『自分のアタマで「深く考える」技術』より
「時間軸」と「空間軸」で表す
空間も同じである。国内に限らず、海外だっていいし、今は宇宙にも滞在できる時代だ。時間空間の軸の交点でとらえると、百年後に宇宙で自分の家やお墓がどうなっているかなどということも考える可能性が出てくるのだ。
実はかのカント(ドイツの哲学者、1724~1804)も、人間が物事の現象を直観的に認識するためには、時間や空間のような認識の基準となるいくつかの形式が必要になると主張していた。もちろん、そのカテゴリー分類は相当複雑なものなのだが、それでもやはり思考の大前提となるのは時間と空間だという。
ちなみに、このカントの思想自体は、時間空間を問わず不変のようだ……。
「弁証法」で矛盾を乗り越える
そう考えると、弁証法というのがいかに前向きな発想であるかがよくわかる。頻繁に言及されるゆえんだ。また私のようなポジティヴな人間に好まれるのもよくわかる。問題が起きてへこたれそうになったら、まず思い出してもらいたいものだ。
ちなみに弁証法というと、ヘーゲル(ドイツの哲学者、1770~1831)の考え方が有名だが、実はこの言葉自体は彼の専売特許ではない。対話によって真理を導き出すソクラテス(古代ギリシャの哲学者、前470/469~399)の問答法も、それを受け継いだプラトン(古代ギリシャの哲学者、前428/427~348/347)の思考法則も弁証法である。
ただ、一番有名なのは、前述したような矛盾を解決する論理としてのヘーゲルの弁証法であることは間違いない。
それはヘーゲルが近代以前の哲学を体系化して完成した人物だからというだけでなく、やはり矛盾を統一するという点がすごかったからだろう。しかも、その統一によってより発展した段階に至ることができるという論理は、最強の思考術といえる。
「無知の知」を常に意識する
かのソクラテスは、自分が一番知者であるという神のお告げを、「自分は、何も知らないということを知っている点で知者である」と解釈した。これがいわゆる「無知の知」である。過信せず、手を抜かず、ごまかさずに自分の無知に謙虚になることが、真の知者になるための王道なのである。
ちなみに、前述したような、問いを繰り返すことで、思い込みから真の知に到達するという方法を「問答法」として確立したのもソクラテスである。まさに質問力によって、哲学史に名を残した人物といえる。
一つの考え方に固執しない
哲学の世界でも、ドゥルーズ(フランスの哲学者、1925~1995)らは、中心をもったトゥリー(樹状)型の思考法に対して、中心も始まりも終わりもないネットワーク型の思考法であるリソーム(根状の茎)という概念を提起している。前述した硬直した思考がトゥリー型、柔軟な思考がリゾーム型に対応するといえよう。
「四つの先入観」に注意する
先入観が邪魔をして、冷静に物事を分析できていない人はいないだろうか。そんなときこそ、先入観が生じる四つのパターンに当てはめて取り除いてもらいたい。
まずは「種族の先入観」である。これは、感覚などにより自然の動きを誤ってとらえてしまう、人間という種族に共通する特有の先入観である。
二つ目は「洞窟の先入観」である。これはあたかも洞窟に入り込んだかのごとく、個人の習性が原因で、物事を常に自分の都合のいいように解釈してしまう先入観である。
三つ目は「市場の先入観」である。これは、言語の不適切な使用に基づくもので、市場で耳にした噂話を簡単に信じてしまうようなパターンの先入観である。
最後は「劇場の先入観」である。これは劇場で演じられているものを、ついつい本当の話と信じてしまうがごとく、権威あるものをそのまま受け入れてしまうような先入観である。
「本質を一言でいう訓練」をする
本来哲学者というのは、物事の本質をつかみ、それを言葉で論理的に説明できる人のことだ。そうすると、哲学者の能力で一番優れているのは、物事の本質をとらえることができる点であるともいえる。
そもそも哲学という営み自体の目的が、真理の探究にあるからだ。といっても、一足飛びに真理に到達できるような能力ではない。それは超能力者か神の使いのすることだ。哲学というのは、徐々に徐々に真理に近づいていく営みにほかならない。
一つの問題に、絶え間ない問いを繰り返すことで、ようやく真理に到達することができる。したがって、その道程は決して平坦なものではない。ああでもない、こうでもないという試行錯誤を繰り返す。しかし、だからこそ深いともいえる。そのプロセスは、あたかも真理にまとわりついた余分な虚飾を取り除いていく行為にも似ている。
