未唯への手紙

未唯への手紙

OCR化した12冊

2014年05月07日 | 6.本
『生まれたことをどう考えるか』

 生の受動的状況

 1 わたしの生はわたしを超えたところで成り立っている

 2 わたしという謎

『貧困の終焉』

 五百年の遅れを取り戻す--中国の場合

  中国がリードを失った理由

  動乱から急成長へ

  身近で見た中国の急成長

  中国と東欧・ロシアを比較する

  中国の抱える難問

  中国の史上最大のチャンス

 貧困をなくすためのグローバルな協約

  見せかけだけの世界

  二者間の協約

  成功のための計画

  今日のシステムはなぜ一貫性を欠くのか

  ミレニアム開発目標にもとづく貧困削減戦略

  資金計画とミレニアム開発目標資金不足

  援助計画

  公営計画の戦略

  広域インフラストラクチャー

  貧困削減のためのグローバルな政策

  債務危機

  グローバルな貿易政策

  開発のための科学

  環境への責務

  誰が国際的なシステムを指揮するのか?

 私たちの世代の挑戦

  私たちの世代の出番

  反グローバル化運動

  啓発されたグローバリゼーションに向けて

  難題に立ちむかう

  奴隷制の廃止

  植民地主義の終焉

  公民権運動と反アパルトヘイト

  今後の課題

『科学史・科学論』

 技術史断片

『東南アジアを知るための50章』

 べトナム戦争とその後の社会主義経済体制 ★戦場から市場へ★

 世界宗教の地域性 ★東南アジアのイスラーム★

 マハティールとワー・クアンユー ★開発の時代を率いた二人の政治家★

『人間って何ですか?』 

 宇宙は人間に「ちょうどよく」できている

 「時間」「空間」「物質」は同時にできた

 「完全に何もない状態」は物理学的に存在しない

 宇宙の始まりと進化を考える

 人間はなぜ「選ばれた存在」なのか

 宇宙はどこへ向かうのか

『バルト三国の歴史』

 ポーランド・リトアニア「共和国」とスウェーデンおよびロシアの勃興(一五六一~一七九五)

 前門の虎、後門の狼(一九三九~一九五三)

 西への回帰(一九九一~二〇一二)

『資本主義から市民主義へ』

 資本主義論

  貨幣論から法人論ヘ

  会社はモノであって同時にヒトである

  モノでありヒトであることの謎

  法人名目説と法人実在説の戦い

  組織特殊的な人的資産--日本の伝統

  デ・ファクト・スタンダード(事実上の標準)

  『会社の二つの身体』

  産業資本主義の時代

  ポスト産業資本主義の時代

  産業資本主義のイデオロギーとしての社会主義

  マルクスをマルクスによって批判する

  「近代世界システム論」批判

  ドル中心主義とアメリカ中心主義は違う

  しかも、さらに不幸なのは、アメリカ自身も……

  労働価値説によって支配された二百年

 市民社会論

  貨幣論、法人論から、市民社会論ヘ

  仮言命題は社会主義的で、定言命題は反社会主義的である

  人間社会には、物理的な実体とは違う社会的な実体がある

  存在の忘却と貨幣の忘却--ハイデガーとケインズ

  形式的な論理(資本主義)に対する形式的な倫理(カント)

  不完全性定理は真理の新たなあり方を示す

  社会的な実体としての言語・法・貨幣は進化する

  「国家および資本主義を超える何か」としての市民社会

  建設的な虚構が要請されつづける市民社会

『原爆投下への道程』

 テヘラン会談

 ①ルーズベルト、スターリンに惚れ込む

 ②互いの正体(ルーズベルトとスターリン)

 ③四日間の本会議(十一月二十八日から十二月一日)

『改革と反応』

 現在の公立図書館

『新・世界経済入門』

 進行するグローバリゼーション下の世界経済

 グローバル化VS.地域化

 進行する軍事化、根づく市民社会

『ムスリムNPO』

 コミュニティ開啓

 コーテンのNGO世代論

 アーガー・ハーンの開発

 二〇〇二年の調査から

 モスクからコミュニティ開発へ

『肚が据わった公務員になる!』

 日本で最も中途半端なエリート--都道府県職員

 (1) 都道府県職員は、なぜ白けているのか?

 (2) 「県名」には愛着があっても、「県庁」には愛着を感じない住民たち

 (3) プロデューサーの視点で大仕事--「地域ブランドの確立」

 (4) これからの大きな役割は「地域生活の守護神」!

 (5) 国へのご意見番になれ

 (6) たまたま配属された部署が一生を左右する?

 (7) 「学歴」「教育投資」「本人の努力」から見ても、不満だらけの給料

 (8) 都道府県職員の仕事は、なぜ詰めが甘いのか?

