未唯への手紙

未唯への手紙

本は身ゼニを切って買うべし

2014年05月18日 | 6.本
『乱読のセレンディピティ』より もっともおもしろい読書法

本は買って読むべきである。

もらった本はありかたくない。ためになることが少ない。反発することが多い。どこのだれが書いたかはっきりしない本から著者自身も考えていなかったような啓示を受けることがある。本は身ゼニを切って買うべし。そういう本からわれわれは思いがけないものをめぐまれる。

このごろは図書館が整備されているから、買わなくても借り出して読むことができる。昔は考えられなかったことで、社会として誇ってよいことである。

便利になったと喜んでいる人が多いが、少し、考えが足りないように思われる。

図書館の本はタダで読める、というのがすばらしいというのは常識的で、タダほど高いものはない。自分の目で選んで、自分のカネで買ってきた本は、自分にとって、タダで借り出してきた本より、ずっと重い意味をもっている。図書館の好みで入れた本をタダで借りてくるのは自己責任の度合が少ない。もちろん、図書館の本でも感動できる、自分のためにもなる。しかし、自分の目で選んで買ってきて、読んでみて、しまった、と思うことの方が重い読書をしたことになる。

本を選ぶのが、意外に大きな意味をもっている。人からもらった本がダメなのは、その選択ができないからであり、図書館の本を読むのがおもしろくないのも、いくらか他力本願的なところがあるからである。

あふれるほどの本の中から、何を求めて読むか。それを決めるのがたいへんな知的活動になる。いい加減に本を買ってくれば、失敗の方が多いのは当然である。

賢い読者は、その失敗から学ぶことができる。しかし賢い人は用心深いから、失敗をおそれて、しかるべき案内を求める。

これほど本が多くなったら、良書より悪書の方が多いと思わなくてはならない。悪書にひっかかるのを怖れていれば、本など読めるものではない。雑書、俗書、不良本などだって、おもしろいものはあるだろう。おもしろくなければ捨てればいい。

読者はきわめつきの良書、古典のみを読むべきだというのは窮屈である。そういう価値ある本をもとめて苦労するのは愚かだ。

よさそうだと思ったのが、案外食わせものだった、ということだってあるが、それでも心ある読者ならなにかしらを得ることはできる。

読者が本の家来になるのではなく、年下の友人であるという自己規定をすると、たとえつまらぬ本でも、なにがしかの発見は可能になる。

いろいろな点で、読者は著作者より劣っていることが多いけれども、著者はつねに一方的に号令をかけ、命令するような権威者と考えるのは宗教的読書で読者にとって得るところは少ないと考えてよい。

多くの本を読んでいれば、繰り返し読みたくなる本にめぐり会うかもしれない。しかし、それは例外的だと考えた方がよい。実際に何度も繰り返して読む本が五冊か七冊もあればりっぱである。

本は読み捨てでかまわない。

本に執着するのは知的ではない。ノートをとるのも、一般に考えられているほどの価値はない。

本を読んだら、忘れるにまかせる。大事なことをノートしておこう、というのは欲張りである。心に刻まれないことをいくら記録しておいても何の足しにもならない。

占物は心の糧である。

いくら栄養が高いといって、同じものばかり食べていれば失調を来たし、メタボリック症候群になる。過食は病気の引き金になり、ストレスを高める。ストレスがいろいろな病気の原因になることを、おそまきながらこのごろ医学も気がつき始めたらしい。

本についても、過食は有害である。知的メタボリックになる読書があり得る。同じ本を何回も読むなどということは、考えただけでも不健康である。

偏食も過食と同じくらいよろしくない。勉強だといって専門の本を読みすぎると知的病人になりがちである。専門バカはそのひとつである。

健康な読者をのぞむならば、昔の貧しい時代の考えを修正、あるいは、変更させなくてはならないだろう。

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