いざという場合になると、雪のようなもろ肌を押しぬいで、腹一文字にかぎ切ることをなんとも思わなかったのだ。

 しかるに、学問にこりかたまっている今の人は、声ばかりはむやみに大きくて、胆魂の小さいことは実に豆のごとしで、からいばりにはいばるけれども、まさかの場合に役に立つものは、ほとんどまれだ。みんな縮みこんでしまう先生ばかりだよ。

寝学問

 活学問にも種々しかたがあるが、まず横に寝ていて、自分のこれまでの経歴を顧み、これを古来の実例に照らして、しずかにその利害得失を講究するのが一番近道だ。そうすればきっと何万巻の書を読破するにもまさる効能があるに相違ない。

 区々たる小理屈は、たれか学者先生をとらえて、ちょっと聞けばすぐわかることだ。個中の妙味は、また一種格別のもので、おれの学問というのは、たいがいこの寝学間だ。

 しかし俗物には、この妙味がわからないで、理屈づめに世の中の事を処置しようとするから、いつも失敗のしつづけで、そうしてあとでは大騒ぎをしている。実にばかげた話ではないか。

 おれなどは、理屈以上のいわゆる呼吸というものでやるから、容易に失敗もせぬが、万一そういう逆境にでも陥った場合には、じっと騒がずに寝ころんでいる。またのちの機会がくるのを待っている。そしてその機会がきたならば、すかさずそれをつかまえて、事に応じ物に接してこれを活用するのだ。つまり、これが真個の学問というものさ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

内なる力と存在の力

朝のIスタバの会話 3分間

 金曜日と土曜日のスケジュールを間違えて、迷惑を掛けました。休みなのをTさんに伝えてもらった。スケジュール調整して、土曜日に出勤した。

 明日は別のスタバにいる。11時から居て、一回で二日分ぐらい、働くことになる。

 そこに居たKさんは先月、辞めてしまった。

 今日は12時までです → では、昼休みは直行します → お待ちしています。

 行ってらっしゃいませ。

昼の会話の録音は忘れてた

 なぜ、Tさんが撮影会のことを知っているのかを聞いてみた。

 アンケートでの握手会のことを聞かれた時に、2回、行ったことを言った後に、撮影会のことを話した。思惑は撮影会の時に手伝ってもらうため。

 私は★二つのIさんを写すことを考えていたけど、どうも、一緒に写してもらうイメージみたいです。そこで、チームの協力が得られるように考えたそうです。

 ブラックエプロンが戻ってくるまで、2か月ぐらいあるから、その間に、ジャンケン大会を入れることにしました。といっても、何をするのかノーアイデアです。

 総選挙をやっても、センターは決まっているからと言ったら、そうですね。

 スタバの会話はライフログとして残すことにする。

内なる力と存在の力

 性善説では、内なる力が備わっているから、生まれつき社会生活に対応できている。だから、調和しながら生きていける。最初から性善説があるかというと、そんなことがないから、内なる力を埋め込めばいいということになります。

 この辺のところは、私の存在の力とよく似ていることは似ている。内なる力を埋め込むのが、社会となると矛盾を起こします。

 社会があって、社会の中で育つことで、人間が光を埋め込まれる。光を埋め込まれた人間が意思の自由をハッキリすることで、秩序だった社会ができる。そこで育つ人間がまた、光を埋め込むという循環。これが社会学の考え方です。

 存在の力になった時に、その循環が成り立つかどうか。もっと根源的なところからしなくてはムリでしょう。内なる光を宿す自由な存在がある。「内なる光」を「存在の力」に変えてみた。存在の力を宿す自由な存在がある。「存在」がダブっています。

自由とは

 欲望に支配された状態が不自由の典型だとしている。やりたい放題こそが不自由だという。欲望に縛られているのは、意思の自由ではない。意思の自由は欲望に抗う時にこそ生まれる。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