 (9) 野心を持ち、異業種交流会を立ち上げる

 (10) どんどん出向し、世界を広げるべし

 (11) 都道府県職員は大学教授を目標に!

都道府県職員 プロデューサーの視点で大仕事--「地域ブランドの確立」

2014年05月07日 | 3.社会
『肚が据わった公務員になる!』より 日本で最も中途半端なエリート--都道府県職員

都道府県職員は何かにつけ中途半端です。それが彼らが白けている一因です。しかし、このまま白けているだけではいけません。都道府県職員独自の仕事の哲学を作り上げ、国や市町村に対抗していかなくてはいけません。

一体、何を仕事の哲学にすればよいのでしょうか? それは国や市町村とは違う中途半端さにヒントがあります。中途半端は弱点であると同時に強みでもあるのです。これを存分に生かすことです。

都道府県職員は住民に直接接するわけではない。そのため、住民から逃げないという哲学はピンとこない。それよりは「広域行政マン」であることをどう生かすかを考えるべきです。

私自身、県庁の課長を経験してわかったことは、県下全域を考えて政策を立案するものの、直接住民と接しないだけに手応えがわからない。唯一感じることがあるとすると、圏域のどこかの市町村から評価してもらった時、あるいは、統計指標や県民アンケートなどから県全体の状態が改善されたのがわかった時などでした。住民ではなく、無機質な統計や市町村の反応から政策の効果がわかる。これは都道府県の宿命かもしれません。

ただ、県下全域での成果となると、市町村と違って、都道府県の政策だけでどうにかなるものではない。例えば、ある都道府県で雇用が増えたからといって、それは都道府県の政策だけが影響を与えた結果とは言えない。民間企業の影響が最も大きく、それに次ぐのが国際経済の影響などであって、国の政策ですらどこまで影響力があるのか怪しい。ましてや都道府県独自の政策など影響は少ないでしょう。そう考えると、都道府県職員が手応えを実感することのできる広域行政はそんなに多くはない。

そんな中で、「これが私たちの仕事だ!」と胸を張れるものがあるとすると、それは「地域ブランドの確立」だと思います。

「○○県と言えば、子育てがしやすい街作りで有名なところでしょ」とか、「〇〇府と言えば、世界遺産とおもてなしで有名なところでしょ」というように、地域ブランドを作り上げていくことこそ、都道府県職員の最大の役割です。

地域ブランドの確立は広域行政そのものです。都道府県下全体を見ていないと、できない仕事です。また、細かなことに一喜一憂するのではなく、長い時間をかけて広域を見るというプロデューサー的な感覚が求められます。しかも、地域ブランドが確立されれば、その都道府県に多大な富をもたらします。都道府県職員以外に誰がその役割を担うことができるでしょうか?

もちろん、地域ブランドは都道府県単独では作れません。各市町村や地域企業、そこに暮らす様々な人が活動して作り上げられていくものです。しかも、それが作られる過程は地味で長い。

ただ、これらの様々な活動を束ねる中心や象徴、戦略を考える頭脳のようなものがないと、地域ブランドは簡単に作ることはできない。それを担うのが都道府県であり、その中核部隊として活動する人々こそ都道府県職員です。

だからこそ、都道府県職員は、「自分たちの一挙手一投足が地域ブランドを形作っていくんだ」という自覚を持つべきですし、市町村や地域企業に働きかけていく時にも、地域ブランドを確立するという広い視点を持つべきだと思います。ゆるキャラでも、知事の知名度でも、持ち家率No.1でも何でもいい。とにかくブランド価値を高めることで、都道府県の価値を高めるのです。

コーテンのNGO世代論

2014年05月07日 | 3.社会
『ムスリムNPO』より コミュニティ開啓

ここまでの議論から、イスラーム的な特性を有するNGOには、慈善の傾向が強いことがわかる。魚のとり方を教えるのではなく、困っている人に「はい、どうぞ」と魚をあげているわけである。ハムダルドによる無料診療やエーディー氏の孤児の養育などは、その典型例である。これこそ、本書のサブタイトルを「信仰と社会奉仕活動」としたゆえんである。しかしながら、奉仕の精神はそのままに、ムスリムNGOが、住民参加やエンパワーメントといった概念を取り込んでいく過程は、どのようなものとなるのだろうか。ムスリムNGOがこれらの概念をどのように取り込んでいくのかを考えることは、そのポテンシャルをはかるうえで重要である。

ここで参与になるのが、デビッド・コーテンのNGO世代論である。コーテンは社会変革を求めるNGOにこそ、絶えざる自己変革が求められているとし、一度成果を出したNGOでも、その成果に安住するならば、たちまち存在意義を失ってしまうと鋭く指摘する。そして、第一世代から第四世代までを提示して、NGOに自らの立ち位置を不断に検討するよう求めている。この議論自体は、宗教的なバックグラウンドの有無は問題にしておらず、日本のNGO関係者にも大きな影響を与えてきた。

このモデルにおいて、第一世代のNGOは目前の切迫したニーズに対応する。食料、保健衛生、そして住居などの不足を補うために、サービスや物品を直接、提供するのである。しかしながら、対処療法では問題の抜本的な解決にいたることはない。

第一世代の課題を解消すべく、第二世代は、自立に向けたコミュニティ開発を開始する。ニーズをかかえた人々が自ら必要なサービスや物品を調達できるよう、その能力向上に焦点をあてる。女性や土地なし農民のグループ結成を推進し、予防的な保健衛生活動や農業研修などをおこなう。

第三世代になると、政策や制度変革をつうじて持続可能なシステムの開発へと向かう。コミュニティ開発での成果を挺に、より広範な地域や国レペルのモデルとして展開をはかる。NGOは、日常的なサービスの提供者から、触発者的な役目をおびるようになる。

第四世代のNGOには、なによりも民衆を動かすヴィジョンが求められる。ほかのNGOや政府とも連携して、地球社会の諸制度の変革に立ち向かう。また、草の根レべルでは、地域に根ざした民衆の運動を育て、そのネットワーキングに力をそそぐこととなる。

コーテンは、NGOに対して、つねに次の世代への変容を求めている。もちろん、第一世代に分類される人道支援--災害や紛争発生時における食料配給や医療サービスの提供--がなくなるわけではない。しかし、NGoが物品を配ることにのみ満足し、(例えば)難民が生じる政治・経済的な原因の解明を怠るならば、社会変革の可能性はきわめて小さなものにとどまるだろう。

ここまで紹介したムスリムNGOは、第一世代のカラーが色濃いものであった。困っている人に助けの手を差し伸べなさいという教えに重きがおかれているのだから、そのような傾向が強くなるのは当然かもしれない。緊急時の食料や物資の配布においては強みを発揮するだろう。しかし、コーテンの世代論から明らかなように、平常時の開発においては、参加や自立、あるいはエンパワーメントといった概念が重要である。「魚をあげる」ことから、「魚のとり方を教える」ことへの転換である。さらには「魚のとり方を、人々がおたがいに教え合うこと」を支援する方向へと、NGOの資源を振り向けよと提言している。この点を具体的に考えていくために、本章では、ムスリムNGOによるコミュニティ開発の事例を見ていきたい。住民参加型のプログラムを実施し、その実績をもとに全国モデルヘの格上げをはかる展開であり、コーテンのいう第二・第三世代にあたる。さらに草の根レベルで民衆の組織を育て、そのネットワーキングに力をそそぐという点では、第四世代にも該当するかもしれない。

カーシェアは共有意識でなりたつ

2014年05月07日 | 5.その他
未唯へ

 今日から、クールビズ用に購入したパンツにしようとしたが、結局、止めました。

スタバのブラックエプロン試験

 スタッフのブラックエプロンの試験は合格者を絞ったみたいです。1000人から800人に。

カーシェアは共有意識でなりたつ

 ワールドサテライトでカーシェアの話をしていたが、あくまでも、タイムズのビジネスとしての展開だった。重要なのは、共有意識をどう持たせるかです。単独のビジネスの話ではない。そうしないと、道路の風景は変わらないだけです。単にもう一つ、余分なものが増えただけの世界です。


分化と統合

 共有意識は存在の力から生まれる。だから、歴史哲学から変えていくしかない。

 未唯空間の3.8分化と統合はまとめに過ぎない。社会編の最後だから、もっと飛躍させないといけない。個人が先か、組織が先か、コミュニティが先か、そんなことは関係なしに同時並行的に進むということをどう表現するか。

 シャアの世界に対して、個人が変わり、組織が変わることで、その間を穴埋めするもの。組織という理念を超えた世界をどう表現するかです。辻褄合わせとしてのツール、後付けとしての理論。

歴史編になかなか行けない

 今日、歴史編まで行くつもりだったけど、行かなかった。明日中に歴史をやるにはどうしたらいいのか?

 何しろ、もう、時間がないから。クライシスが進化を起こすところをどうまとめたらいいのか分からない。歴史編のハイライトです。追い込むしかないでしょう。

先のことは考えない

 先のことを考えるのは止めましょう。どっち道、分からないから。この位の緊張感が丁度いいかもしれない。

精神とは

 精神とは、①実体という直接統一から、②否定による主体の二重化と分裂を経て、③否定の否定により、分裂に媒介された統一に戻る。この運動は「他在において自己自身に帰る反省」と呼ばれる。

 実体は、主体としては純粋で単純な否定性であり、単純なものの分裂、対立させる二重化であるが、相互に無関係な総意と対立は再び否定される。直接的統一そのものでなく、自己回復する同一性だけが真なるものである。