「時間軸」と「空間軸」で表す
空間も同じである。国内に限らず、海外だっていいし、今は宇宙にも滞在できる時代だ。時間空間の軸の交点でとらえると、百年後に宇宙で自分の家やお墓がどうなっているかなどということも考える可能性が出てくるのだ。
実はかのカント(ドイツの哲学者、1724~1804)も、人間が物事の現象を直観的に認識するためには、時間や空間のような認識の基準となるいくつかの形式が必要になると主張していた。もちろん、そのカテゴリー分類は相当複雑なものなのだが、それでもやはり思考の大前提となるのは時間と空間だという。
ちなみに、このカントの思想自体は、時間空間を問わず不変のようだ……。
「弁証法」で矛盾を乗り越える
そう考えると、弁証法というのがいかに前向きな発想であるかがよくわかる。頻繁に言及されるゆえんだ。また私のようなポジティヴな人間に好まれるのもよくわかる。問題が起きてへこたれそうになったら、まず思い出してもらいたいものだ。
ちなみに弁証法というと、ヘーゲル(ドイツの哲学者、1770~1831)の考え方が有名だが、実はこの言葉自体は彼の専売特許ではない。対話によって真理を導き出すソクラテス(古代ギリシャの哲学者、前470/469~399)の問答法も、それを受け継いだプラトン(古代ギリシャの哲学者、前428/427~348/347)の思考法則も弁証法である。
ただ、一番有名なのは、前述したような矛盾を解決する論理としてのヘーゲルの弁証法であることは間違いない。
それはヘーゲルが近代以前の哲学を体系化して完成した人物だからというだけでなく、やはり矛盾を統一するという点がすごかったからだろう。しかも、その統一によってより発展した段階に至ることができるという論理は、最強の思考術といえる。
「無知の知」を常に意識する
かのソクラテスは、自分が一番知者であるという神のお告げを、「自分は、何も知らないということを知っている点で知者である」と解釈した。これがいわゆる「無知の知」である。過信せず、手を抜かず、ごまかさずに自分の無知に謙虚になることが、真の知者になるための王道なのである。
ちなみに、前述したような、問いを繰り返すことで、思い込みから真の知に到達するという方法を「問答法」として確立したのもソクラテスである。まさに質問力によって、哲学史に名を残した人物といえる。
一つの考え方に固執しない
哲学の世界でも、ドゥルーズ(フランスの哲学者、1925~1995)らは、中心をもったトゥリー(樹状)型の思考法に対して、中心も始まりも終わりもないネットワーク型の思考法であるリソーム(根状の茎)という概念を提起している。前述した硬直した思考がトゥリー型、柔軟な思考がリゾーム型に対応するといえよう。
「四つの先入観」に注意する
先入観が邪魔をして、冷静に物事を分析できていない人はいないだろうか。そんなときこそ、先入観が生じる四つのパターンに当てはめて取り除いてもらいたい。
まずは「種族の先入観」である。これは、感覚などにより自然の動きを誤ってとらえてしまう、人間という種族に共通する特有の先入観である。
二つ目は「洞窟の先入観」である。これはあたかも洞窟に入り込んだかのごとく、個人の習性が原因で、物事を常に自分の都合のいいように解釈してしまう先入観である。
三つ目は「市場の先入観」である。これは、言語の不適切な使用に基づくもので、市場で耳にした噂話を簡単に信じてしまうようなパターンの先入観である。
最後は「劇場の先入観」である。これは劇場で演じられているものを、ついつい本当の話と信じてしまうがごとく、権威あるものをそのまま受け入れてしまうような先入観である。
「本質を一言でいう訓練」をする
本来哲学者というのは、物事の本質をつかみ、それを言葉で論理的に説明できる人のことだ。そうすると、哲学者の能力で一番優れているのは、物事の本質をとらえることができる点であるともいえる。
そもそも哲学という営み自体の目的が、真理の探究にあるからだ。といっても、一足飛びに真理に到達できるような能力ではない。それは超能力者か神の使いのすることだ。哲学というのは、徐々に徐々に真理に近づいていく営みにほかならない。
一つの問題に、絶え間ない問いを繰り返すことで、ようやく真理に到達することができる。したがって、その道程は決して平坦なものではない。ああでもない、こうでもないという試行錯誤を繰り返す。しかし、だからこそ深いともいえる。そのプロセスは、あたかも真理にまとわりついた余分な虚飾を取り除いていく行為にも似ている。