新しいシェアのシステム設計

メーカーはグローバル化

 そういった時に、企業はどうなっていくのか、メーカーはどうなっていくのか。メーカーはあくまでもグローバル化です。国内が競争相手ではない。相手はどんどん増えます。いいものを作れば売れるかというと、それができないことはヒュンダイが証明しています。

販売店はローカル化

 売る方については、作り方についても、ローカル化しないといけない。ブランドが通用しない。本当の意味のグローバル化では、ブランドは通用しない。ヒュンダイはそれに対して、ローカル化で対抗した。トヨタの強みのブランドを最大の弱みと見て、やってきた。

 国民と一体化して国家では、ブランドは通用するけど、そうでない、多様な世界では、ローカルで何をしていくかです。具体的に言うと、販売店は完全にローカル化です。地域は民主主義を作り出すもの。シェアの世界で民主主義という、新しいカタチに変わっていきます。

 資本主義そのものが、地域ではグローバル化から守るために、ローカル化していくことになる。地域のベースのマネジメントが変わり、マネジメントを経由して、メーカーに伝わっていく。それがインタープリテーションです。

モノを売るということ

 モノを売るという〝大雑把なやり方〟は国民国家のなかでは、グローバルの中では通用するけど、ローカルでは通用しない。余分なものが多すぎる。それぞれが所有する必要はない。どうして使っていくのかがベースになります。だから、シェアになります。

本屋は壊滅している

 図書館というものが、なぜ、市というレベルであるのか。県と異なり、市立図書館は本という、文化のレベルをシェアするものです。皆が本を買うための本屋さんは壊滅しています。

 豊田市の本屋には、本がない。種類がなく、同じものしか売っていない。消費するための本はコンビニで売っています。文化としての本ではない。文化としての本は個人で持つにはあまりにも膨大すぎます。情報共有でネットの時代になってきて、やっとハッキリしてきました。

新しいシェアのシステム設計

 だから、皆でシェアして使えばいいんです。交通機関にしても、元々、シェアで来て、所有に変わって、新しいシェアに変わっていく時が来ています。特に、インフラに絡む部分はシェアにしないといけない。道路は車のためにあるのではない。家庭の庭もシェアしていく時代です。個人の所有の部分はさほど、多く必要がなくなる。

 一番、シェアすべきものはエネルギーです。これは勝手にお金で変えるモノではない。


 売るとか買うとかの資本主義の原理は中途半端です。売ったものがどうなるのか、ということでサービスがあります。最後はまた、別の業者がやります。中途半端です。循環していない。要するに、静脈系が生きていない。ゴミとして、アジアに向かっていくのか、焼却されるのかによって異なります。これはシステムではない。

 全体のシステム設計をしたら、そんな形にならないでしょう。循環をベースに考えると、個別に所有するということにはならない。だから、お互いの状況を知った上で、今、どうなっているのか。車も全域でどこを走っているのか、どこが使えるのかという、全体の統合とそれぞれのところが自分の状況で使っていく分化のところ、車をどう見ていくのかという多様性のところが関係します。

 今までは、つながりがなかったから、中途半端な売るとか買うとかでやってきた。つながりが出てきて、GPSではないけど、どこに何があるのか分かってくれば、シェアするのが最適なシステムになります。

 結局、電算部署とか研究開発部署の時と同じように、システム設計をしている。範囲が拡がったけれども。技術部と研究所と本社エンジン部ぐらいしかなかった。販売となると、地域が関係します。地域が関係すると、国が絡みます。そして、海外を含めて考えます。それら全体を含めた設計となります。そうなると歴史が絡んできます。

 マーケティングでは人の心が絡みます。技術者だけでなく、お客様の市民生活も絡みます。だから、拡がって、システム設計というカタチで縮小しています。

 研究開発部署の時には、技術者の心そのものをシステム化したので、個別の問い合わせに全て応えることができた。全てを知ることも同様です。どこまで知っているかを誇示することはない。問い合わせに対して、全て、応えられればいいんです。自分からの問い合わせに対しても。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )